今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1027 久喜(埼玉県)まん丸のケヤキの葉擦れそよぐ風

2022-05-03 14:35:58 | 埼玉・神奈川
「久喜」と聞くと、脱サラをして植木職人になった知人を思い出す。仕事上の付き合いながら、同年輩ということで親しくしていた。その彼が突然「辞めることにした」と言ってきたのだ。40歳を過ぎて植木屋になるという。あまりの畑違いに驚いて「食えるのか」と問い詰めた。「何とかなるさ」と明るく去っていった彼は、久喜から東京・兜町に通勤していた。「久喜の植木屋さん」と想像してみようとするのだが難しい。第一、久喜って何処だ?



久喜は埼玉県東部の街だとは承知している。ただ私はどうも、この「埼玉県東部」というエリアが不案内だ。東京から日光街道を北上すると、千住の先で埼玉県に入り、草加・越谷・春日部と続く。これらの街を繋いで東武伊勢崎線が通じているのは知っているものの、東武線は春日部を過ぎると日光街道を離れ、やや北西に群馬を目指す。この辺りから私の土地鑑は怪しくなって、東武線がJR東北線とクロスする街が久喜だとは思い至らなかった。



久喜町は1971年、市に移行している。人口は3万6千人だった。2010年に隣接する鷲宮・菖蒲・栗橋の3町と合併し、現在の人口は15万人を超えている。埼玉県には40の市があるけれど、久喜は11番目あたりをキープする中堅の街だ。関東平野全体で見ると、そのほぼ中央に位置し、広大な平野の真っ只中であるから、街は全域が平坦である。豊かな水が育んだ土地は農業が暮らしを支えたのだろうが、街を形成する「核」は乏しかった。



旧鷲宮町の鷲宮神社は、自ら「関東最古の大社」を名乗るほどだから、一円の「核」であったろう。中世以来、関東武将に帰依され、歴史書に登場している。旧菖蒲町には足利公方が城を築いた。この菖蒲城が「核」だったのかもしれないが、現在は菖蒲園になっているから、当然、平城で遺構は定かでない。旧栗橋町は江戸時代、利根川渡船場がある日光道中の宿場町として、400軒を超す旅籠や商家が軒を連ねた。その喧騒が堂々の「核」であったろう。



では合併前からの久喜町の「核」は何だったのだろう。街の中心部には久喜藩の陣屋跡が残るが、江戸中期に20年だけ置かれた陣屋より、天明の浅間焼け以来続く夏の豊作祈願「久喜提灯祭り」の八雲神社こそが、町民の心の「核」ではなかったか。そして1885年、東北本線の一部開業に伴って久喜駅が設置されてからは、「駅」が地域の「核」になっていったに違いない。平坦で茫漠とした風景の地は、交通の要衝となる要件がそろっていたのだ。



館林まで行くため、JR線を東武線に乗り換えた久喜駅は、通勤通学の時間帯とあってホームは溢れていた。加須・羽生と進むにつれ乗客は減っていくが、館林まで通う女子高生もいる。県境が入り組むこの辺りは、境界など意識にないのだろう。帰路、久喜駅で下車してみる。東西の駅前広場も、そこを結ぶ駅の連絡通路も、最近は見かけることが少なくなった鄙びた風情だ。ただ東西の広場のケヤキが、いずれも丸く刈り込まれているのは斬新である。



そのケヤキの木陰のベンチで、市民がゆっくり腰を下ろしている。丸いケヤキは、穏やかな時間の流れを象徴するかのようだ。脱サラしたあの知人が、委託されて刈り込んだのだろうかと空想した。広場には「風の見える町」のプレートを掲げる少女像が建っている。髪とスカートをなびかせる少女たちの背後には「健幸(けんこう)・スポーツ都市」の横断幕。風が見える健幸な街はいい。それにしても「久喜」って、どんな意味なのだろう。(2022.4.28)









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