日本を訪れた3年前の蒸し暑い夏の朝。日の出と共にニーニーゼミが鳴き始め、もっと寝ていたいのにうるさくて眠れない...そんな境遇の中でテレビのスイッチを入れた。
何気なくスクリーンを観ると作家の倉本聡氏が無言で手に持ったスケッチブックに鉛筆を走らせていた。カメラがに焦点を会わせてズームアップすると鉛筆を持った氏の先にはなにやら目の真にある一本の木が。カメラはゆっくりと回る。
『倉本さんこれは何を書いておられるのですか?』
『木だよ。』
『...』
『木は面白いからねぇ...』
のような会話だったと思う、詳細は覚えいない。
覚えているのは、目の前の幹の太さ20センチ程の小さな普通~の木を(広葉樹だった)を静かに見つめながら視線を画用紙に移すを繰りかえす氏の作業風景であった。
ただこれだけの事なのだけど、なぜかその印象は頭の隅に残り続けた。
いったい倉本氏は、木を見てて何を観ていたのだろうか?
木が面白い、その心は何?
春が始まった、近郊の森を歩くのは楽しい。
木に話しかける。
その幹の表目に触れると、木は生命体であり生きているエネルギーを感じる。
木を通じて感じる聞こえない感じるだけの言葉は全てポジティブである。それは優しさや友情や共に生きて行こうとする励ましの声と共に実に包容的で母性に満ちている。だから僕は森の中に身を置くと気持ちが良いと感じるのかも知れない。
先週の新聞に載った木の断面図、これはアートとして掲示された。
これを見るとまさに人の人生の縮図そのものじぁーないか!
と思った。
一筋縄ではない、成長と共に多様な試練や苦闘を経験して来ている。
同時に...家族や、会社組織、国家、或いは世界のアーカイブかな。
森の木木は一見穏やかに見えるのだが、その内には生きるために必死でもがいて生きようとするもう一つの姿があるのだという事を感じた。
...
倉本氏は木はおもしろい、としてこの木の持つ内面を伝えたかったのかどうかは定かではないが、木を見てその中、背後、奥に存在する何かを観ていたのは間違いないだろう。
どこにでもある木、
毎日見ているが...、
木を見るという事は実は深い意味があるのだと知る、
そんな事を思いながらまた今日も森を歩く。