じめの問題 3. 切れやすい子ども

じめの問題 3.   2017.12.05.

切れやすい子ども
 前回、親子の関係からいじめに対する耐性の成長を考えた。
 親子の関係にストレスがかかる状態であると、子どもにとってはまた異なる側面を考えなくてはならない。ストレスにさらされていると、副腎皮質ホルモンが出やすくなるために、かなり攻撃的傾向が出てくる。自分でも抑えがたい攻撃性が内部にあり、些細なことでも正常な行動よりも攻撃的行動が出易い。
 このような子どもは、対人関係がうまく行かず、さらにストレスに晒されることになる。親子関係で満足な状況が得られないと、こだわりが強くなり他人との協調が難しい。さらに親の状況も、こだわりを持っていることが多く、子どものこだわりを増幅させる。自分の思うように行かないと、すぐに感情的になり切れることになる。親の状況を考えてみると、こだわりが大きいために、成長の過程で吸収してくるあるいは学んでくるものが少ない。すなわち価値観が狭い場合が多く、自分の価値観以外は、受け入れられない状況にある。
 最近私はあまり出かけないが、スーパーには買い物に行く。子どもを連れた親を見ていると、その関係性からいろいろなことが見えてくる。親が子どもに自分の意見に従わせようとしている親は、子どももストレスを感じて抵抗することが多い。親は時間の都合もあるのだろうが、子どもに無理やり意見を押し付けるから、子どもも抵抗する。そうしないと自分の存在が、見つけられないからであろう。もちろん小さな子どもが、自分の存在を意識しているわけではないが、無意識に抵抗が出る。これは自殺などの場所が、本人の無意識の要求と関係していることなどと共通している、人間の基本的行動である。

 勤めていた頃に、いじめグループの実態について調べたことがある。グループ以外に友達がいない場合が多いが、他に良い友達を持っている場合もある。その場合でも、ストレスを多く抱えていると思われる子どもは、なかなかグループから抜け出すことは難しい。成人した暴走族に聞いたこともある。良い友達の集まりは、良い関係であることは分かっていても、ストレスによる不安は、強い刺激を求めてグループに居続ける。良い友達の関係では、ストレスが迫って来て、より強い刺激の中に身を置かないと時間が過ごせなくなるようである。
いじめていても、いつ自分がいじめられる立場になるか分からない状況を理解していてもなかなか抜けられないという。この様な現象は、食事の流行にも表れるように思われる。非常に辛いメニューが人気になったり、テレビで持て囃されたりしているが、これなども一種のストレスからの逃避のように見える。私は現在あまり辛い物を食べないが、以前には辛い物は平気であった。貧しい国々では、沢山のおかずが得られないので、辛いもので食事をすることが多い。エチオピアのテフで作るインジェラ(パンケーキ)に、ほとんどトウガラシの粉だけを練ったものを付けて食べる。最初に韓国を訪れた1970年代の終わりには、国防費が37%で国民は貧しく、麦飯に青唐辛子にコチジャン(唐辛子味噌)を付けて食べたり、みそ汁の具が青唐辛子で味噌とコチジャンで味付けしてかけて食べたりした。しかし皆さん、美味しいご馳走がある現在はそちらを選んでいる。これらは刺激を求めて辛い物を食べる状況とは異なる状態である。豊富な食材が有るにもかかわらず、辛い物に刺激を求めるのは、無意識の心理学からすればストレスからの逃避のように思われる。

 いじめ問題は、このように自分自身の中にあるストレスが大きく関係していると思われる。その中で先生達はどのように対処したらよいのであろうか。簡単な問題ではない。第一にはいじめる子どもたちへの理解である。言葉では簡単だが、実行するのは大変難しい。様々な意見が有ろうし、異なる側面もあろう。しかし一つの意見として示しておくことは必要に思われる。
 現在の教育界を見ていると、すぐに技術に走る傾向にある。ノウハウを学んで解決しようとする。うまく対応できたように見えるが、時間が経つとほころびが出る。教育は、最終的には人格の問題である。自分自身の人格を常に努力して高めないと、子どもたちの人格も成長しない。子どもたちを成長させるには、自分自身がそのモデルになる必要がある。外から見えなくても、常に努力していると、子どもたちの見え方が異なってくる。このことが子どもたちに安心を与え、次第に成長する結果となる。
自分の成長のために何を行うのかが大きな問題である。勉強への努力やスポーツなどに努力すると、人格が成長するように思うのは錯覚である。私が経験してきた限りでは、勉学やスポーツでの努力は、人格の形成とは異なる。もちろんその努力の中で自分の内面に気がつき努力した人はおり、その結果として人格を高めてきた人はいる。しかしその努力は、勉学の努力やスポーツの努力とはやや異なった部分である。知識は人格とあまり関係ないし、技術も同じように思われる。
自分の内面を見つめていると、不思議と相手の内面に寄り添うことができる。明確な回答が得られるわけではないが、相手が自然に自分の考え方を決めて行けるようになる。このことが相手の成長であろうと思われる。
 障害児教育は教育の原点であると言われている。しかしその理由を正確に聞いたことはほとんどない。ユングは、大人はみな社会に対するペルソナ(仮面劇の仮面)を持っていると言っている。一人でいる時と複数でいる時には、その行動が異なる。複数でいる時には、その関係性の中で、自分の本心ではなく相手に対する自分を作って、ペルソナを付けている。先生は生徒に対して先生のペルソナ、親は子どもに対して親のペルソナを付けている。障碍者の中には、このペルソナを持たない人たちがいる。例えば複数でいる時にテーブル上に饅頭などが有ると、健常者はすぐには手を出さない。しかし障碍者の中にはすぐに饅頭を取る行動を起こす者がいる。それを見た時に、健常者は何を考えるであろうか。その行動が気にかかり、直すにはどうしたら良いであろうかと考えたりしないであろうか。これはこの行動に対する自分の感情を直視しない、問題を外に置く方法である。なぜ自分が気になるかを追求すると、自分の内部における無意識の検討に向かう。これがなかなか難しく、多くの場合
は外側の問題として捉えてしまう。自分の内面に向かうと、自分の中にも同じ要求がることに気がつき、その浅ましさを認識することになる。そのことによって自分と障害者と何ら異なることが無いことが認識できる。このことによって相手にかける言葉が、自然と変化してくる。
この様に、問題を持った子どもに対して、理解が進むと対応が変わってきて、相手も自然に変化が起こるようになる。

これは一つの例であって、様々な考え方があると思うが、検討してみてはいかがであろうか。
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