四日市市の中心部に「鵜の森」という公園がある。満開の桜林を、子供たちが走り回っている。市民のマスク姿を除けば、いつもと変わらぬ平和な風景なのだろう。私は初めてやってきた街を歩き、その公園でしばし疲れを癒している。そして「この街は二度、空襲に遭ったようなものだ」と思い、この平和を得るまでにどれほどの苦労があっただろうかと考えている。「二度」とは、戦争での空爆と、それから10年ほどして街を襲った大気汚染である。
四日市市は人口31万人。三重県最大の街だ。毎月「四」のつく日に市が開かれたのは室町時代に遡るといい、市場と湊で街が形成されていったらしい。江戸時代になると東海道が整備され、陣屋や代官所が置かれ宿場町としても繁盛する。そうした賑わいをベースに、伊勢湾における有力な港としての立地を生かした工業化が進み、石油化学系の巨大コンビナートの街になってきたことはそう遠い昔ではないから、私も大凡のことは知っている。
四日市の中心部は、JRと近鉄の二つの駅を結んで東西に延びる中央通りと、南北に交わる三滝通りを軸に都市計画されている。中央通りはクスノキが、三滝通りは桜が豊かな並木となって、この季節は美しい都市景観を見せている。車線も歩道も広々とした大通りは、1945年6月の大空襲で灰塵と帰した市街地の、復興の軸として線引きされた道路であろう。住宅地、商業地、工業地と地域を区分、住みよい街づくりが計画されたのに違いない。
激しい空襲に晒されたのは、湾岸に海軍の大規模な燃料廠が置かれていたからだろうが、この街は重化学工業の適地なのだろう、戦後は大規模な化学コンビナート建設が進んだ。それは国策であり、四日市は日本の高度成長を支える拠点の街になった。しかしコンビナートは、大気汚染・水質汚濁などももたらし、四日市は公害の街になった。戦後復興を進めた街は、新たな都市改造に追い込まれ、市民は長い公害裁判を闘い続けなければならなかった。
(「四日市公害と環境未来館」で)
敗戦国・日本は、どの街も多くの苦難に直面し、なんとか乗り越えてきた。しかし戦災と公害という二つの艱難に直面した街は少ない。四日市市はこうした歩みを伝えていかなければならないと考えているのだろう、博物館の内に「四日市公害と環境未来館」を設置、公害の発生から街づくりの変遷までを解説している。展示されている「公害マスク」をして登校する児童たちの写真は、今日の感染症予防のためのマスク姿より、いっそう痛々しい。
工場地と市民生活エリアは距離がとられ、緑地帯も設けられるなどして汚染された大気が漂ってくることはなくなった。博物館前の市民公園に建つ「平和の女神像」は、戦災復興7年目に開かれた博覧会で製作された石膏像が基になっており、四日市市民の平和への願いが込められている。女神は腕や頭で狼藉を働く鳩たちに動ずることなく、やや上に向けた視線で街の平和をしっかり見つめる。陽光は桜を散り急がせ、広場は笑顔に満ちている。
15世紀の文書に「四ヶ市庭浦」という地名が記されていると知り、思いついた。「市場」とは本来「市庭」と表記されるべきなのではないか、と。先日訪ねた埼玉県飯能市で、江戸時代に催されていた定期市は、山と里から物産を運んできた人たちが、通りに面した商家の前のスペースを借り、そこで交易を行なったと知ったからだ。そのスペースは「庭」と呼ばれていたという。「市」とは元来露店であり、「市庭」こそがその姿であろう。(2021.4.1-2)
四日市市は人口31万人。三重県最大の街だ。毎月「四」のつく日に市が開かれたのは室町時代に遡るといい、市場と湊で街が形成されていったらしい。江戸時代になると東海道が整備され、陣屋や代官所が置かれ宿場町としても繁盛する。そうした賑わいをベースに、伊勢湾における有力な港としての立地を生かした工業化が進み、石油化学系の巨大コンビナートの街になってきたことはそう遠い昔ではないから、私も大凡のことは知っている。
四日市の中心部は、JRと近鉄の二つの駅を結んで東西に延びる中央通りと、南北に交わる三滝通りを軸に都市計画されている。中央通りはクスノキが、三滝通りは桜が豊かな並木となって、この季節は美しい都市景観を見せている。車線も歩道も広々とした大通りは、1945年6月の大空襲で灰塵と帰した市街地の、復興の軸として線引きされた道路であろう。住宅地、商業地、工業地と地域を区分、住みよい街づくりが計画されたのに違いない。
激しい空襲に晒されたのは、湾岸に海軍の大規模な燃料廠が置かれていたからだろうが、この街は重化学工業の適地なのだろう、戦後は大規模な化学コンビナート建設が進んだ。それは国策であり、四日市は日本の高度成長を支える拠点の街になった。しかしコンビナートは、大気汚染・水質汚濁などももたらし、四日市は公害の街になった。戦後復興を進めた街は、新たな都市改造に追い込まれ、市民は長い公害裁判を闘い続けなければならなかった。
(「四日市公害と環境未来館」で)
敗戦国・日本は、どの街も多くの苦難に直面し、なんとか乗り越えてきた。しかし戦災と公害という二つの艱難に直面した街は少ない。四日市市はこうした歩みを伝えていかなければならないと考えているのだろう、博物館の内に「四日市公害と環境未来館」を設置、公害の発生から街づくりの変遷までを解説している。展示されている「公害マスク」をして登校する児童たちの写真は、今日の感染症予防のためのマスク姿より、いっそう痛々しい。
工場地と市民生活エリアは距離がとられ、緑地帯も設けられるなどして汚染された大気が漂ってくることはなくなった。博物館前の市民公園に建つ「平和の女神像」は、戦災復興7年目に開かれた博覧会で製作された石膏像が基になっており、四日市市民の平和への願いが込められている。女神は腕や頭で狼藉を働く鳩たちに動ずることなく、やや上に向けた視線で街の平和をしっかり見つめる。陽光は桜を散り急がせ、広場は笑顔に満ちている。
15世紀の文書に「四ヶ市庭浦」という地名が記されていると知り、思いついた。「市場」とは本来「市庭」と表記されるべきなのではないか、と。先日訪ねた埼玉県飯能市で、江戸時代に催されていた定期市は、山と里から物産を運んできた人たちが、通りに面した商家の前のスペースを借り、そこで交易を行なったと知ったからだ。そのスペースは「庭」と呼ばれていたという。「市」とは元来露店であり、「市庭」こそがその姿であろう。(2021.4.1-2)
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