金森正臣先生のカンボジアの文化・教育・食べ歩き体験記
金森先生のカンボジア日記
カンボジア王国バッタンバン地方見聞(つづき)
パイリン
ワット・プノン・サンボーから約20km行くとトレイという小さな町を通る。この辺りは、1998年頃までは、昼間は政府軍、夜はポルポト軍が占拠していたという。農民は疲弊し、家を維持することが出来なかったと言われている。そのためか半数以上の家は、草壁、草屋根の新しい家である。一般にカンボジアでは、貧しい家は草(椰子の葉などを使う)で造られており、やや豊になると木造住宅に変わる。板壁、板屋根になるとそれなりに建造コストがかかる。更に屋根が瓦になったり、壁が煉瓦作りのタイル張りになったりすると、大分費用がかさむ。かなりの蓄えがないとできない。
更に車が走ると、次第に水田は消えて畑だけになる。この頃から道沿いに見える家はほとんど草の壁、草の屋根で規模も小さな家になり、貧しさのほどが伺える。パイリンに近づくほど貧しくなっている印象を受ける。
ところが、1枚あたりの畑は大規模になり、作物もマメ、トウモロコシ、ゴマ、等が作られている。他にも、マンゴー、ジャックフルーツ、キャッサバなどが作られている。これらは全て換金作物であると思われる。貧しい草葺きの家と大面積の換金作物は不釣り合いで、どの様な構造になっているか不思議に思った。
パイリン市の標識のある川を11時頃渡る。それまでにも、3本ほどの川を渡ったが、いずれも川幅は数メートルで大きな流れではない。しかし川縁はかなりえぐられていて、内戦の時には重要な堀の役割を果たしてきたものと思われる。標識のある川頃から次第に大型機械による整地と耕作が広がる。この様な大型機械の援助があるとは聞いていないから、ポルポト派のボス達が自分達の財力を資金にして、導入しているのであろう。中でもゴマは、かなりの面積耕作されている。
11時45分頃パイリン市の市庁舎の前に到着した。NIEの生物の教官のチャンセンの大学時代の同級生である地方教育事務所の職員を呼び出し、市場の近くのホテルにチェックイン。彼はパイリンに住み始めて4年になると言う。その友人の案内で市内のレストランで昼食。お店の人が食べていた昼食の、豚のミンチとプラホック(淡水の魚を塩漬けで保存したもの。搾った汁はトックトレイと言われる魚醤。タイではナンプラーと呼ぶ)を入れて味噌状のペーストを作り、生野菜(キュウリ、ナス、キャベツ、ニンジン、あおバナナの薄切りなど)や茹で野菜(ニガウリや白菜など)に付けて食べる。この茹で野菜に見かけないものが入っていたので、ちょいと横から摘んで食べたら、どうぞどうぞと沢山出してくれた。だいたいカンボジアの食堂では、店員の食事がお店の中で行われていることが多い。そこで美味そうなものの場合には、遠慮無くのぞき込んでお相伴に預かることにしている。だいたい地方であれば、どこの店でも機嫌良く摘ませてくれる。味見をしてから注文すると、売り物でなかったりするが、わざわざ作ってくれることもある。この茹で野菜には得体の知れない掌状のかなり大きな葉が入っていて、チャンセンや友人にに聞いても要領を得ない。しばらく広げて点検している内に、にわかにアフリカの記憶がよみがえって、キャッサバの葉であることが判明した。本来キャッサバは、毒があって他の動物が食べないので栽培に適しているが、改良されたスイートキャッサバは、収量は少ないが毒が無く、葉も芋も重宝される。そのスイートキャッサバの若葉が出されていた。来るまでに見てきた栽培の大部分は、色や木の状態からスイートキャッサバであった。
昼食後、チャンセンの友人の案内で、国境の場所を見学に行くことにする。昨年四家さんも国境まで行ったとシュポンが言う。2時頃出かけて30分ほどで国境に着く。道中は益々大きな農場となり、トウモロコシとゴマが多い。トウモロコシはタイとプノンペンに出荷で、タイではニワトリの餌になると言う。ゴマはプノンペンに出荷が主らしい。国境にはカジノが二つあり、ホテルもある。国境の手前には、カンボジア側のマーケットがあり、タイから輸入されたものやカンボジアで生産されたものが販売されている。時々マイクロバスなどで来て、国境の検問所で手続きをして、国境を越えて行くグループが見られる。マーケットの入り口の果物屋で、果物を食べながら談笑していると、この女主人はコンポンチャムの出身であると話てくれた。主人も同郷であるが、ここのカジノの守衛に働き口が見つかったので、子どもを一人連れて越してきた。一人の子どもはコンポンチャムの両親に預けて来ている。カンボジアでは職が無く、遠くに出稼ぎに来るのは当たり前らしい。約1時間周辺を見物している間に、シュポンとTTD(Ticher torening depatometo)の男は、国境を越えて2kmほどの所にあるというタイ側のマーケットに行って買い物をしてきた。国民感情としては、タイには好感を持っていないと言われているが、良質なものを安価に入手したいという物欲との相克は如何なものであろうか。
パイリンから国境までの街道は、2-3年前まで大木の森に覆われていたが、畑が開かれてほとんど森は消失した。その畑の間にも地雷があって入れない丘があり、そこだけぽつんと空き地が広がっている。帰りに、明日訪問する学校の校長先生の家があるというので、挨拶に寄ることになった。囲われた広い農場の中に立っており、高床式の木造住宅であるが、一部煉瓦作りの家で自動車も持っている。敷地内には沢山の果樹が植えられていた。以前はポルポトの有力者であったと言う。デストリクトの首長も教育長も義務教育課のトップも、皆ポルポト時代にはそれなりの地位にいた人たちらしい。彼らは現在でも豊かな生活を続けている。ポルポトの有力者たちは皆広い土地を持ち、使用人を使って暮らしている。下級の人たちも、使用人として働くことによって、食べることは出来ている。これでは当分この地方は変わらないであろう。
投宿したホテルには、主人のポルポト軍時代の写真が貼られてあり、かなりの幹部であったらしいことが伺える。彼はケップにもホテルを持っており、その宣伝の写真も飾られている。ケップは内戦以前には綺麗なリゾート地であり、広い敷地を持った別荘が建ち並んでいた。内戦が始まる頃に戦場となり現在でも砲弾の跡がある建物が、昔の姿を思い起こさせる。現在次第に再開発が進んでいる。
パイリンに4時頃戻って、町の入り口にある大きな寺(Phnum Yat)を見学した。この寺もポルポト時代に破壊されたがその後に復旧されたもので新しい。寺には迷い込んできたというクマが飼育されていた。このクマ(Urusus thibetanus)は、数が少なくなっており、カンボジアとして保護に乗り出している動物である。他にも野生の牛が放し飼いにされており、参拝者に可愛がられていた。この牛(Bos javanicus)は角が短く、全身は褐色であるが膝から下が白色なので見間違えることは少ない。やはり数が少なくなっていて、保護の対象になっている動物である。ミャンマー、タイ、ラオス、ベトナムにも分布している。
パイリンの町で気になる光景は、夜になってのその暗さである。街灯が少ないだけではなく、多くの家が扉を全部開いていない。4-6本ある板戸は、その1-2枚が開いており他は締め切られている。中に人の気配はあり、中から通りをじっと伺っているのが感じられる。レストランでもない限り店をやっていても同じで、近づくと中からすぐに人が出てくる。これは最近まで戦闘が続いていた影響であろうか。気になる光景であった。
帰り道のラン
パイリンに行く時に気になっていた道路端に吊されているランを、帰りに集めた。パイリンでは至るところにランが吊されていて、どうやら売っているらしい。趣味で置いている家もあるようであるが、交渉次第では応じてくれる。だいたい樹上性のランで、簡単には手に入りそうもない。ランを集め始めた動機は、上手く行けばチャンセンが来年には、愛知教育大学の市橋先生のところでランの研究に着手する可能性があるので、出来るだけ様々なランを見せておきたいと思ったのからである。(一橋先生のご努力の結果、8月22日の段階では、チャンセンの留学は確定している)。私自身は、ランの花を観賞するのは好きであるが、頂けば楽しむ程度である。しかしランの生活には興味を持っており、アフリカでも樹上性のランがあると採集していた。その多様性は驚くばかりである。入手しにくい樹上性のランが沢山吊されている原因を想像するに、畑の開墾のために木を倒した折りに、高所にあるランを採集しているのであろう。今までに見たことのない仲間もあり、結構楽しみながら集めている。
パイリンからの帰途、まだ山の中を走っている時、チャンセンが苗木畑を見つけ木を買って帰りたいと言い出した。木の名前は「チャンクリシュナン」と言い、大きくなると枝の木部が良い香りがするので栽培するのだという。高さ1メートルぐらいの苗木を3本を2ドルほどで買って帰ったが、後に偶然の機会にこれが伽羅(沈香)であることが分かった。現在NIEの構内で育っている。この苗木場では、大小1万本程度の苗木が育てられていた。
