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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



大阪市内では、今の季節干潟の上を飛ぶオオソリハシシギを見ることができます。

オオソリハシシギも環境省レッドリスト(2015年)の絶滅危惧Ⅱ類(VU)43種の中に入っています。・・・オオソリハシシギの着地

オオソリハシシギは、大阪府レッドリスト(2014年)でも絶滅危惧Ⅱ類(VU)の中に入っています。・・・着地した先にはアカアシシギ(左)も

オオソリハシシギ2羽とアカアシシギが飛びたちました。

アオサギの横を通過するアカアシシギとオオソリハシシギ

隣の干潟に着陸

アカアシシギの幼鳥2羽に挟まれたオオソリハシシギ

オオソリハシシギ2羽とアカアシシギ2羽は、いずれも幼鳥のようです。

もっとクローズアップしてみました。



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大阪市内にある干潟ではセイタカシギを見ることができます。・・・飛行中のセイタカシギ

セイタカシギも環境省レッドリスト(2015年)の絶滅危惧Ⅱ類(VU)43種の中に入っている絶滅の危険性が増大している野鳥です。・・・セイタカシギの着陸

この干潟には小鳥を獲物とする猛禽類もやってきますので、シギたちは目立たないよう草むらに身を隠しています。

ズームアップ

セイタカシギは3羽いるようです。

さらにズーミング。最も足の赤い個体が成鳥でしょう。

こちらは干潟で餌を探すシギの群れ。先頭で群れを統率しているかのように見えるのがセイタカシギ

セイタカシギ2羽

こちらは足の色が薄いのでセイタカシギの幼鳥でしょう。



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今の季節、大阪の干潟には環境省レッドリストの絶滅危惧Ⅱ類(VU)43種の中に入っているアカアシシギが来ています。

左はアオアシシギに似ていますが、アカアシシギよりも小さいのでコアオアシシギでしょう。

成鳥のアカアシシギの足はもっと赤く、クチバシの付け根ももっと赤く見えるので、これは幼鳥のようです。

足の赤いのがアカアシシギ、手前の足の長いシギはコアオアシシギ、右の大きなシギがアオアシシギ

早朝の干潟で餌を探すアカアシシギの成鳥

クチバシの付け根が赤くなっているので、成鳥であることが判ります。

このアカアシシギ、大阪府レッドリストでは準絶滅危惧指定となっています。つまり大阪では全国(環境省レッドリスト)指定よりも絶滅の危険性が少ないと判断されているようです。

アカアシシギが飛びたちました。

飛行中のアカアシシギの翼の後部(次列風切羽)は白、このポイントを知っておけば他のシギと容易に区別することができます。



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大阪のミサゴが獲物(魚)の狩から帰ってきて、飛びたつまでの様子を紹介しましょう。

ミサゴは環境省レッドリスト2015年の中で、準絶滅危惧(NT)に指定されている魚を主食とする猛禽類です。・・・これから魚の狩りにでかけるミサゴ

海水池の上空を獲物を求めて低空飛行しています。

ミサゴの武器は、鋭い爪のある頑丈な足で、魚を見つけると急降下、水面すれすれで足を水中に向けた姿勢をとって水に飛び込み、獲物を捕まえます。

見事、獲物をキャッチしたミサゴです。空気の抵抗が少なくなるよう、必ず進行方向に魚の頭を向ける姿勢で飛行します。

雷撃機が魚雷を運ぶ姿に似ていることから、ミサゴの魚雷持ちとも呼ばれています。

いつもの食事場所に到着しました。ミサゴは見通しのきく杭の上などで、まず魚の頭から先に食べるようです。

魚の頭を食べ終えたとき、体の大きなアオサギがやってきました。ミサゴは頭の無くなった魚を持って、とりあえず避難します。

頭の無くなった魚を持って避難する途中のミサゴ。これだけ小さくなっても、ちゃんと魚雷持ちしていますね。



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江戸幕府大目付の研究(山本英貴著)の付録大目付一覧によれば、深谷遠江守盛房(500石)は1844年(弘化元年12月)に73歳で昇進、1854年(安政元年6月)まで10年間在職して83歳で御役御免となっています。その深谷盛房のことをモズの写真と一緒に紹介しましょう。

