ロクマルでいこう、60でGo!

" AS SLOW AS POSSIBLE AND AS FIRST AS NECESSARY "

夏の終わり 誰もいない自然公園

2021年09月09日 | 日記

 奈良県の吉野の南に位置する大嶺山を縦走する前日の夜中、林道の端に車を停めて渓谷の河原にテントを張り眠りについた。やがてテントを叩く雨の音で目が覚めた。隣のテントで寝ていた山岳隊長が、急いでテントを畳んで車に戻る様に指示を出した。雨は激しくなり水が増水してきているのが分る。我々が車に避難してまもなく、先程テントを張っていた場所は水が流れ出しやがて激流となった。安全な所へ移動する目的で車を走らせたが、路上を塞いだ土砂崩れで走行不可、Uターンして走り出したが再度土砂崩れに遭遇して脱出不可能となり万事休す展開となる。雨が止んで辺りが明るくなってくる頃に窮屈な車内で深い眠りに落ちた。朝の7時過ぎ重機の音で目が覚めた。土砂を撤去して下さった方々に御礼の挨拶をすると、この辺りはしょっちゅう起こるのでいつも待機しておる。という事であった。

 ニューヨークにアイダと呼ばれた熱帯低気圧が豪雨をもたらしてから一週間が過ぎた。40人以上の死者が出る程の豪雨と洪水で、地下鉄は水に浸かり道路は陥没した。多数の爪跡が残り多数の車が水に浸かった。閉鎖されたパリせードインタースティツパークの中の荒れたトレールを走りながら考えた。もしも、この山道のトレールの途中で豪雨に襲われたら何処に身を守るのか、どうやって逃げるのか?トレールには土砂と激流が流れ込み移動に困難をきたし孤立するであろう。非常に危険な状況を想定し、結論として、森には入ってはいけないと強く感じた。

 今回のドラム缶をひっくり返した様な豪雨で大峰山の麓の河川での一夜を思い出した。あの時のリーダーの適切な判断で事無きを得ることが出来たのであった。リーダーの判断は、逃げろ!であった。逃げて正解であった。逃げるというのは一つの技である。今後も生きていれば何処かで水による災いに遭遇するかもしれない。大雨の警告が出たら絶対に森に入ってはいけない。逃げるという事は避けるという事でもある。これは刺激を求める自分への警告である。最近は携帯を持っていると常に警告が送られてくるので、昔に比べると災いに対する警告を事前に知ることが出来る。ニューヨークでの大きな水害は約10年振りであった。

 

パリせードインタースティッ公園を管理するグリーンの Ford F-250.

 

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木の声を聴く

2021年09月06日 | 日記

 AI(人工知能)の研究開発が進んでいる。AIは便利な様でもあり、同時に脅威でもある。脅威だと感じる理由は人間が開発したコンピューター頭脳(機械)が人間以上の知力を持ち、これを活用して国家や特定の企業が人間社会を支配操作する世の中が出来てしまう事である。そういった懸念を抱きながらも、この現実はもはや後戻りする事はない。

 夏は陽が長いので一日の仕事が一段落するとランニングパンツ一丁とジョギングシューズを履いて森林浴気分で森の中を走る。森のトレールを走りながら常に意識しているのが、木の声を聴く、という姿勢である。森にある木や草木花、そして岩や土、風景と話をするのだが、どうやって話をするのか?というと、とても簡単で、尊敬する穏やかな気持ちを持って接するだけである。万物の霊長である人間の放つ植物に対する尊敬心はとても歓迎され喜ばれ、また来てくれ!という事でトレールラン二ングが継続している。

 テクノロジーが更に発展の展開を見せるこの時代は同時に人間の持っている本来の能力を開花させる必要が求められる。その一つが、木の声を聴く、である。これからの人間にとってAIが踏み込む事が出来ない領域を持つ事は、人間が人間として生きて行く為の必要項目であり、それによってテクノロジーにたよる隷属ではなくて、テクノロジーを凌駕する精神性を保持する事が出来ると観ている。

 木の声を聴くというのは同時に、気の声を聴くでもある。木に対する尊敬心は実際に自身の気の有りかを教えてくれる。森に生えている一本の木に話かける行為は、その背後にある壮大な世界に触れる窓口なのである。

 

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クルマに対する2つの美

2021年09月05日 | VINTAGE CARS

 ニューヨークの近代美術館の中庭に置かれている美を象徴する2台の車、シトロエンDSとジープ。ジープはラングラーという名称が付けられる以前のモデルである。ジープは機能美を表現しシトロエンは形状の美を表現している。共に今から60-70年昔の車であるが、現在の車のデザインの元(オリジナル的)の様な存在に感じる。シトロエンDSは当時未来を先取りした車と呼ばれていた、今日振り返るとグリルレススタイルのフロント等は半世紀先を見据えていたのではないかと思う程である。この2台を選んで美術館の中心に置いていると言う事は、美術館の主宰者達の中に分っている人がいるという印象を受けた。

 

 とは言え、クルマに関心の薄い人には全く内心に引っかからない観点であろう。ただ単に旧車が展示してあるという認識で終わってしまう。

 クルマに対する時代的な視点は確実に変化し続けている。今の時代は比較対象である横的展開(各メーカー)と縦的展開(過去のモデルの数々)の幅も深さも大きい。当時はその比較範囲が現在と比べると狭く余裕もあまり無かった。オリジナル色があるのはそういった時代背景の中で製造された事が要因となっているのであろう。この2台を記憶の隅に置く事によって、クルマに対する美術感が刺激されるのではないかと思っている。

 

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