6月5日にバッタンバンからプノンペンに戻る際も、プルサット付近の道路脇の砂糖椰子に付いているランの株を採集した。やや高いところにあったので、付近の農家の男性を頼んで取ってもらった。偶然にも彼は、砂糖椰子の樹液の採集者で、椰子酒を作ることを仕事としていた。このため椰子の木に登るのは、造作もなかった。また彼の案内で付近を歩いた時、地上に直接咲くラフレシアと思われる花の跡に連れて行かれた。花弁跡の直径は、80センチもあるであろうか。ラフレシアは、ボルネオ島にあるのは読んだことがあるが、カンボジアにもあったのであろうか。もしそうだとすれば、プノンペンから2時間ぐらいでもあるし、案内人が雨期に咲くと言うこの花を、もう一度見に来たいものである。
案内人の家に寄ると、作りたてのヤシ酒を振る舞ってくれた。ブツブツと発酵してやや炭酸が入っており、さわやかな飲み物である。いい気になって飲むと酒に弱い私は真っ赤になってふらふらするが、ジュースの様に飲みやすい。やはり長時間は置けない様で、加工してしまうらしい。運転手のシュポン君は、この家ではこれから酢を造っていると言っていた。そう言えば庭先に焼酎瓶の様な陶製の瓶が3個ほど転がっていた。ヤシ酒は、花穂を切って上がってくる樹液を竹の筒に受ける。毎日竹筒を交換して歩く。その竹筒の中に何かの木片を入れてある。この木片は鉈で削っただけの3-4センチ角で乾燥保存されている。ヤシ酒は木から下ろしてきたときは甘味が強く、時間が経つに従ってアルコール分が多くなり酸味なども加わる。乾期は良質であるが、雨期はあまり良くないという。
シソポンの北の町の金色のシルク
シソポンの北の地域に出かけた折りに、桑の木を見つけて気になっていた。付近に養蚕をしている村があり、校長先生の案内で見学することが出来た。
養蚕の規模は小さく、各家庭で直径1メートルぐらいの丸い平たいカゴに1-2枚程度を飼っていた。桑畑の規模も小さいのでこの程度かもしれない。日本で言えば、1gはいた程度の量である。子どもの頃、村では養蚕が盛んで、飼育の規模はケゴ(卵からかえった1令幼虫)の重さグラム単位で表されていた。収量は貫目単位で、1gのケゴを飼育する(はく)と1貫目(3.75kg)の繭になる目安であった。和洋折衷で表現されていたところが珍妙である。プロジェクトサイトで教材研究として飼育しているカイコは、繭が小さくて気になっていたが、ここの繭も小さく、カンボジアのカイコは小さいのが標準かも知れない。日本のカイコの半分程度の重さと思われる。
カンボジアのカイコの吐き出す糸は黄色で、糸に取ると見事な金色になる。繭の時にはやや光の反射が弱いので黄色である。この村では、カイコの飼育、糸取り、機織りが行われておりそれぞれ分担がある。全ての行程は、子どもの頃に見ていたのと同じで、懐かしい思いがした。織機も同じシステムであるが、横糸を詰める縦糸を通す板の櫛の部分が、日本では竹を使っているが、カンボジアでは糸を使っている、従って詰めがやや甘くなる様である。カナ(繭から糸取りをして干す段階で、30センチ径ぐらいのループにされた状態の糸をカナと呼ぶ)に取られた糸は金色に輝きその見事さに圧倒された。しかし全ての織物は染色された糸を使っており、原色のものは見られなかった。糸にムラがあるためであろうか。残念な気がしたが、何らかの理由が有ってのことであろう。織物は一反45ドル程度であるという。糸の太さ、織りムラの有無などに寄って値段は変化する。中には30ドルくらいのものもあった。プノンペンに来ると値段は倍近くになると言う。
ドリアン顛末
最後のバッタンバンの夜(6月4日)、夕食後6人ほどで市場の脇の路上果物市場の見学に出かけた。タイからの輸入の果物が、袋ごと山積みで売られている。小学校低学年の子どもも、一人前の売り手で、客の注文に応じて、ドリアンのトゲトゲを上手に紐で吊せる様に縛っている。1人が私にドリアンをプレゼントしてくれ、考えあぐねたが捨てるわけにも行かず、車に乗せた。それを見ていた運転手のシュポン君、ドリアンを買いに走って2個ほどをゲットして来た。その前にもランブータンの10kg袋を2つ、マンゴースチンの10kg袋を1個ほど買い込んでいたが、以前に四家さんが車に乗せるのをの禁止したこともあって、ドリアンは遠慮をしていたらしい。私が車に乗せたのを見て、彼も大丈夫と判断したのだろう。
途中で臭ったのは言うまでもないが、帰って2-3日しても臭いはおさまらず、夜窓を開けておいても、窓を開けて走ってもあまり効果はなかった。ついに運転手君は、パイナップルを二つ割りにして車の中に入れていた。彼が臭い消しに時々使う手である。しかしながら一向におさまる気配はなく、スーパーマーケットで5ドルのラベンダーの香料を買い、車に入れる羽目になった。1週間もしたら臭いはおさまったが、ドリアンの臭いはなかなかきつい。
カンボジアでは、良くドリアンを売っているが、かなり当たりはずれがある。昨年臨海実習の下見の折りにシアヌークビルで、カウンターパートのキムがあれこれ講釈を述べながら、選んでくれたのは、臭いが少なくかなり甘いのだった。菊地さんも結構食べていた。家のメイドのシムノンは、シアヌークビルの隣のカンポットの出身で、ドリアンの産地に育っているので一言ある。市場から選んでくるのもなかなか美味い。でもドリアンは1個売りだから、量があって終わらせるのに2-3日かかる。
家の前には、洗濯屋があってそこでも時々ドリアンを売っている。しかし商売と言うほどでもなく、時々一籠(20-30個はあろうか)誰かが持ってきて、それを売っていると言ったところか。歩いて帰る土日には、良く呼び止められてドリアンを勧められるが、商売ものを食べてしまってもと遠慮していた。バッタンバンから帰ってきて、ドリアンを食べ終わった頃、差し入れに1個持ってきてくれた。このドリアンは、今まで食べたうちで一番美味しかった。臭いはさほど無く、甘味が強くこんなものを食べれば、確かにはまるし、果物の王様だと思う。でも私には未だに選別の基準が分からない。何処が違うのだろう。リンゴなら見ただけで何と何を掛け合わせているか想像がつくのだけれど。
変わった食べ物
カンボジア人は、本当に何でも食べる。中国人に劣らないと思う。今回の旅でも、パイリンの夜のワイルドピック(Zoos scrofa イノシシ)、マメジカ(Tragulusjavanicus 英名Lesser Mausedeer 最も小さなシカの仲間)あたりは何処の国でも食べるものかも知れない。しかしCivet シベット(3属4種ほどがいるらしいがどれか不明)やシソポンの北のドラゴンだと言うトカゲの仲間は、あまり一般的では無いような気がする。
パイリンで珍しい肉を出す食堂があると同行の教官の友人が連れて行ってくれた。最初シベットが出されてウサギのような動物だと説明があった。帰って図鑑で調べてみて、シベットであることが判明した。マメジカは、シカの仲間の小さいものだと説明があり、調べた結果はマメジカであった。いずれも、炒め物になっており、かなりコショウが効いてヒリヒリして、正確な味は分からなかった。柔らかくて細やかな味であるので、調理法を考えたら日本人に好まれる味であろう。ただし、カンボジアでは何の肉もそうであるが、如何にして骨付きの状態で出すか工夫されているようである。かなり小さな肉にも骨の一欠けらが付いている。東アフリカのタンザニアでもそうであったが、ヤギやウシの肉を売る場合に、必ず骨付きのまま売る。肩や太ももの部分も上手に切り分けて必ず骨が付いている。これは調理法が、主にスープになるために、味が出る骨をたたき割りながらつけるのがサービスと言ったところである。肉だけでは、美味しいスープにはならない。タンザニアでも最近白人の多い観光地では、ステーキにどうだと言って、肉だけの所を市場で見かけることがある。カンボジアのスープの一つにピジョン(ハト)が有るが、これはほとんどの骨をたたき割って入れてあるため、肉と一緒に骨が口に入る。飲み込める程度に小さいのであるが、数学の若い某先生は嫌がっていた。通常日本食には、無い舌触りのため気になったことであろう。私の小さい頃には、狩りをして捕ったウサギは、皮をはぐと肉と骨は一緒に叩いて肉団子にして食べていた。骨の感触は全く一緒で、気にはなるが食べて懐かしい味であった。
ワイルドピックは、炒め物になって出てきた。コショウとショウガが効いていて、ヒリヒリしていたが、さすがに他の2種とは味が異なった。こちらは骨付きでは無く皮付きで出てきた。皮下脂肪は少なく、ワイルドの名に値する。皮はコリコリと歯ごたえが良く硬いゼラチンの感触である。
シソポンの北で出されたドラゴンは、トカゲの仲間であることは出された皮付き骨付きの肉の状態から想像できた。皮には白黒の斑点の鱗が見られ、かなり硬い。これに噛みついて義歯の一部を壊してしまった。骨皮ごとぶつ切りにして、コショウ、ショウガ、トウガラシなどで炒めてありかなり辛い。かなり食欲は出るが、汗を拭き拭き、骨を片手に一生懸命に引っ張ることになる。アフリカでも更に大きなミズトカゲの仲間を食べたことがあるが、こちらは皮を除いてあったので、肉は軟らかく食べやすかった。カンボジアのこのトカゲは、森に住んでいて田や畑にはいないと言うから、水田地帯のこのあたりでは大ご馳走で貴重品であったらしい。