江戸幕府大目付の研究には大目付就任時の年齢は「寛政重修諸家譜」によるとあるので、これに従って年齢を数え年とすれば1772年(明和9年・安永元年)に生まれたことになります。

ただし、深谷遠江守盛房をウイキペディアで検索すると1767年(明和4年)~1854年(嘉永7年)とありましたので、「寛政重修諸家譜」とは5年の誤差がありますが、これを正とすれば大目付の御役御免時の年齢が88歳となるので、1772年生まれが正しいのではないかと思います。

ウイキペディアを参照すれば、深谷盛房は1783年(天明3年・12歳)長兄が早世したため、深谷家(500石)を継ぎ、徳川家斉(1773~1841年)が将軍を襲封(1787年・盛房16歳)すると重用されたとあります。

深谷盛房は徳川家斉とほぼ同年代です。1797年(寛政9年・26歳)に小納戸役となっていますが、小納戸役は将軍に近侍する機会が多く、才智に長ける者であれば昇進の機会が多い役職だったことが知られていて、盛房も同年代の家斉からその才能を認められたのでしょう。

1819年(文政2年・48歳)二丸留守居(役高700石)、1831年(天保2年・60歳)京都町奉行(役高1500石)、1837年(天保8年・66歳)勘定奉行(役高3000石)、高齢となっても順調に出世を続けているのは将軍家斉の引きがあったからでしょう。

深谷盛房より1歳年下の徳川家斉は1841年に亡くなりますが、盛房は1844年(弘化元年・73歳)に大目付(役高3000石)に昇進、1854年(安政元年6月)までの10年間その地位にありました。

大目付深谷盛房は、幕府海防掛も兼任、1853年(深谷82歳)のペリー来航時にはベテラン官僚らしく穏便な対応を主張したと伝わっています。

在任中の盛房は、幕府重職の中でもっとも経験豊富な人物として一目置かれていたようですが、能力さえあれば73歳の高齢者でも重職に付けていた江戸幕府の人事には驚かされました。

参考文献:江戸幕府大目付の研究 山本英貴著



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10月ともなると、近所の公園から大阪府の鳥「モズ」の鳴き声が頻繁に聞こえてくるようになりました。

ズーミングしてみると♀のモズでした。

モズは、秋になると高鳴きと呼ばれる激しい鳴き声を出して縄張りを主張するようになります。・・・必死に高鳴きしているモズ

この♀のモズが縄張り主張しているエリアに他のモズが入ると、♂であっても激しく攻撃されることになります。

日本では普通のモズ以外に、チゴモズ、アカモズ、セアカモズ、モウコアカモズ、タカサゴモズ、オオモズ、オオカラモズと、計8種類のモズの仲間がいることが「日本の野鳥650」に記載されていました。

さて、モズを写真に撮って帰る途中、ふと夕日を見ると、左側の雲が円弧状に明るく光っているではありませんか。

そこを拡大して見ると、太陽に近い方が赤、遠い方が紫色という虹色になっています。幻日と呼ばれる自然現象でしょう。

幻日は雲の中に氷晶があるときに太陽光線が反射されて太陽から22度離れた位置が最も光って見える現象です。・・・しばらくすると左側の光る円弧は上下に伸びてゆき、夕日の周囲を取り囲むようです。

これが先日大阪で見ることができた幻日の全景です。なかなか見事な天空のショーでした。

参考文献:「日本の野鳥650」 大西敏一 五百澤日丸著



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幕府大目付に就任した人達の年齢が下記の参考文献に出ていましたので、大阪府レッドリストの準絶滅危惧(NT)に指定されているコアオアシシギの写真と一緒に紹介しましょう。・・・左はアオアシシギ右がコアオアシシギ

第3代徳川家光から第12代徳川家慶までの間で、就任年齢が判っている大目付就任者は124名、そのうち65歳以上の高齢者が何と30名(24%)もいます。

就任時55歳以上という条件なら76名(全体の61%)、大目付が幕府官僚として相当の経験を積んだ人物から選ばれていて、人生50年といわれた当時でも、55歳と言う年齢は問題とならなかったようです。

