カンボジア王国バッタンバン地方見聞(つづき)

  パイリン
 ワット・プノン・サンボーから約20km行くとトレイという小さな町を通る。この辺りは、1998年頃までは、昼間は政府軍、夜はポルポト軍が占拠していたという。農民は疲弊し、家を維持することが出来なかったと言われている。そのためか半数以上の家は、草壁、草屋根の新しい家である。一般にカンボジアでは、貧しい家は草(椰子の葉などを使う)で造られており、やや豊になると木造住宅に変わる。板壁、板屋根になるとそれなりに建造コストがかかる。更に屋根が瓦になったり、壁が煉瓦作りのタイル張りになったりすると、大分費用がかさむ。かなりの蓄えがないとできない。
更に車が走ると、次第に水田は消えて畑だけになる。この頃から道沿いに見える家はほとんど草の壁、草の屋根で規模も小さな家になり、貧しさのほどが伺える。パイリンに近づくほど貧しくなっている印象を受ける。
 ところが、1枚あたりの畑は大規模になり、作物もマメ、トウモロコシ、ゴマ、等が作られている。他にも、マンゴー、ジャックフルーツ、キャッサバなどが作られている。これらは全て換金作物であると思われる。貧しい草葺きの家と大面積の換金作物は不釣り合いで、どの様な構造になっているか不思議に思った。
パイリン市の標識のある川を11時頃渡る。それまでにも、3本ほどの川を渡ったが、いずれも川幅は数メートルで大きな流れではない。しかし川縁はかなりえぐられていて、内戦の時には重要な堀の役割を果たしてきたものと思われる。標識のある川頃から次第に大型機械による整地と耕作が広がる。この様な大型機械の援助があるとは聞いていないから、ポルポト派のボス達が自分達の財力を資金にして、導入しているのであろう。中でもゴマは、かなりの面積耕作されている。
 11時45分頃パイリン市の市庁舎の前に到着した。NIEの生物の教官のチャンセンの大学時代の同級生である地方教育事務所の職員を呼び出し、市場の近くのホテルにチェックイン。彼はパイリンに住み始めて4年になると言う。その友人の案内で市内のレストランで昼食。お店の人が食べていた昼食の、豚のミンチとプラホック(淡水の魚を塩漬けで保存したもの。搾った汁はトックトレイと言われる魚醤。タイではナンプラーと呼ぶ)を入れて味噌状のペーストを作り、生野菜(キュウリ、ナス、キャベツ、ニンジン、あおバナナの薄切りなど)や茹で野菜(ニガウリや白菜など)に付けて食べる。この茹で野菜に見かけないものが入っていたので、ちょいと横から摘んで食べたら、どうぞどうぞと沢山出してくれた。だいたいカンボジアの食堂では、店員の食事がお店の中で行われていることが多い。そこで美味そうなものの場合には、遠慮無くのぞき込んでお相伴に預かることにしている。だいたい地方であれば、どこの店でも機嫌良く摘ませてくれる。味見をしてから注文すると、売り物でなかったりするが、わざわざ作ってくれることもある。この茹で野菜には得体の知れない掌状のかなり大きな葉が入っていて、チャンセンや友人にに聞いても要領を得ない。しばらく広げて点検している内に、にわかにアフリカの記憶がよみがえって、キャッサバの葉であることが判明した。本来キャッサバは、毒があって他の動物が食べないので栽培に適しているが、改良されたスイートキャッサバは、収量は少ないが毒が無く、葉も芋も重宝される。そのスイートキャッサバの若葉が出されていた。来るまでに見てきた栽培の大部分は、色や木の状態からスイートキャッサバであった。
 昼食後、チャンセンの友人の案内で、国境の場所を見学に行くことにする。昨年四家さんも国境まで行ったとシュポンが言う。2時頃出かけて30分ほどで国境に着く。道中は益々大きな農場となり、トウモロコシとゴマが多い。トウモロコシはタイとプノンペンに出荷で、タイではニワトリの餌になると言う。ゴマはプノンペンに出荷が主らしい。国境にはカジノが二つあり、ホテルもある。国境の手前には、カンボジア側のマーケットがあり、タイから輸入されたものやカンボジアで生産されたものが販売されている。時々マイクロバスなどで来て、国境の検問所で手続きをして、国境を越えて行くグループが見られる。マーケットの入り口の果物屋で、果物を食べながら談笑していると、この女主人はコンポンチャムの出身であると話てくれた。