今回ではないが他にも、カイコの蛹(これは私も終戦直後には重要な栄養源として食べていた。糸を取った後になるので、脂肪分が酸化していて美味くはなかった。1980年代の前半には、韓国の街角でもやや味付けされたものが売られていた記憶がある)、ゲンゴロウ(これも小さい時に食べた思い出がある)、アリ(ツムギアリと思われる褐色のアリ、木の上に巣を造る。巣ごと収穫するか巣のしたに水を張ったたらいを置き、たたくとアリが落ちると言う)、コウロギ(何種類か食べているようで、大きさがかなり異なるものがある)、タガメ(日本のものより一回り大きい。タイやベトナムでも食べているようであるから、東南アジアでは普通の食べ物)等の昆虫食。クモ(大型のタランチュラ)、ヘビ、カメなどが売られている。ヘビは時々食堂のショウケースに入っているし、カメは川の渡船場ではよく売られている。既に蒸し焼き状態で、甲羅の両側が切られており、背と腹側を離して中身を手で引きちぎりながらタレをつけて食べる。卵が入っていると上等だと言う。
ゲンゴロウとタガメは、良く市場で売られているが、コウロギは季節性があるらしく見かけないことが多い。クモは、コウポンチャム地方が産地らしく、ここに行くと何時も売っている。しかしプノンペンなどではまれにしか見ることはない。
タガメは、カメムシに近い仲間で、強烈な臭いがある。魚などを補食する口は硬く、食べる時にはここを取り除いてから、羽をむしり、肢を取り除いて胸部と腹部を離して内容を吸い出す。これは数学のカウンターパートのワン君の食べぶり。内容はかなり強烈な臭いの部分があり、一瞬カメムシが口に入った時のことを思い出す。学生時代に山岳部が谷川岳に持っていた白樺小屋に良く通っていた。秋の終わり頃に出かけると、初雪の頃の外は寒くカメムシが扉の隙間や周囲に積んである燃料のマキに潜り込んでいる。中でストーブを焚き始めると温度があがり、カメムシが元気になる。寝ている時などにうっかり口を開けていると、カメムシが進入し、思わず閉じると目がしびれる様な臭気に見舞われる。このしびれる様な臭いを、何を好んで食べるのかと思うが、慣れると忘れられない味かも知れない。カンボジアに来た最初の頃は、ドクダミの臭いが気になったが、甘酢のサラダの中に入っているドクダミは、なかなか忘れがたいものである。他にもパクチーやドクダミと同じ香りのする香草をお粥やクイティウ(カンボジアの代表料理で、ビーフンのラーメンとでもいいたい物)などに入れる。この様な香草に適応できないと、カンボジア料理は好きになれないかも知れない。カンボジア料理は日本とは異なる香りで包まれている感じがする。
金森正臣 KANAMORI, Masaomi
ワット・プノン・サンボーから約20km行くとトレイという小さな町を通る。この辺りは、1998年頃までは、昼間は政府軍、夜はポルポト軍が占拠していたという。農民は疲弊し、家を維持することが出来なかったと言われている。そのためか半数以上の家は、草壁、草屋根の新しい家である。一般にカンボジアでは、貧しい家は草(椰子の葉などを使う)で造られており、やや豊になると木造住宅に変わる。板壁、板屋根になるとそれなりに建造コストがかかる。更に屋根が瓦になったり、壁が煉瓦作りのタイル張りになったりすると、大分費用がかさむ。かなりの蓄えがないとできない。
更に車が走ると、次第に水田は消えて畑だけになる。この頃から道沿いに見える家はほとんど草の壁、草の屋根で規模も小さな家になり、貧しさのほどが伺える。パイリンに近づくほど貧しくなっている印象を受ける。
ところが、1枚あたりの畑は大規模になり、作物もマメ、トウモロコシ、ゴマ、等が作られている。他にも、マンゴー、ジャックフルーツ、キャッサバなどが作られている。これらは全て換金作物であると思われる。貧しい草葺きの家と大面積の換金作物は不釣り合いで、どの様な構造になっているか不思議に思った。
パイリン市の標識のある川を11時頃渡る。それまでにも、3本ほどの川を渡ったが、いずれも川幅は数メートルで大きな流れではない。しかし川縁はかなりえぐられていて、内戦の時には重要な堀の役割を果たしてきたものと思われる。標識のある川頃から次第に大型機械による整地と耕作が広がる。この様な大型機械の援助があるとは聞いていないから、ポルポト派のボス達が自分達の財力を資金にして、導入しているのであろう。中でもゴマは、かなりの面積耕作されている。
11時45分頃パイリン市の市庁舎の前に到着した。NIEの生物の教官のチャンセンの大学時代の同級生である地方教育事務所の職員を呼び出し、市場の近くのホテルにチェックイン。彼はパイリンに住み始めて4年になると言う。その友人の案内で市内のレストランで昼食。お店の人が食べていた昼食の、豚のミンチとプラホック(淡水の魚を塩漬けで保存したもの。搾った汁はトックトレイと言われる魚醤。タイではナンプラーと呼ぶ)を入れて味噌状のペーストを作り、生野菜(キュウリ、ナス、キャベツ、ニンジン、あおバナナの薄切りなど)や茹で野菜(ニガウリや白菜など)に付けて食べる。この茹で野菜に見かけないものが入っていたので、ちょいと横から摘んで食べたら、どうぞどうぞと沢山出してくれた。だいたいカンボジアの食堂では、店員の食事がお店の中で行われていることが多い。そこで美味そうなものの場合には、遠慮無くのぞき込んでお相伴に預かることにしている。だいたい地方であれば、どこの店でも機嫌良く摘ませてくれる。味見をしてから注文すると、売り物でなかったりするが、わざわざ作ってくれることもある。この茹で野菜には得体の知れない掌状のかなり大きな葉が入っていて、チャンセンや友人にに聞いても要領を得ない。しばらく広げて点検している内に、にわかにアフリカの記憶がよみがえって、キャッサバの葉であることが判明した。本来キャッサバは、毒があって他の動物が食べないので栽培に適しているが、改良されたスイートキャッサバは、収量は少ないが毒が無く、葉も芋も重宝される。そのスイートキャッサバの若葉が出されていた。来るまでに見てきた栽培の大部分は、色や木の状態からスイートキャッサバであった。
昼食後、チャンセンの友人の案内で、国境の場所を見学に行くことにする。昨年四家さんも国境まで行ったとシュポンが言う。2時頃出かけて30分ほどで国境に着く。道中は益々大きな農場となり、トウモロコシとゴマが多い。トウモロコシはタイとプノンペンに出荷で、タイではニワトリの餌になると言う。ゴマはプノンペンに出荷が主らしい。国境にはカジノが二つあり、ホテルもある。国境の手前には、カンボジア側のマーケットがあり、タイから輸入されたものやカンボジアで生産されたものが販売されている。時々マイクロバスなどで来て、国境の検問所で手続きをして、国境を越えて行くグループが見られる。マーケットの入り口の果物屋で、果物を食べながら談笑していると、この女主人はコンポンチャムの出身であると話てくれた。主人も同郷であるが、ここのカジノの守衛に働き口が見つかったので、子どもを一人連れて越してきた。一人の子どもはコンポンチャムの両親に預けて来ている。カンボジアでは職が無く、遠くに出稼ぎに来るのは当たり前らしい。約1時間周辺を見物している間に、シュポンとTTD(Ticher torening depatometo)の男は、国境を越えて2kmほどの所にあるというタイ側のマーケットに行って買い物をしてきた。国民感情としては、タイには好感を持っていないと言われているが、良質なものを安価に入手したいという物欲との相克は如何なものであろうか。
パイリンから国境までの街道は、2-3年前まで大木の森に覆われていたが、畑が開かれてほとんど森は消失した。その畑の間にも地雷があって入れない丘があり、そこだけぽつんと空き地が広がっている。帰りに、明日訪問する学校の校長先生の家があるというので、挨拶に寄ることになった。囲われた広い農場の中に立っており、高床式の木造住宅であるが、一部煉瓦作りの家で自動車も持っている。敷地内には沢山の果樹が植えられていた。以前はポルポトの有力者であったと言う。デストリクトの首長も教育長も義務教育課のトップも、皆ポルポト時代にはそれなりの地位にいた人たちらしい。彼らは現在でも豊かな生活を続けている。ポルポトの有力者たちは皆広い土地を持ち、使用人を使って暮らしている。下級の人たちも、使用人として働くことによって、食べることは出来ている。これでは当分この地方は変わらないであろう。
投宿したホテルには、主人のポルポト軍時代の写真が貼られてあり、かなりの幹部であったらしいことが伺える。彼はケップにもホテルを持っており、その宣伝の写真も飾られている。ケップは内戦以前には綺麗なリゾート地であり、広い敷地を持った別荘が建ち並んでいた。内戦が始まる頃に戦場となり現在でも砲弾の跡がある建物が、昔の姿を思い起こさせる。現在次第に再開発が進んでいる。
パイリンに4時頃戻って、町の入り口にある大きな寺(Phnum Yat)を見学した。この寺もポルポト時代に破壊されたがその後に復旧されたもので新しい。寺には迷い込んできたというクマが飼育されていた。このクマ(Urusus thibetanus)は、数が少なくなっており、カンボジアとして保護に乗り出している動物である。他にも野生の牛が放し飼いにされており、参拝者に可愛がられていた。この牛(Bos javanicus)は角が短く、全身は褐色であるが膝から下が白色なので見間違えることは少ない。やはり数が少なくなっていて、保護の対象になっている動物である。ミャンマー、タイ、ラオス、ベトナムにも分布している。