最も高齢で就任したのは、1816年(文化13年)に大目付となった曲淵甲斐守景露(2000石)で、79歳で昇進して81歳で一橋家家老に移動しています。さらに1818年(文政元年)には朝比奈河内守昌始(500石)が76歳で昇進して83歳で西丸留守居に移動した記録があります。

1822年(文政5年)には織田信濃守信節(1200石)が73歳で昇進して82歳で留守居に移動、1829年(文政12年)には佐野肥後守庸貞(700石)が74歳で昇進して79歳で西丸槍奉行に移動しています。

1833年(天保3年)には土屋紀伊守廉直(1000石)が74歳で昇進して83歳で留守居に移動、1842年(天保12年)には松平豊前守政周(600石)が70歳で昇進して76歳で清水家家老に移動しています。

1846年(弘化元年)に深谷遠江守盛房(500石)は73歳で昇進、10年間在職して83歳で御役御免。ウイキペディアにある盛房の生没年(下記資料と食い違っている)が正しければ89歳まで大目付として在職していたことになります。

19世紀以降に限れば、曲淵甲斐守景露から篠山摂津守景徳(1852年就任)まで28名が大目付となっています。そのうち7名(25%)は、就任時に70歳を超える高齢者で、その平均在職期間は約7年でした。

ところで、今の70歳以上の高齢者ですが、まだまだ元気に働ける人は多いと思います。江戸幕府のように80歳を過ぎてもちゃんと働く場所がある社会であれば、日本はもっと良くなるのかも知れません。

参考文献:江戸幕府大目付の研究 山本英貴著



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先日御目付のことを紹介しましたので、大阪に来ているオオソリハシシギの写真と一緒に続いて大目付のことも紹介しましょう。江戸幕府の大目付(定員5名)は、大名の監視、幕府法令布告、殿中大名席の決定、道中奉行、鉄砲改掛、日記掛、分限帳掛、宗門改掛を兼務分掌するなどの職務がありました。

初期には大名からも選ばれていましたが、後に石高1000石未満の旗本の中からも選ばれるようになり、役高3000石、御目付の三倍の役高がある高級幹部職でした。

歴代大目付124名の就任時石高を調べてみると、500~1000石が34名、1000~1500石が30名、1500石までが52%を占め、在任中は石高と役高との差額が追加で支給されています。

大目付は作事奉行・勘定奉行・江戸町奉行などの中から優秀な人物が任命され、辞任後は旗本の最高職とされる江戸城留守居(役高5000石)へも昇進したことが判っています。

また旗本でありながら万石級の大名を監視することから、その在任中は万石級の格式を与えられ、「守」の官位が叙任されています。

京都所司代・大坂城代等と同様に将軍を代理する立場にあり、先日紹介した目付の上位に位置し、その権威は高いものでした。

江戸時代中期になると、大名の監察官としてよりも、幕府命令を大名に伝える広報官、江戸城中での儀礼官としての色彩が濃くなり、名誉職・閑職とみなされるようになっていったようです。

そのせいか大目付に就任した年齢を見ると、意外と高齢の旗本が選ばれていたことに驚きます。ウイキペディアによれば大岡越前守の後任の江戸南町奉行だった松波正春(1665~1744年)は、1739年に数え年74歳で大目付となり在任中に80歳で亡くなったとあります。

しかし下記参考文献によれば、松波筑後守正春は1739年(元文4年)に65歳で大目付となり在任中に死去となっています。ウイキペディアと9歳も違いがありますが、どちらが正しいのでしょうか。

参考文献:江戸幕府大目付の研究 山本英貴著



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昨日の記事は大阪のセイタカシギでしたが、もっと近くからセイタカシギを見たいという方のご要望に答え、クロエリセイタカシギを紹介しましょう。

すべて神戸ポートアイランドにある神戸どうぶつ王国で写したクロエリセイタカシギの写真です。足の長さや体つきはセイタカシギと非常に良く似ています。

当然、歩き方もそっくりです。

上から見ると長い初列風切羽が尾羽の上で交差していて、セイタカシギの飛行能力が高いことが判ります。

黒襟と書きますが良く見ると単純な黒ではなく、緑色がかった複雑な構造色をしています。セイタカシギも同様な特徴があるようです。

クロエリセイタカシギの目の虹彩は赤、セイタカシギ成鳥の虹彩も赤ですが、干潟のセイタカシギは遠くてそこまで判別するのが困難なのです。

本来のクロエリセイタカシギの分布域はアメリカ大陸ですが、日本には動物園の展示用などとして移入され、奈良、京都、大阪などで野生生息が確認されています。・・・クチバシは、セイタカシギよりやや太く見えます。