主人も同郷であるが、ここのカジノの守衛に働き口が見つかったので、子どもを一人連れて越してきた。一人の子どもはコンポンチャムの両親に預けて来ている。カンボジアでは職が無く、遠くに出稼ぎに来るのは当たり前らしい。約1時間周辺を見物している間に、シュポンとTTD(Ticher torening depatometo)の男は、国境を越えて2kmほどの所にあるというタイ側のマーケットに行って買い物をしてきた。国民感情としては、タイには好感を持っていないと言われているが、良質なものを安価に入手したいという物欲との相克は如何なものであろうか。
 パイリンから国境までの街道は、2-3年前まで大木の森に覆われていたが、畑が開かれてほとんど森は消失した。その畑の間にも地雷があって入れない丘があり、そこだけぽつんと空き地が広がっている。帰りに、明日訪問する学校の校長先生の家があるというので、挨拶に寄ることになった。囲われた広い農場の中に立っており、高床式の木造住宅であるが、一部煉瓦作りの家で自動車も持っている。敷地内には沢山の果樹が植えられていた。以前はポルポトの有力者であったと言う。デストリクトの首長も教育長も義務教育課のトップも、皆ポルポト時代にはそれなりの地位にいた人たちらしい。彼らは現在でも豊かな生活を続けている。ポルポトの有力者たちは皆広い土地を持ち、使用人を使って暮らしている。下級の人たちも、使用人として働くことによって、食べることは出来ている。これでは当分この地方は変わらないであろう。
投宿したホテルには、主人のポルポト軍時代の写真が貼られてあり、かなりの幹部であったらしいことが伺える。彼はケップにもホテルを持っており、その宣伝の写真も飾られている。ケップは内戦以前には綺麗なリゾート地であり、広い敷地を持った別荘が建ち並んでいた。内戦が始まる頃に戦場となり現在でも砲弾の跡がある建物が、昔の姿を思い起こさせる。現在次第に再開発が進んでいる。
 パイリンに4時頃戻って、町の入り口にある大きな寺(Phnum Yat)を見学した。この寺もポルポト時代に破壊されたがその後に復旧されたもので新しい。寺には迷い込んできたというクマが飼育されていた。このクマ(Urusus thibetanus)は、数が少なくなっており、カンボジアとして保護に乗り出している動物である。他にも野生の牛が放し飼いにされており、参拝者に可愛がられていた。この牛(Bos javanicus)は角が短く、全身は褐色であるが膝から下が白色なので見間違えることは少ない。やはり数が少なくなっていて、保護の対象になっている動物である。ミャンマー、タイ、ラオス、ベトナムにも分布している。
 パイリンの町で気になる光景は、夜になってのその暗さである。街灯が少ないだけではなく、多くの家が扉を全部開いていない。4-6本ある板戸は、その1-2枚が開いており他は締め切られている。中に人の気配はあり、中から通りをじっと伺っているのが感じられる。レストランでもない限り店をやっていても同じで、近づくと中からすぐに人が出てくる。これは最近まで戦闘が続いていた影響であろうか。気になる光景であった。

 
帰り道のラン
 パイリンに行く時に気になっていた道路端に吊されているランを、帰りに集めた。パイリンでは至るところにランが吊されていて、どうやら売っているらしい。趣味で置いている家もあるようであるが、交渉次第では応じてくれる。だいたい樹上性のランで、簡単には手に入りそうもない。ランを集め始めた動機は、上手く行けばチャンセンが来年には、愛知教育大学の市橋先生のところでランの研究に着手する可能性があるので、出来るだけ様々なランを見せておきたいと思ったのからである。(一橋先生のご努力の結果、8月22日の段階では、チャンセンの留学は確定している)。私自身は、ランの花を観賞するのは好きであるが、頂けば楽しむ程度である。しかしランの生活には興味を持っており、アフリカでも樹上性のランがあると採集していた。その多様性は驚くばかりである。入手しにくい樹上性のランが沢山吊されている原因を想像するに、畑の開墾のために木を倒した折りに、高所にあるランを採集しているのであろう。今までに見たことのない仲間もあり、結構楽しみながら集めている。