パイリンの町で気になる光景は、夜になってのその暗さである。街灯が少ないだけではなく、多くの家が扉を全部開いていない。4-6本ある板戸は、その1-2枚が開いており他は締め切られている。中に人の気配はあり、中から通りをじっと伺っているのが感じられる。レストランでもない限り店をやっていても同じで、近づくと中からすぐに人が出てくる。これは最近まで戦闘が続いていた影響であろうか。気になる光景であった。
帰り道のラン
パイリンに行く時に気になっていた道路端に吊されているランを、帰りに集めた。パイリンでは至るところにランが吊されていて、どうやら売っているらしい。趣味で置いている家もあるようであるが、交渉次第では応じてくれる。だいたい樹上性のランで、簡単には手に入りそうもない。ランを集め始めた動機は、上手く行けばチャンセンが来年には、愛知教育大学の市橋先生のところでランの研究に着手する可能性があるので、出来るだけ様々なランを見せておきたいと思ったのからである。(一橋先生のご努力の結果、8月22日の段階では、チャンセンの留学は確定している)。私自身は、ランの花を観賞するのは好きであるが、頂けば楽しむ程度である。しかしランの生活には興味を持っており、アフリカでも樹上性のランがあると採集していた。その多様性は驚くばかりである。入手しにくい樹上性のランが沢山吊されている原因を想像するに、畑の開墾のために木を倒した折りに、高所にあるランを採集しているのであろう。今までに見たことのない仲間もあり、結構楽しみながら集めている。
パイリンからの帰途、まだ山の中を走っている時、チャンセンが苗木畑を見つけ木を買って帰りたいと言い出した。木の名前は「チャンクリシュナン」と言い、大きくなると枝の木部が良い香りがするので栽培するのだという。高さ1メートルぐらいの苗木を3本を2ドルほどで買って帰ったが、後に偶然の機会にこれが伽羅(沈香)であることが分かった。現在NIEの構内で育っている。この苗木場では、大小1万本程度の苗木が育てられていた。
6月5日にバッタンバンからプノンペンに戻る際も、プルサット付近の道路脇の砂糖椰子に付いているランの株を採集した。やや高いところにあったので、付近の農家の男性を頼んで取ってもらった。偶然にも彼は、砂糖椰子の樹液の採集者で、椰子酒を作ることを仕事としていた。このため椰子の木に登るのは、造作もなかった。また彼の案内で付近を歩いた時、地上に直接咲くラフレシアと思われる花の跡に連れて行かれた。花弁跡の直径は、80センチもあるであろうか。ラフレシアは、ボルネオ島にあるのは読んだことがあるが、カンボジアにもあったのであろうか。もしそうだとすれば、プノンペンから2時間ぐらいでもあるし、案内人が雨期に咲くと言うこの花を、もう一度見に来たいものである。
案内人の家に寄ると、作りたてのヤシ酒を振る舞ってくれた。ブツブツと発酵してやや炭酸が入っており、さわやかな飲み物である。いい気になって飲むと酒に弱い私は真っ赤になってふらふらするが、ジュースの様に飲みやすい。やはり長時間は置けない様で、加工してしまうらしい。運転手のシュポン君は、この家ではこれから酢を造っていると言っていた。そう言えば庭先に焼酎瓶の様な陶製の瓶が3個ほど転がっていた。ヤシ酒は、花穂を切って上がってくる樹液を竹の筒に受ける。毎日竹筒を交換して歩く。その竹筒の中に何かの木片を入れてある。この木片は鉈で削っただけの3-4センチ角で乾燥保存されている。ヤシ酒は木から下ろしてきたときは甘味が強く、時間が経つに従ってアルコール分が多くなり酸味なども加わる。乾期は良質であるが、雨期はあまり良くないという。
シソポンの北の町の金色のシルク
シソポンの北の地域に出かけた折りに、桑の木を見つけて気になっていた。付近に養蚕をしている村があり、校長先生の案内で見学することが出来た。
養蚕の規模は小さく、各家庭で直径1メートルぐらいの丸い平たいカゴに1-2枚程度を飼っていた。桑畑の規模も小さいのでこの程度かもしれない。日本で言えば、1gはいた程度の量である。子どもの頃、村では養蚕が盛んで、飼育の規模はケゴ(卵からかえった1令幼虫)の重さグラム単位で表されていた。収量は貫目単位で、1gのケゴを飼育する(はく)と1貫目(3.75kg)の繭になる目安であった。和洋折衷で表現されていたところが珍妙である。プロジェクトサイトで教材研究として飼育しているカイコは、繭が小さくて気になっていたが、ここの繭も小さく、カンボジアのカイコは小さいのが標準かも知れない。日本のカイコの半分程度の重さと思われる。
カンボジアのカイコの吐き出す糸は黄色で、糸に取ると見事な金色になる。繭の時にはやや光の反射が弱いので黄色である。この村では、カイコの飼育、糸取り、機織りが行われておりそれぞれ分担がある。全ての行程は、子どもの頃に見ていたのと同じで、懐かしい思いがした。織機も同じシステムであるが、横糸を詰める縦糸を通す板の櫛の部分が、日本では竹を使っているが、カンボジアでは糸を使っている、従って詰めがやや甘くなる様である。カナ(繭から糸取りをして干す段階で、30センチ径ぐらいのループにされた状態の糸をカナと呼ぶ)に取られた糸は金色に輝きその見事さに圧倒された。しかし全ての織物は染色された糸を使っており、原色のものは見られなかった。糸にムラがあるためであろうか。残念な気がしたが、何らかの理由が有ってのことであろう。織物は一反45ドル程度であるという。糸の太さ、織りムラの有無などに寄って値段は変化する。中には30ドルくらいのものもあった。プノンペンに来ると値段は倍近くになると言う。
ドリアン顛末
最後のバッタンバンの夜(6月4日)、夕食後6人ほどで市場の脇の路上果物市場の見学に出かけた。タイからの輸入の果物が、袋ごと山積みで売られている。小学校低学年の子どもも、一人前の売り手で、客の注文に応じて、ドリアンのトゲトゲを上手に紐で吊せる様に縛っている。1人が私にドリアンをプレゼントしてくれ、考えあぐねたが捨てるわけにも行かず、車に乗せた。それを見ていた運転手のシュポン君、ドリアンを買いに走って2個ほどをゲットして来た。その前にもランブータンの10kg袋を2つ、マンゴースチンの10kg袋を1個ほど買い込んでいたが、以前に四家さんが車に乗せるのをの禁止したこともあって、ドリアンは遠慮をしていたらしい。私が車に乗せたのを見て、彼も大丈夫と判断したのだろう。
途中で臭ったのは言うまでもないが、帰って2-3日しても臭いはおさまらず、夜窓を開けておいても、窓を開けて走ってもあまり効果はなかった。ついに運転手君は、パイナップルを二つ割りにして車の中に入れていた。彼が臭い消しに時々使う手である。しかしながら一向におさまる気配はなく、スーパーマーケットで5ドルのラベンダーの香料を買い、車に入れる羽目になった。1週間もしたら臭いはおさまったが、ドリアンの臭いはなかなかきつい。
カンボジアでは、良くドリアンを売っているが、かなり当たりはずれがある。昨年臨海実習の下見の折りにシアヌークビルで、カウンターパートのキムがあれこれ講釈を述べながら、選んでくれたのは、臭いが少なくかなり甘いのだった。菊地さんも結構食べていた。家のメイドのシムノンは、シアヌークビルの隣のカンポットの出身で、ドリアンの産地に育っているので一言ある。市場から選んでくるのもなかなか美味い。でもドリアンは1個売りだから、量があって終わらせるのに2-3日かかる。
家の前には、洗濯屋があってそこでも時々ドリアンを売っている。しかし商売と言うほどでもなく、時々一籠(20-30個はあろうか)誰かが持ってきて、それを売っていると言ったところか。歩いて帰る土日には、良く呼び止められてドリアンを勧められるが、商売ものを食べてしまってもと遠慮していた。バッタンバンから帰ってきて、ドリアンを食べ終わった頃、差し入れに1個持ってきてくれた。このドリアンは、今まで食べたうちで一番美味しかった。臭いはさほど無く、甘味が強くこんなものを食べれば、確かにはまるし、果物の王様だと思う。でも私には未だに選別の基準が分からない。何処が違うのだろう。リンゴなら見ただけで何と何を掛け合わせているか想像がつくのだけれど。
変わった食べ物
カンボジア人は、本当に何でも食べる。中国人に劣らないと思う。今回の旅でも、パイリンの夜のワイルドピック(Zoos scrofa イノシシ)、マメジカ(Tragulusjavanicus 英名Lesser Mausedeer 最も小さなシカの仲間)あたりは何処の国でも食べるものかも知れない。しかしCivet シベット(3属4種ほどがいるらしいがどれか不明)やシソポンの北のドラゴンだと言うトカゲの仲間は、あまり一般的では無いような気がする。
