今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

213 下関(山口県)・・・フクよりも味わい深き歴史あり

2009-05-10 20:50:11 | 山口・福岡

下関で何に驚いたかといえば、関門海峡の幅の余りに狭いことだった。以前、歩いて門司へと渡ったことがあるのだから、そんなことは承知しているはずだったのだけれど、改めて赤間神宮前の岸壁から、手を延ばせば届くような門司の街を眺めていると、二つの街の関係に思いが広がって見飽きない。そして海面が波ではなく、縞を描いて流れていることに気づき、その流れに逆らって進む船の、喘ぎながら行く様子が物珍しいのだった。

海峡はまるで、徳島の吉野川河口と似たような幅ではないか。海というより、川と言った方が理解が早いかもしれない。本州の西端が下関という街になるわけだが、運河のような海峡を挟んで、九州とは実質的に地続きのようなものだ。だから土地の人には、端っこなどという意識は生まれてこないだろう。中心街の「唐戸」という地名にしても、「唐=外国」への「戸=玄関」だと考えれば、東京などは本州の東奥に過ぎないことになる。

下関市は明治22年に日本に初めての市政が敷かれたとき、他の30市とともに「市」になった有力な街だという。しかしその時点の市名は赤間関市といったのだと、今回の旅に備えて何かで読んだ。日清戦争での下関条約は、この赤間関市時代のできごとだというからややこしい。赤間神宮の北隣りに講和会議が開かれた料亭・春帆楼があり、講和会議の部屋が保存公開されていた。

春帆楼の前庭で写真を撮っていると、日本人ツアーだとばかり思っていた集団が、突然中国語の会話をはじめた。現代中国にとって、日清戦争や李鴻章はどのような位置づけなのか、ドキリとして考えた。会議場に通じる崖の細道を行くと、「李鴻章道」という名が付けられていた。清国の全権大使・李鴻章がテロを避けて通った道だという。100年前の歴史が生々しく迫って来る。

下関という街は、壇ノ浦で平家が滅亡し、宮本武蔵が巌流島へ船を漕ぎ出し、幕末には高杉晋作が下関戦争を指揮して没し、日清戦争の戦後処理の場となり、伊藤博文がフグ食用禁止令を解禁し、林芙美子が生まれ、関釜フェリーで韓国との交易窓口となり、金子みすゞが密やかに詩を書き綴った、なかなか忙しい街なのである。それぞれが深い時間の闇に埋没し、しかし決して忘れられることはなく、街のあちらこちらで碑文を留めている。中で

心打たれたのは、源平の戦いで8歳で入水せざるを得なくなった安徳帝を悼み建てられた赤間神宮である。発起人が思想的にどうであれ、幼児を思う哀れがこれだけの社殿を築いたのだと思うと、なんだかんだ変なことをやって来てはいるけれど、日本人の根っ子には間違いなく「優しさ」というものがある。

こうしたレトロを売り物にした唐戸地区で、大正初期に建てられた秋田商会ビルに立ち寄った。西日本初の鉄筋コンクリートビルだという3階建ては、財力が生み出すエネルギーと、人間の盛衰を考えるに格好の文化財だった。

こうしたビルが残されているのは、街の経済ピークがすでに過ぎてしまったため、取り壊しを免れたのだろう。下関は少しずつ人口を減らしながら、特異の歴史的ニオイを発信続けている。(2009.3.27-28)
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