 パイリンからの帰途、まだ山の中を走っている時、チャンセンが苗木畑を見つけ木を買って帰りたいと言い出した。木の名前は「チャンクリシュナン」と言い、大きくなると枝の木部が良い香りがするので栽培するのだという。高さ1メートルぐらいの苗木を3本を2ドルほどで買って帰ったが、後に偶然の機会にこれが伽羅(沈香)であることが分かった。現在NIEの構内で育っている。この苗木場では、大小1万本程度の苗木が育てられていた。
 6月5日にバッタンバンからプノンペンに戻る際も、プルサット付近の道路脇の砂糖椰子に付いているランの株を採集した。やや高いところにあったので、付近の農家の男性を頼んで取ってもらった。偶然にも彼は、砂糖椰子の樹液の採集者で、椰子酒を作ることを仕事としていた。このため椰子の木に登るのは、造作もなかった。また彼の案内で付近を歩いた時、地上に直接咲くラフレシアと思われる花の跡に連れて行かれた。花弁跡の直径は、80センチもあるであろうか。ラフレシアは、ボルネオ島にあるのは読んだことがあるが、カンボジアにもあったのであろうか。もしそうだとすれば、プノンペンから2時間ぐらいでもあるし、案内人が雨期に咲くと言うこの花を、もう一度見に来たいものである。
 案内人の家に寄ると、作りたてのヤシ酒を振る舞ってくれた。ブツブツと発酵してやや炭酸が入っており、さわやかな飲み物である。いい気になって飲むと酒に弱い私は真っ赤になってふらふらするが、ジュースの様に飲みやすい。やはり長時間は置けない様で、加工してしまうらしい。運転手のシュポン君は、この家ではこれから酢を造っていると言っていた。そう言えば庭先に焼酎瓶の様な陶製の瓶が3個ほど転がっていた。ヤシ酒は、花穂を切って上がってくる樹液を竹の筒に受ける。毎日竹筒を交換して歩く。その竹筒の中に何かの木片を入れてある。この木片は鉈で削っただけの3-4センチ角で乾燥保存されている。ヤシ酒は木から下ろしてきたときは甘味が強く、時間が経つに従ってアルコール分が多くなり酸味なども加わる。乾期は良質であるが、雨期はあまり良くないという。
 
シソポンの北の町の金色のシルク
 シソポンの北の地域に出かけた折りに、桑の木を見つけて気になっていた。付近に養蚕をしている村があり、校長先生の案内で見学することが出来た。
 養蚕の規模は小さく、各家庭で直径1メートルぐらいの丸い平たいカゴに1-2枚程度を飼っていた。桑畑の規模も小さいのでこの程度かもしれない。日本で言えば、1gはいた程度の量である。子どもの頃、村では養蚕が盛んで、飼育の規模はケゴ(卵からかえった1令幼虫)の重さグラム単位で表されていた。収量は貫目単位で、1gのケゴを飼育する(はく)と1貫目(3.75kg)の繭になる目安であった。和洋折衷で表現されていたところが珍妙である。プロジェクトサイトで教材研究として飼育しているカイコは、繭が小さくて気になっていたが、ここの繭も小さく、カンボジアのカイコは小さいのが標準かも知れない。日本のカイコの半分程度の重さと思われる。
 カンボジアのカイコの吐き出す糸は黄色で、糸に取ると見事な金色になる。繭の時にはやや光の反射が弱いので黄色である。この村では、カイコの飼育、糸取り、機織りが行われておりそれぞれ分担がある。全ての行程は、子どもの頃に見ていたのと同じで、懐かしい思いがした。織機も同じシステムであるが、横糸を詰める縦糸を通す板の櫛の部分が、日本では竹を使っているが、カンボジアでは糸を使っている、従って詰めがやや甘くなる様である。カナ(繭から糸取りをして干す段階で、30センチ径ぐらいのループにされた状態の糸をカナと呼ぶ)に取られた糸は金色に輝きその見事さに圧倒された。しかし全ての織物は染色された糸を使っており、原色のものは見られなかった。糸にムラがあるためであろうか。残念な気がしたが、何らかの理由が有ってのことであろう。織物は一反45ドル程度であるという。糸の太さ、織りムラの有無などに寄って値段は変化する。中には30ドルくらいのものもあった。プノンペンに来ると値段は倍近くになると言う。
 
ドリアン顛末