パイリンで珍しい肉を出す食堂があると同行の教官の友人が連れて行ってくれた。最初シベットが出されてウサギのような動物だと説明があった。帰って図鑑で調べてみて、シベットであることが判明した。マメジカは、シカの仲間の小さいものだと説明があり、調べた結果はマメジカであった。いずれも、炒め物になっており、かなりコショウが効いてヒリヒリして、正確な味は分からなかった。柔らかくて細やかな味であるので、調理法を考えたら日本人に好まれる味であろう。ただし、カンボジアでは何の肉もそうであるが、如何にして骨付きの状態で出すか工夫されているようである。かなり小さな肉にも骨の一欠けらが付いている。東アフリカのタンザニアでもそうであったが、ヤギやウシの肉を売る場合に、必ず骨付きのまま売る。肩や太ももの部分も上手に切り分けて必ず骨が付いている。これは調理法が、主にスープになるために、味が出る骨をたたき割りながらつけるのがサービスと言ったところである。肉だけでは、美味しいスープにはならない。タンザニアでも最近白人の多い観光地では、ステーキにどうだと言って、肉だけの所を市場で見かけることがある。カンボジアのスープの一つにピジョン(ハト)が有るが、これはほとんどの骨をたたき割って入れてあるため、肉と一緒に骨が口に入る。飲み込める程度に小さいのであるが、数学の若い某先生は嫌がっていた。通常日本食には、無い舌触りのため気になったことであろう。私の小さい頃には、狩りをして捕ったウサギは、皮をはぐと肉と骨は一緒に叩いて肉団子にして食べていた。骨の感触は全く一緒で、気にはなるが食べて懐かしい味であった。
ワイルドピックは、炒め物になって出てきた。コショウとショウガが効いていて、ヒリヒリしていたが、さすがに他の2種とは味が異なった。こちらは骨付きでは無く皮付きで出てきた。皮下脂肪は少なく、ワイルドの名に値する。皮はコリコリと歯ごたえが良く硬いゼラチンの感触である。
シソポンの北で出されたドラゴンは、トカゲの仲間であることは出された皮付き骨付きの肉の状態から想像できた。皮には白黒の斑点の鱗が見られ、かなり硬い。これに噛みついて義歯の一部を壊してしまった。骨皮ごとぶつ切りにして、コショウ、ショウガ、トウガラシなどで炒めてありかなり辛い。かなり食欲は出るが、汗を拭き拭き、骨を片手に一生懸命に引っ張ることになる。アフリカでも更に大きなミズトカゲの仲間を食べたことがあるが、こちらは皮を除いてあったので、肉は軟らかく食べやすかった。カンボジアのこのトカゲは、森に住んでいて田や畑にはいないと言うから、水田地帯のこのあたりでは大ご馳走で貴重品であったらしい。
今回ではないが他にも、カイコの蛹(これは私も終戦直後には重要な栄養源として食べていた。糸を取った後になるので、脂肪分が酸化していて美味くはなかった。1980年代の前半には、韓国の街角でもやや味付けされたものが売られていた記憶がある)、ゲンゴロウ(これも小さい時に食べた思い出がある)、アリ(ツムギアリと思われる褐色のアリ、木の上に巣を造る。巣ごと収穫するか巣のしたに水を張ったたらいを置き、たたくとアリが落ちると言う)、コウロギ(何種類か食べているようで、大きさがかなり異なるものがある)、タガメ(日本のものより一回り大きい。タイやベトナムでも食べているようであるから、東南アジアでは普通の食べ物)等の昆虫食。クモ(大型のタランチュラ)、ヘビ、カメなどが売られている。ヘビは時々食堂のショウケースに入っているし、カメは川の渡船場ではよく売られている。既に蒸し焼き状態で、甲羅の両側が切られており、背と腹側を離して中身を手で引きちぎりながらタレをつけて食べる。卵が入っていると上等だと言う。
ゲンゴロウとタガメは、良く市場で売られているが、コウロギは季節性があるらしく見かけないことが多い。クモは、コウポンチャム地方が産地らしく、ここに行くと何時も売っている。しかしプノンペンなどではまれにしか見ることはない。
タガメは、カメムシに近い仲間で、強烈な臭いがある。魚などを補食する口は硬く、食べる時にはここを取り除いてから、羽をむしり、肢を取り除いて胸部と腹部を離して内容を吸い出す。これは数学のカウンターパートのワン君の食べぶり。内容はかなり強烈な臭いの部分があり、一瞬カメムシが口に入った時のことを思い出す。学生時代に山岳部が谷川岳に持っていた白樺小屋に良く通っていた。秋の終わり頃に出かけると、初雪の頃の外は寒くカメムシが扉の隙間や周囲に積んである燃料のマキに潜り込んでいる。中でストーブを焚き始めると温度があがり、カメムシが元気になる。寝ている時などにうっかり口を開けていると、カメムシが進入し、思わず閉じると目がしびれる様な臭気に見舞われる。このしびれる様な臭いを、何を好んで食べるのかと思うが、慣れると忘れられない味かも知れない。カンボジアに来た最初の頃は、ドクダミの臭いが気になったが、甘酢のサラダの中に入っているドクダミは、なかなか忘れがたいものである。他にもパクチーやドクダミと同じ香りのする香草をお粥やクイティウ(カンボジアの代表料理で、ビーフンのラーメンとでもいいたい物)などに入れる。この様な香草に適応できないと、カンボジア料理は好きになれないかも知れない。カンボジア料理は日本とは異なる香りで包まれている感じがする。
金森正臣 KANAMORI, Masaomi
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カンボジア王国バッタンバン地方見聞
カンボジア王国バッタンバン地方見聞
2004/8/23.
JICA短期専門家(生物)金森正臣
はじめに
高等学校の実験授業の観察のために、地方を訪れる機会に恵まれた。
私は今回、トンレサップ湖の西のバッタンバン(Battambang or Bat Dambang:カンボジアの地名は地図によって綴りが異なることがある)、バンテイミエンチャイ(Banteay Mean Chey)地域を主に回った。
今まで行ったことのある東側の地域が、主にトンレサップ湖とメコン川の水に依存して農業が営まれているのに対して、西の地域は背後に年間5,000mmを超える雨量のカルダモン山脈(Cardamom Mountains)を持ち多少生活が異なるのではないかと思われる。特にタイ国境に近いパイリン(Pailin)はポルポトが最後まで頑張った地域で、山の中と言われている。パイリンはガイドブックにもあまり登場しない町であり、最近まで行くことが公式には認められていなかった。
カンボジアの多くの地域を廻り、様々な文化に接して理解を深め、教育の場で彼らの考え方の理解を深めたいと思っている。
私のかすかな記憶の中にあるバッタンバンは、小学校生低学年の頃に読んだ「国姓爺合戦」の絵本にバッタンバンという城があり、それを「ワトウナイ」と言う男が知略を持って取り戻す話だった。国姓爺合戦にそんな話があるのかも定かではないが、カンボジアに来てかすかな記憶がよみがえり、そう言えばトラを使ったり、沢山のウシの角に松明を付けて追い落としたりする場面があった様に思われ、何となく親しみを持って気になっていた場所である。
旅行日程概要
5月31日朝9時頃にプノンペンを出発。途中1回コンポンチュナン(KampongChhnang)で休息。14:00頃バッタンバンの町に着き、NIE(National Institute ofEducation)の教官である、チャンセンに連絡。町中の高等学校で授業見学。バッタンバン泊。
6月1日朝バッタンバンを出て、パイリンに向かう。子どもの日で学校は休み。ただし学校で子どもの日の行事が行われている。
途中バッタンバンから20分ぐらいのところで、岩山の上に立つ寺が見え(ワット・プノン・サンポー)、この寺と山を見学。バッタンバンに着いて昼食。午後は国境まで見学に。
パイリンの町まで帰ってきて大きな寺を見学。クマとウシ科の珍獣がいる。
6月2日午前中は、パイリンで高等学校を視察。
午後はバッタンバンを通ってシソポンまで移動。パイリン近くで野生のラン数種とクリシュナンと呼んでいる伽羅(沈香)の苗木を買う。チャンセンは、この木は良い香りがするので栽培されていると言った。
6月3日早朝シソポンから北に向かって移動、約約2時間の町で高等学校見学。昼食をご馳走になる。午後は、午前の高等学校から車で約20分の水田地帯の中の集落にある高等学校を見学。昼休みには、カイコを飼っている村や日本が援助している灌漑用ダムを見学。
6月4日午前シソポンの町で高等学校見学。昼食後移動してバッタンバンで高等学校見学。バッタンバン泊。
6月5日バッタンバンからプノンペンに移動。途中プルサット(Pursat)を過ぎたあたりで、砂糖椰子の木からランを採集。椰子酒の採集者の家を見学。夕方プノンペン着。
メコン川の水位
プノンペンからウドンの町までは、車で約1時間半である。ほぼトンレサップに沿って土手の上を走る。途中いくつかの集落があり水田地帯が広がっている。5月末のこの時期は、まだ水位が上がっていないので田は一面乾燥している。約1時間走ったところに、車や人をトンレサップ東岸に渡す船着き場がある(Kaoh Chen カオチェン)。カンボジアでは、メコン川やサップ川を渡るのに橋があるところは、プノンペンから国道6号線を出たところのサップ川に架かる通称「日本橋」と同じ6号線のコンポンチャムでメコンを渡る「絆橋」(日本の援助)だけである。通常は全て簡単なフェーリーで渡る。5月16日に、地学のメンバーとウドンまで出かけた際に、このカオチェンで川の水位を計ったので、今回も川岸まで下りてみる。水位はすでに上がり始めており70センチぐらいは深くなっている。すでにメコン川の水位が上がり逆流を始めていることによる水面の上昇である。