どうやら個人によって2001年頃に数十羽から数百羽のクロエリセイタカシギが意図的に放鳥された可能性があるようです。・・・顔をズーミングした写真を見ると、目の虹彩が赤であるのが良く判ります。

それ以降、クロエリセイタカシギと日本のセイタカシギとの交雑が懸念されていますが、2004年に大阪で営巣が確認されたセイタカシギにクロエリセイタカシギの特徴が顕著に現れていたため、すでに交雑が起きている可能性が心配されています。・・・この写真は少し大きすぎました



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先月から大阪の干潟に飛来してきているセイタカシギです。最も絵になる干潟の野鳥のひとつでしょう。

ズーミングしてみると、手前の個体の足はピンク色、奥の個体の足は黄色、この足の黄色い個体は幼鳥でしょう。右はアオアシシギ

下の写真でも左の足はピンク、右は黄色(幼鳥)、その中央にいるのはオオソリハシシギ

偶然、セイタカシギが3羽飛ぶ姿を撮影できました。最後尾の個体の足だけがピンク色をしています。

これも同じセイタカシギです。セイタカシギは環境省レッドリスト(2015年)の絶滅危惧Ⅱ類43種に指定された1種です。

先頭ノセイタカシギは足がピンク翼は黒ですが、その後ろのセイタカシギは足が黄色で次列風切羽先端が白い線となってます。これは第一回冬羽のセイタカシギ(幼鳥)の特徴でしょう。

カワウと一緒にいるセイタカシギの足は薄いピンクでした。

カワウとカルガモに囲まれた中のセイタカシギ。セイタカシギはこういう環境の中にいることで安心感を覚えるのでしょう。

干潟にはセイタカシギだけでなく、アオアシシギ4羽やソリハシシギ1羽(左から2羽目)の姿もありました。



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江戸幕府御目付の仕事を、近所のイソシギの写真と一緒に紹介しましょう。

幕府御目付の伝馬町牢屋(今の刑務所)見回りは月に一度だけですが、配下の御徒士目付と御小人目付に命じて毎日牢屋見回りをさせていました。牢屋の施設から牢屋役人の勤務ぶり、入牢している囚人の状態など、隠蔽体質のある牢屋役人の過怠を監察する意味で、彼らは時間を決めずに随時見回をしたようです。

江戸時代の下級役人には賄賂がはびこっていて、町奉行所同心(同じ下級役人)の見回りには牢屋役人は平然としていましたが、御徒士目付の見回りには戦々恐々としていたようです。

御徒士目付は、牢内の囚人に「何か申し立てることはないか」と直接声をかけることがあり、その際に「お願いがございまする」と名乗り出る者があると、その囚人を呼び出し、申し立ての要点を聞くなど、牢役人から囚人を保護する配慮までしていたといいます。

幕府の組織を継続させる意味で御目付が杓子定規ではなかったという好例に「養子判元見届」という仕事がありました。

幕法によって旗本・御家人の家督相続は、当主が先に届を出しておく必要がありましたが、大病や急病死などでは届出をしていなくても養子願いが許されることが慣例となっていました。

養子願いをした病人がすでに絶命している場合、その家人や親族は病人が生きているように装い、枕元に屏風を立てて御目付を病人の座敷に招くことがありました。その際の御目付は、不自然であっても家族の演技をそのまま受け入れていたといいます。

親戚の代表が家督相続願書を差出し、当人(既に死亡している)が病気のために筆を取れないので押印だけで済ます許しを願い、屏風の向こうで本人が押しているかのように装いながら(親戚が実印を押し)願書を御目付に差し出します。

御目付は、当人がすでに病死していると判っていても有効な届(養子判元見届)が完了したとして、家督相続を認める処理をするのが習わしとなっていました。

 参考文献:江戸時代 御目付の生活 寺島荘二著



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江戸幕府譜代の旗本で、布衣(従六位)以上の身分があり、かつ家禄500石以上でなければならないと決められていた御目付についての続きを近所のアオアシシギの飛行写真と一緒に紹介しましょう。

