45歳になった。
ここまで来ると毎年の記憶の積み重ねによる自身の年齢の把握が億劫になって
いるので、今年年男の兄から3を引いた数とか、今の西暦から引き算する方法とかで
ようやく年齢認識を確かなものに出来ている状態。
それほどまでに関心が薄いものであるから、祝われても格別の喜びは無く、
何なら普段からご愛顧頂いていることへの感謝の気持ちしかない。
とは言え、現実的な所としては折に触れては年齢を書類などに記入するという、
儀式もしくは合言葉めいたものがあるため、そこは気が抜けない。
そして、毎年誕生日になると母から祝いのメッセージが来るのであるが、今年は
案の定来なかった。おそらく、息子の誕生日そのものは覚えているのだが、それが
今だという事に思い至らないのであろう。昔の事はよく覚えているが、新しいこと
がすぐに頭から抜け落ちる、と年始に会った際に父から聞いていたので、ある程度
の覚悟は出来ていた。とは言え、いざこうして音沙汰が無くなると些かの寂しさの
ようなものを感じる。
こういう些かほどの寂しさを積み上げることが出来るとか、終わっても後悔しない
ための準備が出来ているとか、覚悟のための土台固めが着実に行えているという事は
幸運と言っても良いであろう。
日一日が軽くなっていく中で、背中はどんどん重くなっていく。考えれば、結局
その日の重さは変わらない訳であるが。
ここまで来ると毎年の記憶の積み重ねによる自身の年齢の把握が億劫になって
いるので、今年年男の兄から3を引いた数とか、今の西暦から引き算する方法とかで
ようやく年齢認識を確かなものに出来ている状態。
それほどまでに関心が薄いものであるから、祝われても格別の喜びは無く、
何なら普段からご愛顧頂いていることへの感謝の気持ちしかない。
とは言え、現実的な所としては折に触れては年齢を書類などに記入するという、
儀式もしくは合言葉めいたものがあるため、そこは気が抜けない。
そして、毎年誕生日になると母から祝いのメッセージが来るのであるが、今年は
案の定来なかった。おそらく、息子の誕生日そのものは覚えているのだが、それが
今だという事に思い至らないのであろう。昔の事はよく覚えているが、新しいこと
がすぐに頭から抜け落ちる、と年始に会った際に父から聞いていたので、ある程度
の覚悟は出来ていた。とは言え、いざこうして音沙汰が無くなると些かの寂しさの
ようなものを感じる。
こういう些かほどの寂しさを積み上げることが出来るとか、終わっても後悔しない
ための準備が出来ているとか、覚悟のための土台固めが着実に行えているという事は
幸運と言っても良いであろう。
日一日が軽くなっていく中で、背中はどんどん重くなっていく。考えれば、結局
その日の重さは変わらない訳であるが。
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