カンボジアは、5月頃から11月頃までが雨期で、次第に川の水位が上がる。特に9月が雨の多い時期であるが、水位はそれ以前から上昇する。カンボジアの主なる河川は、メコン川とその水が逆流したりするトンレサップ(トンレは川の意味である。トンレサップは、サップ川の意味)である。メコン川は、その源をチベットに発し、中国、ミャンマー、タイ、ラオスを通ってカンボジアに流れ込み、ベトナムにデルタを広げて南シナ海に達する大河である。チベットあたりの雪解けの影響もあり、6月になると先にメコン川の水位が上がってくるので、メコン川からサップ川に水が逆流する。5月末のこの時期には、既にメコン川からサップ川に逆流が始まり、サップ川では上流域の降水による水位の上昇よりも早くに下流域の水位が上がり始める。トンレサップ(湖)はほとんど傾斜が無く、最も水位の低い時期には約3,000平方キロになり深いところでも1メートル以下になる。トンレサップ湖にメコンから水が逆流して満水になると水面積が約15,000平方キロと5倍以上に広がる。琵琶湖の面積を約670平方キロとすると、最小の時期に約4.5倍、最大の時期には約22倍である。
アースサイエンスのメンバーと来たときには、ここでカメを買って、標本にした。カンボジアでは一般にカメは、食用として調理したものが売られている。丁度昼食時間であったためレストランに入ると、カメ売り達が頭にカメを入れた篭を乗せてやってきた。カメは蒸し焼きにされており、両側の骨が切断されて、胸骨側と背骨側が分かれるようになっている。アースサイエンスのメンバーは、女性が3人、男性が1人であるから、カメを食べるか伺ってみたところ、皆大好きとのことであった。カメをよく観察するとどうやら陸生の箱ガメの仲間で、胸骨側が前後で折れるようになっている。種類も2種類あるので両方とも標本のために買うことにした。骨は標本になるとしても、肉の部分は必要ないので、皆で昼食の一部分とした。淡泊でこくのある軟らかな肉である。
カンボジアのメンバーが、日本へ研修に来ていた折りに、私の生態学実習に参加した。実習項目の一つに、大学付近の池でカメを採集してマークして放す実習があった。動物生態学では基礎的技術の、「記号放逐法」である。その際に研修者が、カンボジアでは捕まると食べられてしまうので、この方法は出来ないと言っていたのを思い出した。
国道1号線、6号線などのメコン川の渡し場でカメを売っているところをよく見かけるので、淡水生のカメかと思っていたが、どうやら陸生のカメが売られているらしい。大きさでは、約1キログラム程度のものから300グラム程度のものまで見られた。その内の一種は Cuora amboinensis (英名はAsian box turtle)である。
コンポンチュナンのベトナム町
ウドンから急に道が良くなり、約1時間でコンポンチュナンの町に着いた。ほとんど平坦な乾いた水田地帯を走った。コンポンチュナンは、トンレサップに面した町で、プノンペンからシェムリアップに至るボートの船着き場もある。メコン川から続いているために、水上移動者は、簡単に入ってくることができる。町には大きな市場が二つあり、背後には湿地が広がっている。川岸に出てサトウキビジュースを飲みながら一休みした。土手の上から見ると川辺には水上生活のベトナム人の集落がある。その数は100戸を優に超えている。彼らの家は、陰に隠れる様な小さな家もあるので、200ぐらいはあるかも知れない。運転手のシュポン君によると、話されているのはベトナム語で分からないと言う。この集落は主に漁業で成り立っているのか、魚を干しているのや売っているのが見える。川魚特有の臭いも伴っている。加工や販売が行われ、小さな市場もあって活況を呈している。川を行き来する高速ボートも見られる。多分シェムリアップからプノンペンに向かう船だと思われる。
コンポンチュナンの町を出ると直ぐに左手に、山が見られる。カルダモン山脈から続いている山が最も平地に突きだしている部分である。そこから約1時間走って、プルサット(Pousat or Pursat)の町の直前で、プノンペンからバッタンバンへのバスが止まるレストランで昼食にした。
このあたりからバッタンバンに掛けては、西側(左手)に山を控えているために、いくつかの川がトンレサップ(右手)に向かって流れ込んでいる。ほとんど平坦な乾燥地に見えるが、雨期の末期には一面水没することであろう。この平坦地を走っていると、所々ヤシの木が多い場所がある。こんもりとした森の様に見えるが、この様なところはほとんど集落がある。ヤシの木がやや乾く所に生育してそこに集落が成立しているのか、集落の人々が椰子を植えるから集落と椰子が結びつくのかは明らかではない。屋敷の中の椰子は、ほとんどがココナッツ椰子(種子が人の頭ほどにもなる。中の水を飲んだり、種子の周囲に貯まる脂肪層を使ったりする。 Cocos nucifera 英名Coconut plam)であるが、集落の周辺部にあるのは、ほとんど砂糖椰子(花穂を切って上がって来る水分を竹筒で受けて、1日に一度採集に回る。この液は甘く、ある木の片を入れておくと発酵してヤシ酒になる。また液を煮詰めて椰子の砂糖を作る。この液から酢も造るという。Arenga pinnata 英名Sugar palm)である。この様な椰子と人の生活の関係を調べるのも面白いと思われる。地方によって椰子はバラバラと何処にでも見られる。椰子と水分環境との関係から、湿地になっている時間と椰子の関係、人と椰子の関係に法則性があると思われる。
バッタンバンの町
プルサットからバッタンバンまでには、平坦であるが時々丘があって、頂上にはお寺がある。お寺は、丘が有れば高いところに造るのがカンボジア流である。水が無くて大変であろうと思われるが、集落は平地にあるから、純粋に宗教上の理由からであろう。高いところは清浄な場所で、低いところや地中は地獄に通じるとする思想と関係がある様に思われる。例えば、アンコールワットの第3回廊にはプールがあり、王はここで身を清めてから最後の塔に登ったとされている。地上の水或いは地下の水は、不浄な水或いは地獄からの水であると考えられていた。
バッタンバンは町の中央付近に西から流れ込むかなり深い川がある(サンカー川)。川幅は大きくないが、雨期の始まったばかりの現在は、最高水位から6-7メートル下がった堀状になっている。そこにはシェムリアップに行く高速艇が止まっていた。町には大きな市場が二つある。この川の北側には大きな市場、ニャーマーケットがあって、賑わいの中心になっている。
市場には多量の米が集まるらしく、見かける秤は100kgを計れるものが多い。プノンペンの市場や他の町ではあまり見られない大きな秤を使っている。米は見かけたところでは、60 kg程度の袋に入れられて積まれている。果物の小売店などは独自の秤を持っていなくて、直ぐ隣の店の秤を借用することが多い。1-2kgを量るのに100kgの秤では誤差が大きくて困るだろうと思うのは、正確さを好む日本人の不必要な心配である。商売は双方が納得していれば問題は起こらないのであって、目分量も大いに働いて、100kg秤で1kgを量ることについては日常的に何の問題も生じないのである。 ニャーマーケットは夜になると閉まるが、周辺部に果物の路上販売が活発化する。タイ国境に近く輸入品が多いという。ランブータン、マンゴースチンなどが、10kg袋で山積みされて売られている。ドリアンは別に1個ずつ山積みされている。これらの果物は、タイから北の町シソポン経由で来るという。道路事情からしてもパイリン方面から入ってくることは少ない様である。
町全体に高い建物は少なく、ホテルの4階ぐらいが最も高い。ここから眺めると西には遠くパイリンの山々が望見され、その他には水田が広がっている。5月31日には丁度雷雨があり、ホテルの屋上のレストランから、雷が見られた。バッタンバンは、雷で有名なところだそうである。そう言えば片側に山を控えて、雷の発生しそうな地形である。短時間に強い雷を何回か観察できた。
レストランは小さなものは町中に沢山ある。一方で町を外れた車でしか行きようのないところに、100席を超える程度の大きなレストランが幾つかある。いずれも新しい施設で、町が発展してきている印象を受ける。カンボジアではバスなどの公共交通機関は発達していないから、郊外のレストランに行くには、バイクか車しかない。
岩山上の寺:ワット・プノン・サンポー
バッタンバンの町から西側のパイリンに向かって20分ほど走ると、左手に偉容な岩山が出現する。高さが200メートルはありそうな崖に取り囲まれており登るのは大変そうである。皆で車から降りて、記念撮影をすることになった。登ってみたいという意見に押されて、時間もあるので寄ってみることにした。近づくと急峻で登れそうもなかったが、車は裏側に回り込みながら、細い道を上り始めた。山を半周回る様にしてほとんど9合目付近まで車で登ってしまった。
