今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

558 ピサ【Pisa=イタリア】

2014-01-21 13:08:40 | 海外
ピサで名高いのは斜塔だけれど、ドゥオーモを訪ねた私はむしろ洗礼堂の美しさに釘付けになった。周囲の装飾を取り除けば実に単純な形状の建造物なのだが、その単純さが尋常でない。円形の基壇に対する高さの比率が、えも言われぬバランスなのだ。黄金比なのだろうが、それだけでは語り尽くせないほどの、天蓋に向かって収斂して行くドームの安定感と静かなリズム。陶芸に手を染めている私は、この姿を土に写し取りたいと思った。



まるで城塞のような高い塀に囲まれた門を潜ると、まず目に飛び込んでくるのは一面に広がる緑である。建物も広場もすべてが石で固められた教会が多い中で、ヨーロッパで初めて見る土と芝の広場である。そこに白い大理石で統一された洗礼堂、大聖堂、斜塔が並ぶ。なるほど「奇跡の広場」と呼ばれるにふさわしい美しさがある。中世の東方貿易でこの街がいかに繁栄していたか、この空間を目にしただけで一瞬にして理解できる。



フィレンツェから列車でやって来た私たちが、駅前でドゥオーモ行きのバスを探していると、親切なおばさんが3番乗り場だと教えてくれて、「やって来る人の70%は日本人ね」と言った。しかしこの日の観光客は圧倒的に欧米系の人たちが多く、喜々として「斜塔を支えているのは私よ」といったアングルで記念写真を撮っている。斜塔はいってみれば基礎部分の施工が不十分だった失敗建造物であり、そうしたお遊び相手がふさわしい。

(高岡・瑞龍寺)

突然ながら越中・高岡の瑞龍寺を思い出した。山門までは平凡な寺院に見えるのだが、そこを潜ると突然、世界は緑に変わり、黒々とうずくまる堂宇と回廊が視界を引き締める。その光景に私は思わず息を飲んだものだった。「釘付け」になったピサと「息を飲んだ」高岡。こうしたショックを体感できることが旅の幸せである。白いピサと黒い瑞龍寺は、規模こそ異なるものの共に奇跡の美しさを保っている。設計者の心が現れているのだろう。





寺院や神殿といった宗教施設は、建設材料こそ地域の風土によって異なるけれど、所詮は人間の知恵が産み出したものだから、人種や宗教の相違を超えて多くの共通点がある。煎じ詰めれば「荘厳かつ厳粛でありたい」という意思だ。荘厳と厳粛のどちらに比重を置くかはスポンサーの目論み次第だ。だが宗教は、時に宗派間の諍いを生み、殺し合いにまで人間を追い込む。だから宗教空間は、人間の愚かさを顧みる場でもあらねばならない。



宗教の非寛容さの犠牲になった一人がガリレオ・ガリレイだ。この街生まれのガリレオに出会いたいと、彼が学び、教鞭も執ったピサ大学を探した。おおざっぱな地図に従って歩いているのだが、それらしき建物が見つからない。いかにも土地の人、といった感じのおばさんに尋ねると、困ったように考えて「この街すべてです」と言った。教室や学部が街なかの建物に点在していて、どこが大学とは言い難い、ということのようだ。



ドゥオーモ界隈を別にすれば、ピサはいたって静かな街で、ツーリングに向かう若者の集団が、川沿いの道を駆けて行く光景が似合っている。だが隣の駐車場広場では、大勢の黒人の若者が異様に緊張して立っている。入ってくる車に我先に駆け寄り、何かを売ったりチップを得ようとしているらしい。海洋王国の末裔と、貧しさを抜け出せない国の男たちの、この差は何だろう。そんなことを考えるのは、旅人の感傷だろうか。(2013.12.23)



























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