今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

626 十和田(青森県)ちょんまげとアートと馬が同居する

2015-03-16 16:03:12 | 青森・秋田
不思議な街を歩いた。青森県十和田市である。鉄道も廃線となった辺鄙な内陸部にあって、乏しい本数のバスに揺られてようやく中心部にたどり着くと、整然と区画された街路が延び、広い舗道に松と桜の古木が見事な並木を創っているではないか。一方、山中にしては合点の行かぬ淀んだ水路が、川というには不自然なほどの直線で街を区切っている。私は面白い美術館があると聞いてやってきたのだが、街自体が十分に面白そうである。



十和田市は街の西端に十和田湖を戴いて、その山系東麓に広がる高原の街だ。十和田湖を生んだ火山の大爆発で灰が厚く堆積した一帯は、痩せて水も無い不毛の大地であり、ろくに樹木も育たない「三本木原」だった。南部藩が開拓
に乗り出したのは1855年(安政2年)。藩士・新渡戸傳が立案した事業計画に新田開発を賭けたのである。開削4年、奥入瀬川上流から10㌔余の通水に成功、2500町歩にのぼる開田への道を拓いた。



以上は市街地のはずれにある新渡戸記念館で仕入れた知識で、青森の子供なら誰もが知っているのだろうが、私は知らなかった。三本木原開拓は昭和に入って国営事業になり、1966年(昭和41年)まで続いて5900haの耕地を生んだ。東からはヤマセが、西からは八甲田颪が吹き付ける、宿命的荒蕪の地での列島最大規模の開拓であった。私が奇妙な思いで眺めた淀んだ水路は、先人の知恵と汗の結晶である「稲生川」なのだった。



新渡戸プランの優れていたのは、新田開発と同時に街を創って人々の耳目を集めたことだった。それによって事業遂行を円滑にし、入植者を招くのだ。その街造りを担ったのは傳の長男十次郎だった。京の市街を模したというその都市計画は、防災や衛生面にまで配慮した碁盤目状の街割りで、明治政府が北海道で進めた街造りに先立つ先見性に富むものだった。何とも見事な新渡戸二代だが、十次郎の3男稲造は、太平洋の架け橋になった。



こうやって生まれた「若いまち」三本木町は、1956年に十和田市に改称、現在の人口は6万4000人と青森県では4番目の規模を維持している。十和田湖観光を別にすれば、米・ニンニク・ゴボウなどの農業の街といってよかろう。開拓の壮大な営みに驚かされた後、この街にもう一つ驚かされるのは、この程度の地方都市が突出した現代アートを街造りに取り入れたことだ。いかなる発想と議論の末にこの英断が実現したのだろうか。



街の中心を、黒松と染井吉野の並木とともに官庁街通りがまっすぐ貫く。かつて「軍馬補充部三本木支部」があった通りは駒街道とも呼ばれ、その記憶は歩道の蹄鉄の列に埋め込まれている。美術館前には花績みの巨大馬がいななき、通りの向かいには草間彌生の水玉模様のキノコ林が。美術館内部は国内外の作家に独立したスペースが与えられ、巨大なおばさんにギョロリと見下ろされたりする。私同様、遠来の鑑賞者が多いようだ。



新渡戸十次郎が通りの「見栄え」に気を配ったという稲生町商店街は、かつての二階建てこみせ造りの町家に替わってアーケードが延び、忍び寄る寂れに負けまいと踏ん張っている。新渡戸傳の墓所「太素塚」では新渡戸三代の像が街を見守っている。かつて市民の間に神社を建てようとする気運が盛り上がり、大きな鳥居が建ったというが、新渡戸家の意向で取りやめになったと聞いた。奥ゆかしさと進取の気風が漂う街である。(2015.3.4)













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