今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

964 下連雀(東京都)老いてなお気分は若い阿波踊り

2021-08-27 09:20:07 | 東京(都下)
三鷹の駅前商店街で、生後80日の赤ちゃんを抱く家族に出会ったのは、3年前のこの季節だった。東京西郊の、鄙びた風情を留める商店街が、年に一度の賑わいを見せる三鷹阿波踊りの夜である。祭りはここ2年、新型コロナの蔓延で中止が続いているけれど、小さな赤ちゃんはすくすく育って3歳を越え、弟もできたという。私は久しぶりに写真を眺め、時間が永遠に待っているに違いない小さな命と、残り少なくなった自分の今を考え合わせる。



お盆が来ると兄の誕生日を思い出す私は、「変わりないかい?」と久しぶりにメールした。兄からは「元気だが確実に衰えている。しかし年齢の現実感がない」と返信が届いた。「これこれ、この感覚は同じだな」と私は可笑しくなった。3歳上の兄が「年齢の現実感がない」というのだから、私もそんな気分でいるのは当然だ、と納得したのである。世間的には後期高齢者になっているのだけれど、未だ「老い」とは何なのか分からない、未熟高齢者である。



肉体の衰えは隠しようがない。鏡を観るたびにシワとシミでたるむ老残と対面することになるし、歩きには自信があった脚が、今では1万歩を超えるとあちこち痛くなる。膝も老いたのだろう、布団から起き上がることが毎度、ひと苦労だ。歯科医の通院頻度が増えて、次第に差し歯が増えていく。髪はそれなりにあると思うのだけれど、妻は「実は、後ろはもはやありません」と忖度しない。そのくせ時が経てば、腹が減るのだから腹立たしい。



このように肉体の老化は顕在化するから隠しようがないのだが、「思考力」に関してはさほど落ちたという実感が湧かない。物事を考えたり読んで判断したり、そうしたことは(自分では)ほとんど衰えを感じないのだ。記憶力や判断力は、肉体より衰える速度が緩いのだろうか。だとしたらその点がポイントで、この肉体と思考力のギャップこそ、兄の言う「年齢の現実感がない」の正体なのではないか。きっと思考力の衰えは、自覚し難いのだ。



だがそのギャップが「老害」の芽であり畑なのである。実例を見たければ、政界や財界にちょっと目を向ければいい。気づかないのは本人だけという悪例がゴロゴロしている。オーストラリア人の高名な考古学者・チャイルドは言っている。「老齢者が、その知識や経験、技能を世に役立たせると証して、学術団体や公共機関、慈善施設、政党などの名誉役員や相談役になるのは、老人支配に陥りがちである。それこそ考えられる最悪の指導形態である」



チャイルドの言う老齢者の境は、65歳である。「それ以降の高齢者は有能な若い者の前進を阻み、後輩を搾取する寄生者に成り下がる」というのである。彼は65歳になると活動していたロンドンを引き上げ、故郷に帰って断崖から身を投じるのである。そこまで過激にはなれないにしても、私としても老害を振り撒く身にはなりたくない。自由に余生を過ごしたいだけだ。そうしているうちに、「現実感のない年齢」が追いついてくるだろう。


若いころと決定的に違うのは夜である。一眠りした深夜、目が覚める。それから明け方近くまでは老人的至福タイムだ。本を読み、書き物をし、世界の今に思いを馳せる。そして訪ねた街を懐かしみ、次の旅を夢想する。翌日に束縛されない老人特有の「マジックアワー」と言っていい。

そういえば下連雀の祭りで見かけたあの赤ちゃんには、女の子のいとこもできたそうだ。3人とも越後・蒲原弁で言うところの「ハツメ」な子供たちらしい。(2018.8.19)








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