御目付は、各種上書、布令、下達書などの書類作成を担当するため、文筆に堪能、頭脳明晰、判断力に富み、弁舌がさわやか、教養識見があり、身体強健であることが必須条件とされていました。

新任御目付は、江戸城で、筆頭御目付と同僚の前で誓詞に署名しますが、その中には「仮令(たとえ)、老中の事たりとも、非曲あらば言上すべし」という一文がありました。浅野内匠頭の即日切腹という幕府裁定の際、御目付多門(おかど)伝八郎重共が(喧嘩両成敗ではないとして)異を唱えたのが好例でしょう。

そのために御目付は、老中、若年寄の幕府最高首脳部、治政に参画する寺社奉行、江戸町奉行、勘定奉行の三重職、大名を監察する大目付に次ぐ重い役職とされ、尊敬されていました。・・・アオアシシギが小魚をキャッチ

御目付になると、旗本・御家人をみだりに訪問することは止められ、外泊もきびしく戒められ、人から進物贈与を受けることは厳禁、遊所盛り場への出入りも禁止、武士の典範となるよう清廉潔白を保ち、自らを厳しく律することが求められています。

直属の御徒士目付と御小人目付の他、江戸城本丸表と奥の火の番、太鼓役、貝役、玄関番、中の口番、膳所組、台所組、小間使、黒鍬組、駕籠者、掃除者、雑用中間、提灯奉行、伝奏屋敷留守居、浜御殿奉行などが御目付けの監督下にありました。

江戸幕府の旗本、御家人の数(1705年の御家人分限帳)は、御目見以上5331人、御目見以下17213人の合計22544人、このうち御目付の下役となる官吏は約4000人程度いたと考えられています。

従って御目付は、2万人を超える旗本、御家人の監視、政務全般の監察、4000人の部下を監督する管理職としての役割を持つ重職だったのです。

御目付の役料(1000石)は高禄ではありませんでしたが、その権勢は幕府の中で抜きん出ていて、優秀な旗本は、いつかは御目付になりたいと切に願ったようです。・・・アオアシシギとイソシギ

 参考文献:江戸時代 御目付の生活 寺島荘二著



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270年間も続いた徳川幕府のガバナンス(不正行為・不祥事予防とその発生時対応)を担当していた御目付(定員10名)のことを昨日に続いて近所のアオサギの写真と一緒に紹介しましょう。

巨大な江戸幕府で広範囲の職掌があった御目付(昨日は目付としましたが、当時は御目付と呼ばれていました)の手足となって働いたのは御徒士(おかち)目付と御小人(おこびと)目付です。

御徒士(1組28人が20組前後=総数560名前後)は、御目見え以下の軽輩(70俵5人扶持以下)で、御徒士全体を監察するのが御徒士目付(3~4組、総数60~90名)、御目付が赴くところ数人が随行して助手を務めています。

御徒士目付は軽輩ですが、御目付の助手に上がれるため、御目見え以下第一の励み場とされ、平の御徒士はなんとかして御徒士目付に出世したいと願っていたようです。また優秀な御徒士頭(旗本)から御目付に抜擢される例も多かったようです。

御徒士よりもさらに軽輩(15俵1人扶持程度)の御小人(おこびと・450~500名)から選ばれたのが御小人目付(100名)で、御徒士目付には御小人目付が部下として2人ほど付いて隠密探索に従事していたそうです。

町奉行組織に例えれば、与力に相当するのが御徒士目付、同心に相当するのが御小人目付と言えるもかも知れません。

諸大名が城郭、城塁などの修繕について幕府に出願すると、御用部屋から御目付に調査方の下命があり、御目付は御小人目付をその大名の領地に赴かせ、実情を探索させています。御小人目付は、町人、八百屋、職人、巡礼などに変装し、身軽に遠国に出かけたようですが、身分の低い御小人目付の方が隠密として適任と考えられていたのでしょう。