 最後のバッタンバンの夜(6月4日)、夕食後6人ほどで市場の脇の路上果物市場の見学に出かけた。タイからの輸入の果物が、袋ごと山積みで売られている。小学校低学年の子どもも、一人前の売り手で、客の注文に応じて、ドリアンのトゲトゲを上手に紐で吊せる様に縛っている。1人が私にドリアンをプレゼントしてくれ、考えあぐねたが捨てるわけにも行かず、車に乗せた。それを見ていた運転手のシュポン君、ドリアンを買いに走って2個ほどをゲットして来た。その前にもランブータンの10kg袋を2つ、マンゴースチンの10kg袋を1個ほど買い込んでいたが、以前に四家さんが車に乗せるのをの禁止したこともあって、ドリアンは遠慮をしていたらしい。私が車に乗せたのを見て、彼も大丈夫と判断したのだろう。
 途中で臭ったのは言うまでもないが、帰って2-3日しても臭いはおさまらず、夜窓を開けておいても、窓を開けて走ってもあまり効果はなかった。ついに運転手君は、パイナップルを二つ割りにして車の中に入れていた。彼が臭い消しに時々使う手である。しかしながら一向におさまる気配はなく、スーパーマーケットで5ドルのラベンダーの香料を買い、車に入れる羽目になった。1週間もしたら臭いはおさまったが、ドリアンの臭いはなかなかきつい。
 カンボジアでは、良くドリアンを売っているが、かなり当たりはずれがある。昨年臨海実習の下見の折りにシアヌークビルで、カウンターパートのキムがあれこれ講釈を述べながら、選んでくれたのは、臭いが少なくかなり甘いのだった。菊地さんも結構食べていた。家のメイドのシムノンは、シアヌークビルの隣のカンポットの出身で、ドリアンの産地に育っているので一言ある。市場から選んでくるのもなかなか美味い。でもドリアンは1個売りだから、量があって終わらせるのに2-3日かかる。
家の前には、洗濯屋があってそこでも時々ドリアンを売っている。しかし商売と言うほどでもなく、時々一籠(20-30個はあろうか)誰かが持ってきて、それを売っていると言ったところか。歩いて帰る土日には、良く呼び止められてドリアンを勧められるが、商売ものを食べてしまってもと遠慮していた。バッタンバンから帰ってきて、ドリアンを食べ終わった頃、差し入れに1個持ってきてくれた。このドリアンは、今まで食べたうちで一番美味しかった。臭いはさほど無く、甘味が強くこんなものを食べれば、確かにはまるし、果物の王様だと思う。でも私には未だに選別の基準が分からない。何処が違うのだろう。リンゴなら見ただけで何と何を掛け合わせているか想像がつくのだけれど。
 
変わった食べ物
 カンボジア人は、本当に何でも食べる。中国人に劣らないと思う。今回の旅でも、パイリンの夜のワイルドピック(Zoos scrofa イノシシ)、マメジカ(Tragulusjavanicus 英名Lesser Mausedeer 最も小さなシカの仲間)あたりは何処の国でも食べるものかも知れない。しかしCivet シベット(3属4種ほどがいるらしいがどれか不明)やシソポンの北のドラゴンだと言うトカゲの仲間は、あまり一般的では無いような気がする。
パイリンで珍しい肉を出す食堂があると同行の教官の友人が連れて行ってくれた。最初シベットが出されてウサギのような動物だと説明があった。帰って図鑑で調べてみて、シベットであることが判明した。マメジカは、シカの仲間の小さいものだと説明があり、調べた結果はマメジカであった。いずれも、炒め物になっており、かなりコショウが効いてヒリヒリして、正確な味は分からなかった。柔らかくて細やかな味であるので、調理法を考えたら日本人に好まれる味であろう。ただし、カンボジアでは何の肉もそうであるが、如何にして骨付きの状態で出すか工夫されているようである。かなり小さな肉にも骨の一欠けらが付いている。東アフリカのタンザニアでもそうであったが、ヤギやウシの肉を売る場合に、必ず骨付きのまま売る。肩や太ももの部分も上手に切り分けて必ず骨が付いている。これは調理法が、主にスープになるために、味が出る骨をたたき割りながらつけるのがサービスと言ったところである。肉だけでは、美味しいスープにはならない。タンザニアでも最近白人の多い観光地では、ステーキにどうだと言って、肉だけの所を市場で見かけることがある。カンボジアのスープの一つにピジョン(ハト)が有るが、これはほとんどの骨をたたき割って入れてあるため、肉と一緒に骨が口に入る。飲み込める程度に小さいのであるが、数学の若い某先生は嫌がっていた。通常日本食には、無い舌触りのため気になったことであろう。私の小さい頃には、狩りをして捕ったウサギは、皮をはぐと肉と骨は一緒に叩いて肉団子にして食べていた。骨の感触は全く一緒で、気にはなるが食べて懐かしい味であった。
