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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

司法の”籤引き民主主義”の危うさ

2008年08月05日 16時27分30秒 | 日本政治
裁判員に選ばれる確率、最高は大阪の「2894人に1人」(読売新聞) - goo ニュース
 政治家や公務員を籤引きで選ぼうという主張は、古代アテネではいざ知らず、現代社会にあっては、もはや耳にすることはありません。それにもかかわらず、司法に限って籤引き制を導入することに、果たして、どれだけの合理的な根拠があるのでしょうか。

 籤引き制度は、倫理観や刑罰に関する意識には個人差がなく、誰が選ばれても結果は同じである、という考えによって正当化されているようです。裁判を行う人には、適性も、専門的な知識も全くいらないことが、この制度の大前提なのです。しかしながら、あらゆる職業に適正が要求されるように、裁判員に限って適性はいらないという主張には、説得力がなさそうです。また、陪審員とは違って、裁判員は、法律の適用も行わなくてはならず、全く法律の知識がなくてよいはずもありません。しかも、誰でも良ければ、裁判官でも良いわけですから、この根拠には、納得しかねるのです。

 裁判員になる確率に大きな差があることが報じられているように(最大で約4倍の格差・・・)、”籤引き民主主義”は、平等なき民主主義です。また、司法の民主主義は、国民の選択なき民主主義です。政治の分野では、選ぶという行為こそ、国民の民主的な意思表示の手段なのですが、司法においては、選ぶ行為の方は”偶然の運”に任せるのですから。怪しげな民主化よりも、司法には、犯罪者を法律に照らして公平に裁く、という本来の目的に即した制度設計が必要なのではないか、と思うのです。
 
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