なお、特に重要な隠密探索には、御小人目付二人を、当番御目付の前に呼び、功罪両方面の探索方を別々に命じたといいます。

また下級旗本を布衣以上(従六位相当の叙位者)に補任する際には、候補者の行状調査が御徒士目付とともに御小人目付にも命じられることがあったようです。・・・これはダイサギ

 参考文献:江戸時代 御目付の生活 寺島荘二著

 



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豊洲市場のことで東京都のガバメントが問題となっていますが、徳川幕府には目付という監査員がいて組織のガバナンスを担当していました。その目付けについて調べてみましたので、近所に来ているアカアシシギの写真と一緒に紹介しましょう。<・・・>が文献からの引用です。

ウイキペディアには徳川幕府の目付について<1617年に設けられ、定員10名、役高1000石。若年寄が管轄し、旗本、御家人の監視や、諸役人の勤怠などをはじめとする政務全般を監察した>

<有能な人物が任命され、老中が政策を実行する際も、目付の同意が無ければ実行不可能であり、将軍や老中に直接不同意の意見を述べる事ができた>とあります。

その職分は、旗本以下の諸役人すべての取り締まりに任じる一方、政事にかかわることも多く、上司(若年寄や老中)から諮問されることに対して意見書をもって上申、常に上司が納得できる意見を提出できる能力が求められていたようです。

有能な目付からは、町奉行、勘定奉行などへの出世の道が開けていたようで、遠山の金さんで有名な遠山景元の父「遠山景晋」は、51歳で目付に昇進、長崎奉行、作事奉行、勘定奉行(役高3000石)にまで昇進しています。

目付としての任務には、諸大名・旗本の登城日前後の監察、将軍外出の際の供奉警護状況の見届、重大事件の審議を取り扱う評定所や寺社奉行、勘定奉行、町奉行などの内部会議への列席、火事の際の幕府定火消、大名火消などの監視、旗本と大名家との紛争調査などがありました。

また臨時検使役(忠臣蔵で有名な浅野内匠頭切腹や赤穂城受取など)、諸国検地の監察、長崎貿易への派遣視察、国防のための辺地探検も担当していました。

浅野内匠頭切腹という処分について、目付の多門重共は、老中の決定を批判する意見書を提出、意見書は却下されますが、その行為は目付の職分に忠実であったと称賛されています。

さらに浅野内匠頭切腹の際に副検使役だった多門重共は、切腹の場所が庭先であったことで、「作法に反する」と抗議しますが正検使役(大目付)が強行したことで、正検使役は大目付を罷免させられています。・・・前から2羽目がアカアシシギ

 参考文献:江戸時代 御目付の生活 寺島荘二著



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今の季節、大阪市にある干潟では、越冬地に向かう途中の旅鳥タカブ(鷹斑)シギが栄養補給に立ち寄っています。

シギ科クサシギ属に属するタカブシギ(体長20cm)は、環境省レッドリスト2015年の絶滅危惧Ⅱ類(VU・アホウドリやタンチョウなどと同じ)に指定されている希少種です。

勿論、大阪府レッドリストでも絶滅の危機が増大しているとして絶滅危惧Ⅱ類に指定されています。タカブシギの羽の模様が鷹の羽の模様に似ていることから鷹斑シギとなったようです。

こちらは同じ属のクサシギ(体長22cm)ですが、クサシギは環境省レッドリストの指定は無く、大阪府レッドリストでは準絶滅危惧(NT)に指定されている野鳥です。

タカブシギは夏にユーラシア大陸北部で繁殖し、アフリカ、インド、東南アジア等で越冬することが知られています。・・・後ろ姿

従って、東南アジアなどへの長距離飛行に備え、大阪でしっかり栄養補給をしているのでしょう。・・・このタカブシギは、白い眉班が明瞭なので幼鳥。

体長わずか20cmほどのタカブシギが、シベリアと東南アジアを毎年往復しているとは驚きですね。

こちらは同じ日に見たアオアシシギ(体長35cm)で、アオアシシギも大阪府レッドリストの絶滅危惧Ⅱ類に指定されています。

アオアシシギの繁殖地と越冬地は、タカブシギとほぼ重なっているようなので、ひょっとするとタカブシギとアオアシシギは、これから越冬地に向けて一緒に旅立つのかも知れません。

 



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