イタリアに行くと言うと、誰もが「いいね」と軽く返事して驚かない。人気の旅行先だからそんなものだろう。だが「ファエンツァに行くんだ」と言うと、今度は「それはどこだ?」とようやく耳を傾けてくる。私は少し自慢げに「陶芸の街なんだ」とつぶやく。案内書にすら載っていない地方の街を知る人は少ない。私もその地の陶芸家、トラモンティの展覧会を観るまで、イタリアに有田や瀬戸のような陶磁産地があることは知らなかった。
イタリアは長いブーツのような形をした半島国家だが、アルプスの嶺々が南下してそのまま半島の背骨となり、つま先へと連なっているから平坦部は少ない。ただブーツの付け根にあたるロンバルディア地方からアドリア海にかけて続く平野は広く、ファエンツァはその南端からやや内陸に入ったところにある。脊梁山脈の麓の小さくて静かな美しい街だ。ここで窯業が大産業化したのは、ひとえにその山から産出する「土」のおかげらしい。
中東などからアドリア海を渡ってもたらされた陶磁の技術は、ファエンツァの土に出会って腰を据えた。見た目は「白土」に近いのだが、焼くとほのかな赤みが生じる。鉄分を程よく含んでいるのだろう、軟らかい印象の焼き上がりになる。ここで発展したイタリア陶磁は、アルプスを越えてヨーロッパ各地に広がって行った。フランスの代表的陶磁器であるファイアンス(faience)焼きは、Faenzaがその名の由来なのだという。
そんな街へ私たちは土曜日にやって来た。市が立つことを調べてあったからだ。駅から20分ほど歩く間、ほとんど出会う人はいなかったのに、中心部の広場に着くと大変な賑わいだった。衣類を山積みしたテントが続く通りと、食料品を売る屋台が並ぶ広場が会場である。その中心には意味不明ながら激しいタッチの焼き物のオブジェがそびえている。注意深く見回すと、建物の壁面の飾りや、表札らしきプレートもすべて陶板である。
簡略な地図を手に、ネットで知った工房を2組の市民を煩わせてようやく見つけた。工房というよりギャラリーのような店で、おじいさんと幼い少年が店番をしていた。早口のイタリア語とつたない英語で会話が成り立っているのかもわからないでいると、少年が突然「日本の方ですか」ときれいな日本語で話しかけて来た。この思いがけなさは私をすっかり動転させ、喜ばせた。少年は「母を呼んできます」と駆け出して行った。
(Zannoni)
その母親が、この街に来て23年になる日本人陶芸家だった。私が失礼にもおじいさんだと思い込んだ親切な男性は、工房の主のサンタンドレアさんで、少年の父親なのだと後で気づいた。奇妙な陶板が気になって尋ねると、この街のZannoniという陶芸家の作品で、街にある国立美術学院の院長を勤めた作家らしい。思い切って日本へ持ち帰ったのだが、サンタンドレア氏の素晴らしい皿を購入するまでは予算に余裕がなかった。
陶磁の街らしく立派な国際陶芸美術館があって、古い出土品から現代作家の前衛作品まで楽しめる。そこで感じたのは、洋の東西の陶芸は、土への姿勢が根っ子から異なるということだ。利休以来の自然の風合いに重きをおく日本と、あくまでも土を道具として形を求める西洋の違いかもしれない。しかし美術館は、本家の東洋に冷淡だ。「おかしい」と言いたかったが、受付で腕組みするおばさんに言い出す勇気は出なかった。(2013.12.21)
イタリアは長いブーツのような形をした半島国家だが、アルプスの嶺々が南下してそのまま半島の背骨となり、つま先へと連なっているから平坦部は少ない。ただブーツの付け根にあたるロンバルディア地方からアドリア海にかけて続く平野は広く、ファエンツァはその南端からやや内陸に入ったところにある。脊梁山脈の麓の小さくて静かな美しい街だ。ここで窯業が大産業化したのは、ひとえにその山から産出する「土」のおかげらしい。
中東などからアドリア海を渡ってもたらされた陶磁の技術は、ファエンツァの土に出会って腰を据えた。見た目は「白土」に近いのだが、焼くとほのかな赤みが生じる。鉄分を程よく含んでいるのだろう、軟らかい印象の焼き上がりになる。ここで発展したイタリア陶磁は、アルプスを越えてヨーロッパ各地に広がって行った。フランスの代表的陶磁器であるファイアンス(faience)焼きは、Faenzaがその名の由来なのだという。
そんな街へ私たちは土曜日にやって来た。市が立つことを調べてあったからだ。駅から20分ほど歩く間、ほとんど出会う人はいなかったのに、中心部の広場に着くと大変な賑わいだった。衣類を山積みしたテントが続く通りと、食料品を売る屋台が並ぶ広場が会場である。その中心には意味不明ながら激しいタッチの焼き物のオブジェがそびえている。注意深く見回すと、建物の壁面の飾りや、表札らしきプレートもすべて陶板である。
簡略な地図を手に、ネットで知った工房を2組の市民を煩わせてようやく見つけた。工房というよりギャラリーのような店で、おじいさんと幼い少年が店番をしていた。早口のイタリア語とつたない英語で会話が成り立っているのかもわからないでいると、少年が突然「日本の方ですか」ときれいな日本語で話しかけて来た。この思いがけなさは私をすっかり動転させ、喜ばせた。少年は「母を呼んできます」と駆け出して行った。
(Zannoni)
その母親が、この街に来て23年になる日本人陶芸家だった。私が失礼にもおじいさんだと思い込んだ親切な男性は、工房の主のサンタンドレアさんで、少年の父親なのだと後で気づいた。奇妙な陶板が気になって尋ねると、この街のZannoniという陶芸家の作品で、街にある国立美術学院の院長を勤めた作家らしい。思い切って日本へ持ち帰ったのだが、サンタンドレア氏の素晴らしい皿を購入するまでは予算に余裕がなかった。
陶磁の街らしく立派な国際陶芸美術館があって、古い出土品から現代作家の前衛作品まで楽しめる。そこで感じたのは、洋の東西の陶芸は、土への姿勢が根っ子から異なるということだ。利休以来の自然の風合いに重きをおく日本と、あくまでも土を道具として形を求める西洋の違いかもしれない。しかし美術館は、本家の東洋に冷淡だ。「おかしい」と言いたかったが、受付で腕組みするおばさんに言い出す勇気は出なかった。(2013.12.21)
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