オーノー! 信じられない 自由の危機に文化の力発揮
■君が代条例描く喜劇
朝日新聞に「君が代条例」後、教師は――府立高校の卒業式描く喜劇上演中――という記事が大きく出ていた。読んでみると、
「卒業式を迎えた府立高校を舞台に、不起立の教員が出ないようにと願う校長と、伴奏がうまくできない音楽教師、『がちがちの左翼』と揶揄される社会科教師らが高校の保健室に集い、それぞれの思惑をぶつけ合う。作品は、東京都教委が君が代を起立して歌わない教員を相次いで処分したのを受け、劇団『二兎社』が全国公演した。今回はそれを大阪弁にし『不起立だったら減給』は『3回職務命令違反でクビらしいで』と大阪の現状に即したセリフに変えた」
ぜひこの舞台を見たいと出かけて行った。会場は立ち見が出るほどいっぱいで人があふれていた。関心の強さの表れだろう。
■ロンドン公演は幻に
パンフレットを開けてみると、「歌わせたい男たち」の演出を担当した劇団「木津川」の林田氏がこのように書いていた。
「この作品は、永井愛さんの傑作戯曲である。丁度この作品を執筆の頃、『ロンドンであなたの戯曲の上演を!』との依頼があったとか。そして完成したその脚本を読んでもらったら、かのプロデューサー曰く。『これはいつの時代の話ですか』『イヤ、現代の日本・東京の話です』と永井さん。『オーノー!信じられない!こんなことしたらイギリス中の先生がストライキに立ち上がり、国民も黙ってはいませんよ』。この演劇をロンドン市民に理解させるのは無理とのことでロンドン公演の話は幻と消えたという。笑うに笑えない『日本の常識は世界の非常識』がここにもある。(中略)『教育』や『公務員』職場での『自由』の制限・圧殺は遂にここまできた。(中略)『もう黙ってられへん』一人ひとりのその声、その音が高く、広く、大阪市に、日本中に響き渡るように願ってやまない」
卒業式が始まるまでの2時間のできごとを5人の出演者が、休憩なしで正味2時間近く熱演していた。喜劇だという。私も笑った、声を立てて…。しかし、劇の中身は、笑うに笑えぬ、泣くに泣けない厳しい教育現場が身につまされて迫ってくる。
40代半ばまで「売れないシャンソン歌手」をしていた音楽教師は、やっと講師として仕事にありついた。初めて知る教育現場の実態、心は揺れても「わたしゃ食べていかなきゃならない」と。かつては生徒たちにも「内心の自由は守ります」と熱く語った校長も今や「わが職場から不起立者を一人でも出したら、私は屋上から飛び降りて死にます」と。
憲法には、第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と高らかにうたわれているではないか。なのに、教師たちをここまで追い込んできたのはなぜなのだろうか。
■歌う自由も歌わぬ自由も
私は4年前まで現場にいたが、毎年この問題については、喧々諤々の議論がされてきた。まだ職務命令が出るような状況ではなかったが、職員の中にも様々な考えはあった。侵略戦争のシンボルになった「日の丸・君が代」に反対もあれば、「今やスポーツの世界でも普通に歌っているから国歌と認めて歌ってもいいじゃないか」と。在日の子どもたちのことも問題になった。
私は、常に主張してきた。教育の現場に強制は禁物だと(だが、今や辞めさせるぞと言われるまでに)。歌う人の自由も歌わない人の自由も守るのが教育現場の鉄則だと思っている。これは、国旗国歌問題に限らない。かつて同和教育の副読本の扱いをめぐっても激しい議論があった。私は、その時も自分の考えは、きちんと持っているが、使う自由も使わぬ自由も保持せよ、いささかの強制も許さないとがんばってきた。教育実践上のあれこれについての意見の違いも、多数決で押し切らず、実践的に確かめ、一つでも一致点をみつけ、子どものことなら一緒にやっていきましょうと呼びかけ続けてきた。そのことが親から信頼される学校づくりの鉄則であった。
その鉄則が崩され、教育にとって瞳のように大切な自由が奪われようとしているとき、演劇という文化の力の果たす役割の大きさを改めて実感したことだった。
(とさ・いくこ 和歌山大学講師・大阪大学講師)