「鶴の舞う岡」なのだろうか、山形県鶴岡市は、地名そのものの響きがいい。広大な庄内平野に入り、遠く鳥海山を望む原を行くと、確かに鶴舞う姿が似合いそうな晴れ晴れとした風景が広がった。「鶴ヶ岡城跡」という公園に着いたのは、日曜日の昼下がりだった。市役所に駐車し、歩いてみる。休日のお役所街は閑散としているものだが、それにしても人の気配が無い。
内川という川を渡ると間もなく、「銀座通り」というアーケード街が延びていた。いかにも地方都市の繁華街といった風情だが、歩いていてどうにも違和感がつきまとう。ここでも人影が、全くといっていいほど途絶えているのだ。気がつけば、ほとんどの店がシャッターを下ろしているではないか。
数少ない営業中の店に入って、所在なさそうな店番の女性に聞いてみた。「ここが鶴岡の繁華街ですか」「ええ、昔はそうでした」「今は?」「郊外に大型店ができて、みんなそこへ買い物に行くんです」。地方都市の、いずこも同じ構造である。モータリゼーションが人の流れを変え、街を移動させたのである。
山形県のような全体が小規模な地域になると、中心都市の山形市にしても、旧来の繁華街を維持することは難しくなってきている。ましてや鶴岡のような地方の中の地方都市となると、限られた人口を旧来の商店街と郊外のロードサイド店で分け合うゆとりは無いのである。
街とは「動く」ものである。城が築かれ、その周囲に武家町が置かれ、その生活の便を図って「市(いち)」ができ商店街が誕生する。そうやって広がっていった街が、やがてマイカー時代を迎え、昔は田んぼしかなかったようなところに「市」が立つようになる。
そうやって中央商店街の寂れぶりが目を覆うようになると、田舎議員たちが、あたかも街が消えてしまうかのように騒ぎ出す。しかしそんなことは無いのである。単に街が移動しただけのことなのだ。重要なことは、古い街をそのまま延命させることではなく、地域全体の活気を失わせないことである。
そこで私は考える。痩せても枯れてもそこは、街の中心域だったところである。インフラは整い、利便性も高い。郊外より地価は高いだろうが、バブルの時期ほどではないはずだ。人が住むようになれば、自ずから日常的な消費をまかなう店が増え、維持されていくことになろう。高齢者には暮らしよさそうだし、勤労世代でも子育てしやすい住環境に違いない。
こうした住民呼び戻し策に税金を投入することは、街への投資だ。将来を考えれば雇用が確保され、税収の増加につながっていくはずだ。役割を終えた繁華街に、「メッセ」とか「センター」とか「?ピタ」などとカタカナ名のショッピングビルを建てても、人々は戻って来ないのである。そうした「あがき」やノスタルジーは捨て、かつての繁華街に住宅団地を建設するのである。
どこかの自治体で、思い切った実験に踏み切ってみないものだろうか。その実験に藤沢周平が描く「海坂藩」の末裔たちが率先して挑んではいけないという理由は無い。街の奥座敷、湯田川温泉の源泉掛け流しにどっぷりつかり、私は無責任な夢を見たのだった。(2005.9.23)
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