 ワイルドピックは、炒め物になって出てきた。コショウとショウガが効いていて、ヒリヒリしていたが、さすがに他の2種とは味が異なった。こちらは骨付きでは無く皮付きで出てきた。皮下脂肪は少なく、ワイルドの名に値する。皮はコリコリと歯ごたえが良く硬いゼラチンの感触である。
 シソポンの北で出されたドラゴンは、トカゲの仲間であることは出された皮付き骨付きの肉の状態から想像できた。皮には白黒の斑点の鱗が見られ、かなり硬い。これに噛みついて義歯の一部を壊してしまった。骨皮ごとぶつ切りにして、コショウ、ショウガ、トウガラシなどで炒めてありかなり辛い。かなり食欲は出るが、汗を拭き拭き、骨を片手に一生懸命に引っ張ることになる。アフリカでも更に大きなミズトカゲの仲間を食べたことがあるが、こちらは皮を除いてあったので、肉は軟らかく食べやすかった。カンボジアのこのトカゲは、森に住んでいて田や畑にはいないと言うから、水田地帯のこのあたりでは大ご馳走で貴重品であったらしい。
 今回ではないが他にも、カイコの蛹(これは私も終戦直後には重要な栄養源として食べていた。糸を取った後になるので、脂肪分が酸化していて美味くはなかった。1980年代の前半には、韓国の街角でもやや味付けされたものが売られていた記憶がある)、ゲンゴロウ(これも小さい時に食べた思い出がある)、アリ(ツムギアリと思われる褐色のアリ、木の上に巣を造る。巣ごと収穫するか巣のしたに水を張ったたらいを置き、たたくとアリが落ちると言う)、コウロギ(何種類か食べているようで、大きさがかなり異なるものがある)、タガメ(日本のものより一回り大きい。タイやベトナムでも食べているようであるから、東南アジアでは普通の食べ物)等の昆虫食。クモ(大型のタランチュラ)、ヘビ、カメなどが売られている。ヘビは時々食堂のショウケースに入っているし、カメは川の渡船場ではよく売られている。既に蒸し焼き状態で、甲羅の両側が切られており、背と腹側を離して中身を手で引きちぎりながらタレをつけて食べる。卵が入っていると上等だと言う。
 ゲンゴロウとタガメは、良く市場で売られているが、コウロギは季節性があるらしく見かけないことが多い。クモは、コウポンチャム地方が産地らしく、ここに行くと何時も売っている。しかしプノンペンなどではまれにしか見ることはない。
 タガメは、カメムシに近い仲間で、強烈な臭いがある。魚などを補食する口は硬く、食べる時にはここを取り除いてから、羽をむしり、肢を取り除いて胸部と腹部を離して内容を吸い出す。これは数学のカウンターパートのワン君の食べぶり。内容はかなり強烈な臭いの部分があり、一瞬カメムシが口に入った時のことを思い出す。学生時代に山岳部が谷川岳に持っていた白樺小屋に良く通っていた。秋の終わり頃に出かけると、初雪の頃の外は寒くカメムシが扉の隙間や周囲に積んである燃料のマキに潜り込んでいる。中でストーブを焚き始めると温度があがり、カメムシが元気になる。寝ている時などにうっかり口を開けていると、カメムシが進入し、思わず閉じると目がしびれる様な臭気に見舞われる。このしびれる様な臭いを、何を好んで食べるのかと思うが、慣れると忘れられない味かも知れない。カンボジアに来た最初の頃は、ドクダミの臭いが気になったが、甘酢のサラダの中に入っているドクダミは、なかなか忘れがたいものである。他にもパクチーやドクダミと同じ香りのする香草をお粥やクイティウ(カンボジアの代表料理で、ビーフンのラーメンとでもいいたい物)などに入れる。この様な香草に適応できないと、カンボジア料理は好きになれないかも知れない。カンボジア料理は日本とは異なる香りで包まれている感じがする。
 
金森正臣 KANAMORI, Masaomi
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