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江戸幕府大目付の研究(山本英貴著)の付録大目付一覧によれば、深谷遠江守盛房(500石)は1844年(弘化元年12月)に73歳で昇進、1854年(安政元年6月)まで10年間在職して83歳で御役御免となっています。その深谷盛房のことをモズの写真と一緒に紹介しましょう。

江戸幕府大目付の研究には大目付就任時の年齢は「寛政重修諸家譜」によるとあるので、これに従って年齢を数え年とすれば1772年(明和9年・安永元年)に生まれたことになります。

ただし、深谷遠江守盛房をウイキペディアで検索すると1767年(明和4年)~1854年(嘉永7年)とありましたので、「寛政重修諸家譜」とは5年の誤差がありますが、これを正とすれば大目付の御役御免時の年齢が88歳となるので、1772年生まれが正しいのではないかと思います。

ウイキペディアを参照すれば、深谷盛房は1783年(天明3年・12歳)長兄が早世したため、深谷家(500石)を継ぎ、徳川家斉(1773~1841年)が将軍を襲封(1787年・盛房16歳)すると重用されたとあります。

深谷盛房は徳川家斉とほぼ同年代です。1797年(寛政9年・26歳)に小納戸役となっていますが、小納戸役は将軍に近侍する機会が多く、才智に長ける者であれば昇進の機会が多い役職だったことが知られていて、盛房も同年代の家斉からその才能を認められたのでしょう。

1819年(文政2年・48歳)二丸留守居(役高700石)、1831年(天保2年・60歳)京都町奉行(役高1500石)、1837年(天保8年・66歳)勘定奉行(役高3000石)、高齢となっても順調に出世を続けているのは将軍家斉の引きがあったからでしょう。

深谷盛房より1歳年下の徳川家斉は1841年に亡くなりますが、盛房は1844年(弘化元年・73歳)に大目付(役高3000石)に昇進、1854年(安政元年6月)までの10年間その地位にありました。

大目付深谷盛房は、幕府海防掛も兼任、1853年(深谷82歳)のペリー来航時にはベテラン官僚らしく穏便な対応を主張したと伝わっています。

在任中の盛房は、幕府重職の中でもっとも経験豊富な人物として一目置かれていたようですが、能力さえあれば73歳の高齢者でも重職に付けていた江戸幕府の人事には驚かされました。

参考文献:江戸幕府大目付の研究 山本英貴著



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