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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



豊洲市場のことで東京都のガバメントが問題となっていますが、徳川幕府には目付という監査員がいて組織のガバナンスを担当していました。その目付けについて調べてみましたので、近所に来ているアカアシシギの写真と一緒に紹介しましょう。<・・・>が文献からの引用です。

ウイキペディアには徳川幕府の目付について<1617年に設けられ、定員10名、役高1000石。若年寄が管轄し、旗本、御家人の監視や、諸役人の勤怠などをはじめとする政務全般を監察した>

<有能な人物が任命され、老中が政策を実行する際も、目付の同意が無ければ実行不可能であり、将軍や老中に直接不同意の意見を述べる事ができた>とあります。

その職分は、旗本以下の諸役人すべての取り締まりに任じる一方、政事にかかわることも多く、上司(若年寄や老中)から諮問されることに対して意見書をもって上申、常に上司が納得できる意見を提出できる能力が求められていたようです。

有能な目付からは、町奉行、勘定奉行などへの出世の道が開けていたようで、遠山の金さんで有名な遠山景元の父「遠山景晋」は、51歳で目付に昇進、長崎奉行、作事奉行、勘定奉行(役高3000石)にまで昇進しています。

目付としての任務には、諸大名・旗本の登城日前後の監察、将軍外出の際の供奉警護状況の見届、重大事件の審議を取り扱う評定所や寺社奉行、勘定奉行、町奉行などの内部会議への列席、火事の際の幕府定火消、大名火消などの監視、旗本と大名家との紛争調査などがありました。

また臨時検使役(忠臣蔵で有名な浅野内匠頭切腹や赤穂城受取など)、諸国検地の監察、長崎貿易への派遣視察、国防のための辺地探検も担当していました。

浅野内匠頭切腹という処分について、目付の多門重共は、老中の決定を批判する意見書を提出、意見書は却下されますが、その行為は目付の職分に忠実であったと称賛されています。

さらに浅野内匠頭切腹の際に副検使役だった多門重共は、切腹の場所が庭先であったことで、「作法に反する」と抗議しますが正検使役(大目付)が強行したことで、正検使役は大目付を罷免させられています。・・・前から2羽目がアカアシシギ

 参考文献:江戸時代 御目付の生活 寺島荘二著



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