スポーツ界の問題 

スポーツ界の問題  2018.09.13.

日大のアメフット部・アマチュワボクシング・体操の暴力とパワハラなど様々な問題が噴出している。いずれも元一流の選手などが絡んでおり、不可解の点も多い。

あまり議論されていない問題を取り上げてみる。すごい努力をして成績を上げても、そのことで人格が格段に成長するというものでは無い。これは勉学や研究でも同じで、成績が良くなったからと言って、人格の向上が付いてくるものでは無い。この点をスポーツ界などでは、誤解しているように思われる。オリンピックで金メダルなどを取ると、まるで人格まで完成したかのように錯覚しているのではないであろうか。オリンピックのメダリストなどの、自殺者は意外に多い。ヒトは、幸せのために努力して生きており、自殺の苦しさを知っている人であれば、自殺が人格の完成に如何に離れているかを知っていよう。

大学などでも研究者の専門業績の成果と人格はかなり離れている。以前に広島大学であった助手による上司殺しなどを見ても、そのようなことが伺える。多くの研究者は、研究成果を求めるが、努力すればそれによって人格も形成できると錯覚している。大学などで見ていても、7割の人は錯覚を起こしているように思われる。

スポーツでも勉強や研究でも、そのことに一途に向かっていると、他のことについて配慮している時間がない。従ってその視界は狭くなり、自分の人生について十分に考える時間がない。自分のしていることだけですべては完結すると思っており、その他のことについて深く考える時間がない。このことが人間を狭く小さなものにしている。そのことに気が付かないまま、努力している成果に気を取られ、他のことが理解できなくなる。人格の形成や自己を高めるためには、そのための方法を別に手に入れなければできない。特にその成果によって、他の人々から評価されると、人格まで高まっているような錯覚を起こしやすい。

今回関係した人々の、テレビでの表情を見ていると、如何にも何かの欲に取りつかれて、自分自身が振り回されているように見える。権力の座に就くとあのようになるのかと、年金暮らしの下流老人にとっても自己反省の良い材料である。

ところで、日大のアメフット部の学生の訴えと、体操の女子選手の訴えではかなり異なる印象を持っている。体操の訴えでは、当人がマインドコントロールされているように思われる。暴力と優しさによってマインドコントロールがなされており、本人の表情の精気が感じられない。暴力をふるっているコーチの後ろ姿からは、明らかに怒りと興奮が見てとれる。言葉の無い動物と長く付き合っていると、その心の動きは体に現れることは明白である。訴えられた体操界の重鎮であるお二人も、自分の何かの欲が出ていることは、自身で気が付かないところであろう。

ボクシングの問題では、言葉の相違を強く感じた。私には韓国人の友達がたくさんおり、40代のころにはたびたび調査に行っている。その際にある市の教育長さんから聞いた話であるが、韓国は自分たちで国を作ったことがない。いつも他国から人が来て国を作り、国民は国から守ってもらえることはなく、自分で生き延びるのが原則であった。そのため、日本とは同じことわざでも、意味の取り方がかなり違うと言う。例えば、「長いものに巻かれる」という言い方は、日本ではマイナスなイメージとして使われる。しかし韓国では、積極的な意味があり、長いものに巻かれても生き延び、再起を図ることが良いこととされていると言う。韓国では、家系を示す姓の数は少ない。しかし各姓は、同族意識があり、まるで家族の様に振舞う。留学していた南さんに連れられて、田舎で調査しているときにそんな経験をしたことがある。南さんも初めて会う人であると言っていたが、ずいぶんとお世話頂いた。
それとは別に、言葉の使い方の相違も文化によってかなり異なる。我々は、フランスの自由・平等・博愛という精神を聞いている。大使館の公使でフランスを専門としている方に伺った話では、この解釈がかなり異なる。日本人は、博愛についてすべての人に向けたものと理解しているが、フランスでは各自の縁者に向けたもので、決して全体に向けたものでは無いと言う。韓国の姓の様に、自分の関係する縁者についての概念があるようである。アマチュアボクシングの元終身会長が言っている、「選手を愛して行ってきた」という言葉は、確かに本当であろう。しかし日本人の感じるように全体に向けたものでは無く、自分に関係の深い選手に対する愛であるように思われる。
韓国では、歴代の大統領が起訴されることが多い。いずれも親族などが絡んでいて、縁者に対する文化が関係しているように思われる。
言葉の使い方は、文化によってかなり異なり、自分流に解釈してもなかなか全体像は見えないように思われる。特に遊牧を起源に持つ文化は、我々土地に結び付いた農耕の文化とはかなり異なる。

最近は、日本体育大学の駅伝の監督のパワハラ、ウエートリフティング関係のパワハラなどスポーツ世界では、話題に事欠かない。

大きな原因に、指導者の人格の形成が不十分な現実があるように思われる。指導者や教育者は、完成していないまでも自分の人格を磨くことに常に注意する必要がある。自分の持っている物以上には、相手に伝えることはできないのであるから。
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