車を降りてみると、付近には新しいお寺もあり、頂上のお寺に上る道も工事中で、この車道はかなり頻繁に使われているらしい。山上のお寺までは、100メートルほどであるが、その間に現在の政府軍側の大砲が2基設置されていた。砲身はまだ手動で動かすことができ、高さや方角が変えられる。この大砲の廻りには、岩を利用した塹壕があり、兵士達の息づかいが伝わってきそうな感じである。山の上から道路を見下ろしていると、道を走る車は小さく見え、とても大砲の弾が戦車に当たるとは思えなかった。威嚇にしかならなかったのであろうか。
岩山とお寺を見学。山は石灰岩で、上部に縦穴に近い深い洞窟があった。後で調べたところでは、ここでも虐殺があり、沢山の遺体が洞窟の中に投げ込まれていたらしい。現在は骨が安置されており、仏様も祭ってあるという。先を急いでいたので、洞窟の中まで入らなかった。
山の裾の崖には大きな仏様を彫り出しているか作り付けている。30メートルは有ろうかという高い足場が、竹で組まれており、作業が行われている。これだけの高さを竹で簡単に組み上げてあるのを見ると事故は起こらないのだろうかと人ごとながら心配になる。こちらの工事は、多くの場合少人数で延々と行われている。プノンペンのビル工事などでも、昨年からからほんの数人で延々と続けられているのを見かける。この仏像の工事も、何年かかっているのだろうか。
寺ではサルの群を観察できた。カニクイザル(Macaca fascicularis)で、成体の雄が2頭、成体雌8頭(内、出産後1週間以内の子供を持つ個体1。妊娠で出産間近の個体3)。他に亜成体2-3個体、子供4個体で、合計17個体プラスα。
成体雌8個体の内、出産直後が1個体、妊娠出産間近が3個体であるところから、出産期にあると思われる。熱帯ではあるが、繁殖シーズンが限定されている可能性が高い。もし繁殖期が限定されているのであれば、雌成体の出産率は0.5に近く、野生ニホンザルに比較すると、出産率は高そうである。このカニクイザルは、かなり人慣れしており、人を恐れて逃げる気配はない。従って多少人から餌を得ている可能性がある。とすれば日本の野荒らし群と同じ程度の出産率と見ることができる。
人慣れしているが、人への著しい依存は見られず、群れへのアプローチが容易であるなどサルの研究フィールドとして良い条件を整えている。
この山は、石灰岩でできており植物相は単純そうである。しかしながら岩の上、斜面、麓と植物相に相違が見られ、NIEの教官や学生達の環境と植物社会の勉強フィールドとして優れた条件を揃えている。
つづく
2004/8/23.
JICA短期専門家(生物)金森正臣
はじめに
高等学校の実験授業の観察のために、地方を訪れる機会に恵まれた。
私は今回、トンレサップ湖の西のバッタンバン(Battambang or Bat Dambang:カンボジアの地名は地図によって綴りが異なることがある)、バンテイミエンチャイ(Banteay Mean Chey)地域を主に回った。
今まで行ったことのある東側の地域が、主にトンレサップ湖とメコン川の水に依存して農業が営まれているのに対して、西の地域は背後に年間5,000mmを超える雨量のカルダモン山脈(Cardamom Mountains)を持ち多少生活が異なるのではないかと思われる。特にタイ国境に近いパイリン(Pailin)はポルポトが最後まで頑張った地域で、山の中と言われている。パイリンはガイドブックにもあまり登場しない町であり、最近まで行くことが公式には認められていなかった。
カンボジアの多くの地域を廻り、様々な文化に接して理解を深め、教育の場で彼らの考え方の理解を深めたいと思っている。
私のかすかな記憶の中にあるバッタンバンは、小学校生低学年の頃に読んだ「国姓爺合戦」の絵本にバッタンバンという城があり、それを「ワトウナイ」と言う男が知略を持って取り戻す話だった。国姓爺合戦にそんな話があるのかも定かではないが、カンボジアに来てかすかな記憶がよみがえり、そう言えばトラを使ったり、沢山のウシの角に松明を付けて追い落としたりする場面があった様に思われ、何となく親しみを持って気になっていた場所である。
旅行日程概要
5月31日朝9時頃にプノンペンを出発。途中1回コンポンチュナン(KampongChhnang)で休息。14:00頃バッタンバンの町に着き、NIE(National Institute ofEducation)の教官である、チャンセンに連絡。町中の高等学校で授業見学。バッタンバン泊。
6月1日朝バッタンバンを出て、パイリンに向かう。子どもの日で学校は休み。ただし学校で子どもの日の行事が行われている。
途中バッタンバンから20分ぐらいのところで、岩山の上に立つ寺が見え(ワット・プノン・サンポー)、この寺と山を見学。バッタンバンに着いて昼食。午後は国境まで見学に。
パイリンの町まで帰ってきて大きな寺を見学。クマとウシ科の珍獣がいる。
6月2日午前中は、パイリンで高等学校を視察。
午後はバッタンバンを通ってシソポンまで移動。パイリン近くで野生のラン数種とクリシュナンと呼んでいる伽羅(沈香)の苗木を買う。チャンセンは、この木は良い香りがするので栽培されていると言った。
6月3日早朝シソポンから北に向かって移動、約約2時間の町で高等学校見学。昼食をご馳走になる。午後は、午前の高等学校から車で約20分の水田地帯の中の集落にある高等学校を見学。昼休みには、カイコを飼っている村や日本が援助している灌漑用ダムを見学。
6月4日午前シソポンの町で高等学校見学。昼食後移動してバッタンバンで高等学校見学。バッタンバン泊。
6月5日バッタンバンからプノンペンに移動。途中プルサット(Pursat)を過ぎたあたりで、砂糖椰子の木からランを採集。椰子酒の採集者の家を見学。夕方プノンペン着。
メコン川の水位
プノンペンからウドンの町までは、車で約1時間半である。ほぼトンレサップに沿って土手の上を走る。途中いくつかの集落があり水田地帯が広がっている。5月末のこの時期は、まだ水位が上がっていないので田は一面乾燥している。約1時間走ったところに、車や人をトンレサップ東岸に渡す船着き場がある(Kaoh Chen カオチェン)。カンボジアでは、メコン川やサップ川を渡るのに橋があるところは、プノンペンから国道6号線を出たところのサップ川に架かる通称「日本橋」と同じ6号線のコンポンチャムでメコンを渡る「絆橋」(日本の援助)だけである。通常は全て簡単なフェーリーで渡る。5月16日に、地学のメンバーとウドンまで出かけた際に、このカオチェンで川の水位を計ったので、今回も川岸まで下りてみる。水位はすでに上がり始めており70センチぐらいは深くなっている。すでにメコン川の水位が上がり逆流を始めていることによる水面の上昇である。
カンボジアは、5月頃から11月頃までが雨期で、次第に川の水位が上がる。特に9月が雨の多い時期であるが、水位はそれ以前から上昇する。カンボジアの主なる河川は、メコン川とその水が逆流したりするトンレサップ(トンレは川の意味である。トンレサップは、サップ川の意味)である。メコン川は、その源をチベットに発し、中国、ミャンマー、タイ、ラオスを通ってカンボジアに流れ込み、ベトナムにデルタを広げて南シナ海に達する大河である。チベットあたりの雪解けの影響もあり、6月になると先にメコン川の水位が上がってくるので、メコン川からサップ川に水が逆流する。5月末のこの時期には、既にメコン川からサップ川に逆流が始まり、サップ川では上流域の降水による水位の上昇よりも早くに下流域の水位が上がり始める。トンレサップ(湖)はほとんど傾斜が無く、最も水位の低い時期には約3,000平方キロになり深いところでも1メートル以下になる。トンレサップ湖にメコンから水が逆流して満水になると水面積が約15,000平方キロと5倍以上に広がる。琵琶湖の面積を約670平方キロとすると、最小の時期に約4.5倍、最大の時期には約22倍である。
アースサイエンスのメンバーと来たときには、ここでカメを買って、標本にした。カンボジアでは一般にカメは、食用として調理したものが売られている。丁度昼食時間であったためレストランに入ると、カメ売り達が頭にカメを入れた篭を乗せてやってきた。カメは蒸し焼きにされており、両側の骨が切断されて、胸骨側と背骨側が分かれるようになっている。アースサイエンスのメンバーは、女性が3人、男性が1人であるから、カメを食べるか伺ってみたところ、皆大好きとのことであった。カメをよく観察するとどうやら陸生の箱ガメの仲間で、胸骨側が前後で折れるようになっている。種類も2種類あるので両方とも標本のために買うことにした。骨は標本になるとしても、肉の部分は必要ないので、皆で昼食の一部分とした。淡泊でこくのある軟らかな肉である。
カンボジアのメンバーが、日本へ研修に来ていた折りに、私の生態学実習に参加した。実習項目の一つに、大学付近の池でカメを採集してマークして放す実習があった。動物生態学では基礎的技術の、「記号放逐法」である。その際に研修者が、カンボジアでは捕まると食べられてしまうので、この方法は出来ないと言っていたのを思い出した。
