SNSなどの個人的な情報発信手段が普及して、"共感"を得ることが
物事をヒットさせるための秘訣と言われる昨今、広告などで『面白い』とか
『すごい』というような終端的な感覚、もしくはそれをかなり直截的に伝える情報を
先立って提示してしまうのは悪手なのではないかと、某有名RPGのCMを見て思った。
共感というものはあくまでも自発的なものであって然るべきで、誘導されるにしても
なるべくそれと気付かせないような、自然で押しつけがましくないものが求められる。
仮に本当の事であっても、思ったことや思うであろうことを他者に先に言われるのは
あまり気分の良い事ではないし、虚構や誘導されて得た感情であっても、自らが
そう思って、みんなもそう思うということが実感できればそちらが勝る。
少し前までは感情や感想をあからさまに誘導するような広告が度々見られたが、
それは今よりも口コミや下馬評の解像度が低かったからこそ成り立ち得たのであろう。
実際凄くて感動できるような、是非ともみんなに買って欲しいというような自信作で
あったとしても、それを手にして何をどう思うかはお客さんのものであって、作り手側が
口を挟む所ではない。
料理人が『この料理はとても美味しいです』と、客に言う店があるだろうか。
絵描きが『この絵はとても美しいです』とキャプションに書くことがあるだろうか。
思えば別にSNSだの情報技術の発展などそこまで関係のない、割と普遍的な話であった。
物事をヒットさせるための秘訣と言われる昨今、広告などで『面白い』とか
『すごい』というような終端的な感覚、もしくはそれをかなり直截的に伝える情報を
先立って提示してしまうのは悪手なのではないかと、某有名RPGのCMを見て思った。
共感というものはあくまでも自発的なものであって然るべきで、誘導されるにしても
なるべくそれと気付かせないような、自然で押しつけがましくないものが求められる。
仮に本当の事であっても、思ったことや思うであろうことを他者に先に言われるのは
あまり気分の良い事ではないし、虚構や誘導されて得た感情であっても、自らが
そう思って、みんなもそう思うということが実感できればそちらが勝る。
少し前までは感情や感想をあからさまに誘導するような広告が度々見られたが、
それは今よりも口コミや下馬評の解像度が低かったからこそ成り立ち得たのであろう。
実際凄くて感動できるような、是非ともみんなに買って欲しいというような自信作で
あったとしても、それを手にして何をどう思うかはお客さんのものであって、作り手側が
口を挟む所ではない。
料理人が『この料理はとても美味しいです』と、客に言う店があるだろうか。
絵描きが『この絵はとても美しいです』とキャプションに書くことがあるだろうか。
思えば別にSNSだの情報技術の発展などそこまで関係のない、割と普遍的な話であった。