駒場とは馬に関わる土地のことだから、同じ地名は北海道に多い。ただここでいう《駒場》は東京・目黒区の北端にあって、渋谷区と世田谷区の間に奇妙なほど割り込んでいる地域のことだ。「区界」という言葉があるかどうかは知らないけれど、その不自然な区界からして、そこは人跡よりも駒の足跡が遥かに多く刻まれた広大な疎林であったと推察される。それが時を経て、大学や研究機関、それに裕福な住宅が建ち並ぶお屋敷街になった。
東京23区の境界は、江戸時代の郡や村の跡を残したものだろうから、ここの駒場が目黒区に編入されたことにはそれなりの理由があるのだろう。キャンパスの区画に従って街区が整備され、そこに張り付くようにお屋敷や高級そうなマンションが建ち並んでいる。ところがそうした一角に、屋根瓦の黒光りと漆喰の白壁で構成された蔵造りの日本建築がどっしり腰を据えているのだから違和感が生じないはずがない。日本民藝館だ。
展示されている名品を眺めたくなって時おり出向くのだが、その都度この違和感に戸惑いを憶える。しかしそれは民藝館の責任ではない。創設者の柳宗悦が日光街道沿いの蔵屋敷を買い受けて移築・移住したころは、あたりはまだ「駒場」そのものだったのだろう。昭和11年に開館した日本民藝館は、いかにも「用の美」を収蔵・展示するにふさわしい環境にあったということだ。
しかし、もういけない。「下手もの」が秘める自然な美を味わうには、周囲の環境が進化(悪化)し過ぎた。こんな取り澄ました街区になっては、収蔵品の古丹波や朝鮮白磁も居心地が悪かろう。《民藝》という、美のひとつの在り様を発見してくれた記念碑的美術館である、もっと伸びやかな活動の場を求めることはできないものか。
例えば民藝館を運営する財団法人に対し、東京都や目黒区は街の中央に広がる区立駒場公園への移転を打診してみてはいかがか。その緑地には前田侯の洋館・和館が保存・公開され、民芸とは対極を成す在りし日の日本の美が保たれている。また近代文学館もあって、そこに民藝館が加われば素晴らしい芸術文化ゾーンが完成する。もちろん移転用地は区が提供する。移築費用は、現在の民藝館用地を売却することで十分まかなえるだろう。
ただ豪壮とした長屋門に思うことがある。いささか威圧的に過ぎないか、ということである。まるで城郭を模したような造りは、建築史的には意味があるかもしれないけれど、住宅や展示施設とするには仰々しい。これは民藝館のスター・濱田庄司の益子参考館の長屋門にも共通していることで、民芸運動に関わった人たちの気風というか嗜好は、私の「民芸観」とはかなりのズレがある。
さてこの日、私は民藝館で開催中の河井寛次郎展を観にきた。個人的な鑑賞術として「今日の1点」を選ぶような心地で見て回るのを常としているのだが、さすがに素晴らしい作品が多く、絞り切れなかった。ただ河井寛次郎の真髄は、よく言われる釉薬の見事さだけでなく、基本となる《形》にこそあると確信した。フォルムやバランスを産み出す力は作家の天性である。釉薬は、その形を引き立てる妙薬ともいえる効果を放っている。
旧前田公爵邸のような洋館を探訪することが好きだ。社会が近代化して行こうとする時代の空気が、窓枠や硝子の1枚にまで閉じ込められていると感じるからだ。「坂の上の雲」を見つめていた時代のことだ。(2010.11.10)
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