いじめの問題 1

いじめの問題 1.    2017.12.01.

さいしょに
いじめの問題は複雑で、様々な要因が絡み合っている。しかし実際に議論されるときには、多くの要因が抜け落ちているように思われる。話が複雑になると、難解で対処が難しくなることが考えられる。以前に臨床心理学を学んでいた頃に、無意識の心理学に興味を持ち、ユングとフロイトに出会った。当時、フロイトは広く知られていたが、ユングは難解で敬遠されている傾向にあった。しかし、人間の精神状態は複雑で、ユン後の方が難解ではあるが本質に近づけると思ったことが思い出される。フロイトは、分析の方法を単純化して示して分かりやすくした功績は大きい。しかし人間の本質に近づくのは難しいように感じた。
いじめの問題も同じで、何かの主要因を見つけて、単純化すると皆さんで共通の認識が生まれて、話しやすく理解されやすい。しかし実際の子どもたちの問題に立ち返ると、これでは問題の解決には至らない。
カンボジアから帰国してから、何回かいじめの問題について書き始めてみたが、なかなかまとまるところに行かなかった。そのため毎回延び延びになっていた。最近体力も落ち、気力もなくなってきたので、出来るところから少しずつ書いておこうと思った次第である。一気に書き上げないと、全体像として落ちが有ったり、不整合が有ったりするが、これはもう年のせいで仕方がないのであろうとあきらめた。多少なりとも、皆さんの議論の参考になれば幸いである。


新聞でいじめの問題が大きく取り上げられている。昨年度のいじめの件数が大幅に増えたことによるらしい。文部科学省の10月26日の発表によると、2016年度の「いじめ」の把握件数は323,808件で、前年よりも約10万件増加しているという。

いじめの問題は、教育の中で起こったことではあるが、起源はもっと他のところにあることはあまり議論されることが無い。

私は、約40年前に長野県の山の中から大阪の町中に引っ越した。その時感じたのは、やがて子どもたちに異常が起きるであろうと言う事であった。近鉄阿倍野駅から3つ目の駅の近くに住んでいた。町は下町で生活し易かった。しかしながら、自然はほとんどなく、子どもたちの遊び場は公園ぐらいで、ほとんど無いに等しかった。この様な環境で育つ子どもたちがどの様になるかは、先が見通せないと感じた。
子ども同士が遊ぶことによって形成される社会の基本が、ほとんど見られない状態であった。また自然に接することによって形成される、理不尽に対する耐性がほとんど養われないであろうと感じた。それでも当時の親たちは、ある程度自然に接したことがあり、その点を子どもたちに伝えるであろうと思われた。しかしこの大阪の街の環境でほとんど自然に接することが無く、また子ども同士が形成する社会もない中で育った者たちが親になった時には、何かの異常が起こるであろうと思われた。

そのころ私は、クマネズミの社会の実験をしており、6畳ほどの部屋で4組のペアから自由に繁殖した場合にどのような状態になるのかを3年ほど観察していた。最初順調に個体数は増えていった。1年ぐらいすると個体数はピークに達し、やがて個体群の崩壊が起こり始め、ほとんど子どもが増えなくなり、減少に転じ2組のカップルだけになった。増加期には無かった噛み傷が減少期には著しく増加し、闘争によって死に至っていることは明らかであった。それ以前に研究していた野生のネズミでも、密度が高くなると副腎が肥大し、アドレナリンの分泌が盛んになり闘争が増えることが想定された。

現在の日本の状況は、多くの人々が様々なストレスを感じ、非常に闘争的になっているように思われる。
親による子どもへの虐待死の報道は珍しいことでは無くなった。これは亡くなった子どもの親だけが特別な存在ではなく、子どもにやさしい親まで連続的に変化していると考えるのが良いであろう。とすると虐待死に至る親から近い所にいる親も多数いるはずである。身体的な虐待まで行かなくても、精神的虐待は街に出てみると何時でも見かけられる。スーパーなどで買い物をしていている子ども連れをみても、しばしば精神的虐待を受けているのを見ることがある。子どもはいつもイライラし、親もイライラして関係性に苦労している。この様に育てられた子どもは、小学校に入学してもその状況が改善されるわけではない。友達と生活していても、何時ストレスが爆発に至るかは本人もコントロールができないであろう。授業の中で言葉を持って教えても、自制できるようになるとは思われない。教育関係者は、言葉であるいは身近な簡単な事例で教えれば子どもは自制が出来るようになると錯覚しているように思われる。

現代の社会におけるストレスは、戦後の混乱期とは異なる段階にある。私は研究を始めた頃に、野外のネズミの個体数の変化の調査をしていた。そのころアメリカのクリスチャン女史が、ドブネズミ(家ネズミ)を使って、密度が高くなると副腎が肥大してアドレナリンが増え、闘争的になるとし、その現象を社会的ストレスと呼んだ。

社会性の発達は、親が子どもに教えることのできる部分と子ども同士でなければ得られない部分が存在する。例えば,喧嘩をした後の仲直りは、親が子どもに教えることは出来ない。子ども同士で喧嘩をして、方法を探りながら自分の中に獲得していかなくてはならない。大人からのアドバイスは多少の役には立つかもしれないが、中心は自分で獲得するものである。これは動物の成長に於いても同じであって、親が教えるものではない。現在の社会の様に、子どもだけで遊ぶ機会が少なく、喧嘩をすると親や先生にすぐ止められる状況では、「喧嘩後の仲直り」を獲得することは難しい。そのため他人と争うことが怖くなりできないので、ますますストレスが溜まる。チンパンジーの社会を研究していたフランズ・ドウ・バール(Frans B. M. de Waal)は、「仲直り戦術」(西田利貞・榎本知郎訳 どうぶつ社)を書いている。この中でチンパンジーの社会が大きくなれたのは、競争性を持ち喧嘩をしながらも仲直りをする方法を手に入れたことによると、述べている。進化の過程で多分人間も同じように、喧嘩をしても仲直りをする方法を手に入れたために、大きな社会に発展したのであろう。子どもが成長の過程で、仲直りをする方法を得られなかったら、ストレスを大きく抱えながら一生生きなければならないであろう。この様な状態が現在の親たちに起こっているのではなかろうか。この親のストレスが、子どもに影響を持たないはずがない。
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