国道1号線、6号線などのメコン川の渡し場でカメを売っているところをよく見かけるので、淡水生のカメかと思っていたが、どうやら陸生のカメが売られているらしい。大きさでは、約1キログラム程度のものから300グラム程度のものまで見られた。その内の一種は Cuora amboinensis (英名はAsian box turtle)である。
コンポンチュナンのベトナム町
ウドンから急に道が良くなり、約1時間でコンポンチュナンの町に着いた。ほとんど平坦な乾いた水田地帯を走った。コンポンチュナンは、トンレサップに面した町で、プノンペンからシェムリアップに至るボートの船着き場もある。メコン川から続いているために、水上移動者は、簡単に入ってくることができる。町には大きな市場が二つあり、背後には湿地が広がっている。川岸に出てサトウキビジュースを飲みながら一休みした。土手の上から見ると川辺には水上生活のベトナム人の集落がある。その数は100戸を優に超えている。彼らの家は、陰に隠れる様な小さな家もあるので、200ぐらいはあるかも知れない。運転手のシュポン君によると、話されているのはベトナム語で分からないと言う。この集落は主に漁業で成り立っているのか、魚を干しているのや売っているのが見える。川魚特有の臭いも伴っている。加工や販売が行われ、小さな市場もあって活況を呈している。川を行き来する高速ボートも見られる。多分シェムリアップからプノンペンに向かう船だと思われる。
コンポンチュナンの町を出ると直ぐに左手に、山が見られる。カルダモン山脈から続いている山が最も平地に突きだしている部分である。そこから約1時間走って、プルサット(Pousat or Pursat)の町の直前で、プノンペンからバッタンバンへのバスが止まるレストランで昼食にした。
このあたりからバッタンバンに掛けては、西側(左手)に山を控えているために、いくつかの川がトンレサップ(右手)に向かって流れ込んでいる。ほとんど平坦な乾燥地に見えるが、雨期の末期には一面水没することであろう。この平坦地を走っていると、所々ヤシの木が多い場所がある。こんもりとした森の様に見えるが、この様なところはほとんど集落がある。ヤシの木がやや乾く所に生育してそこに集落が成立しているのか、集落の人々が椰子を植えるから集落と椰子が結びつくのかは明らかではない。屋敷の中の椰子は、ほとんどがココナッツ椰子(種子が人の頭ほどにもなる。中の水を飲んだり、種子の周囲に貯まる脂肪層を使ったりする。 Cocos nucifera 英名Coconut plam)であるが、集落の周辺部にあるのは、ほとんど砂糖椰子(花穂を切って上がって来る水分を竹筒で受けて、1日に一度採集に回る。この液は甘く、ある木の片を入れておくと発酵してヤシ酒になる。また液を煮詰めて椰子の砂糖を作る。この液から酢も造るという。Arenga pinnata 英名Sugar palm)である。この様な椰子と人の生活の関係を調べるのも面白いと思われる。地方によって椰子はバラバラと何処にでも見られる。椰子と水分環境との関係から、湿地になっている時間と椰子の関係、人と椰子の関係に法則性があると思われる。
バッタンバンの町
プルサットからバッタンバンまでには、平坦であるが時々丘があって、頂上にはお寺がある。お寺は、丘が有れば高いところに造るのがカンボジア流である。水が無くて大変であろうと思われるが、集落は平地にあるから、純粋に宗教上の理由からであろう。高いところは清浄な場所で、低いところや地中は地獄に通じるとする思想と関係がある様に思われる。例えば、アンコールワットの第3回廊にはプールがあり、王はここで身を清めてから最後の塔に登ったとされている。地上の水或いは地下の水は、不浄な水或いは地獄からの水であると考えられていた。
バッタンバンは町の中央付近に西から流れ込むかなり深い川がある(サンカー川)。川幅は大きくないが、雨期の始まったばかりの現在は、最高水位から6-7メートル下がった堀状になっている。そこにはシェムリアップに行く高速艇が止まっていた。町には大きな市場が二つある。この川の北側には大きな市場、ニャーマーケットがあって、賑わいの中心になっている。
市場には多量の米が集まるらしく、見かける秤は100kgを計れるものが多い。プノンペンの市場や他の町ではあまり見られない大きな秤を使っている。米は見かけたところでは、60 kg程度の袋に入れられて積まれている。果物の小売店などは独自の秤を持っていなくて、直ぐ隣の店の秤を借用することが多い。1-2kgを量るのに100kgの秤では誤差が大きくて困るだろうと思うのは、正確さを好む日本人の不必要な心配である。商売は双方が納得していれば問題は起こらないのであって、目分量も大いに働いて、100kg秤で1kgを量ることについては日常的に何の問題も生じないのである。 ニャーマーケットは夜になると閉まるが、周辺部に果物の路上販売が活発化する。タイ国境に近く輸入品が多いという。ランブータン、マンゴースチンなどが、10kg袋で山積みされて売られている。ドリアンは別に1個ずつ山積みされている。これらの果物は、タイから北の町シソポン経由で来るという。道路事情からしてもパイリン方面から入ってくることは少ない様である。
町全体に高い建物は少なく、ホテルの4階ぐらいが最も高い。ここから眺めると西には遠くパイリンの山々が望見され、その他には水田が広がっている。5月31日には丁度雷雨があり、ホテルの屋上のレストランから、雷が見られた。バッタンバンは、雷で有名なところだそうである。そう言えば片側に山を控えて、雷の発生しそうな地形である。短時間に強い雷を何回か観察できた。
レストランは小さなものは町中に沢山ある。一方で町を外れた車でしか行きようのないところに、100席を超える程度の大きなレストランが幾つかある。いずれも新しい施設で、町が発展してきている印象を受ける。カンボジアではバスなどの公共交通機関は発達していないから、郊外のレストランに行くには、バイクか車しかない。
岩山上の寺:ワット・プノン・サンポー
バッタンバンの町から西側のパイリンに向かって20分ほど走ると、左手に偉容な岩山が出現する。高さが200メートルはありそうな崖に取り囲まれており登るのは大変そうである。皆で車から降りて、記念撮影をすることになった。登ってみたいという意見に押されて、時間もあるので寄ってみることにした。近づくと急峻で登れそうもなかったが、車は裏側に回り込みながら、細い道を上り始めた。山を半周回る様にしてほとんど9合目付近まで車で登ってしまった。
車を降りてみると、付近には新しいお寺もあり、頂上のお寺に上る道も工事中で、この車道はかなり頻繁に使われているらしい。山上のお寺までは、100メートルほどであるが、その間に現在の政府軍側の大砲が2基設置されていた。砲身はまだ手動で動かすことができ、高さや方角が変えられる。この大砲の廻りには、岩を利用した塹壕があり、兵士達の息づかいが伝わってきそうな感じである。山の上から道路を見下ろしていると、道を走る車は小さく見え、とても大砲の弾が戦車に当たるとは思えなかった。威嚇にしかならなかったのであろうか。
岩山とお寺を見学。山は石灰岩で、上部に縦穴に近い深い洞窟があった。後で調べたところでは、ここでも虐殺があり、沢山の遺体が洞窟の中に投げ込まれていたらしい。現在は骨が安置されており、仏様も祭ってあるという。先を急いでいたので、洞窟の中まで入らなかった。
山の裾の崖には大きな仏様を彫り出しているか作り付けている。30メートルは有ろうかという高い足場が、竹で組まれており、作業が行われている。これだけの高さを竹で簡単に組み上げてあるのを見ると事故は起こらないのだろうかと人ごとながら心配になる。こちらの工事は、多くの場合少人数で延々と行われている。プノンペンのビル工事などでも、昨年からからほんの数人で延々と続けられているのを見かける。この仏像の工事も、何年かかっているのだろうか。
寺ではサルの群を観察できた。カニクイザル(Macaca fascicularis)で、成体の雄が2頭、成体雌8頭(内、出産後1週間以内の子供を持つ個体1。妊娠で出産間近の個体3)。他に亜成体2-3個体、子供4個体で、合計17個体プラスα。
成体雌8個体の内、出産直後が1個体、妊娠出産間近が3個体であるところから、出産期にあると思われる。熱帯ではあるが、繁殖シーズンが限定されている可能性が高い。もし繁殖期が限定されているのであれば、雌成体の出産率は0.5に近く、野生ニホンザルに比較すると、出産率は高そうである。このカニクイザルは、かなり人慣れしており、人を恐れて逃げる気配はない。従って多少人から餌を得ている可能性がある。とすれば日本の野荒らし群と同じ程度の出産率と見ることができる。
人慣れしているが、人への著しい依存は見られず、群れへのアプローチが容易であるなどサルの研究フィールドとして良い条件を整えている。
この山は、石灰岩でできており植物相は単純そうである。しかしながら岩の上、斜面、麓と植物相に相違が見られ、NIEの教官や学生達の環境と植物社会の勉強フィールドとして優れた条件を揃えている。
つづく
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