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金森先生のカンボジア日記

金森正臣先生のカンボジアの文化・教育・食べ歩き体験記

地獄の沙汰

2018年11月22日 | 文化
地獄の沙汰    2018.11.22.

どこかの車屋の会長が、高額脱税で逮捕された。ベルサイユー宮殿で結婚式を挙げたこともあるとか。各地に豪邸を持ち、外見的には幸せそうであるが、内面はどうであったであろうか。

一遍上人は、この世に生まれてきたのは魂を磨くために来たと考えていた。「物をほしがる心根は、餓鬼の果報にたがはざる」(一遍上人語録 岩波文庫 321-1)と述べ、地獄の中にいると示している。

江戸時代に静岡に住んだ、白隠禅師は、訪ねてきた武士が地獄を怖がることをあざ笑い、武士が怒ったのを見て、「それが地獄」と教えている。地獄は、あの世のことではなく、この世の現実の中に存在することは、仏教では昔から常識である。

即ち自分自身の心の持ち様が、地獄を生み、その世界に溺れることになる。今日本人は、昔からの知恵を忘れつつあるが、日本の伝統的知恵は、忘れない方が人生は豊かになると思われる。

沖縄選挙とラオスのモン族

2018年10月08日 | 文化
沖縄選挙とラオスのモン族   2018.10.08.

沖縄の知事選が、沖縄の方々の選択として示された。以前の知事選の後では、民意が示されたのに、政府は交付金で締め付けた。
今回の選挙では、政府は真摯に受け止めると言ったが、どのように実行するのであろうか。

そもそも基地問題は、国民が平等に負担すべきものである。米国からの返還時の事情で、沖縄に著しく重い負担が課されている。県ごとの人口などから、負担すべき面積を割り出し、なるべく平等に負担するのが本来の姿であろう。基地の性格上あまり分散はできないならば、日本全体をいくつかのブロックにして地域ごとにまとめて、どこかにお願いする必要がある。その場合に、負担していないところは金銭などで負担する必要があろう。
今回の選挙の結果を、真摯に受け止めると言うのであれば、この程度のことはしなければ、単なる言葉の遊びに過ぎない。

前回の知事選で負けたからと言って、政府が交付金で締め付けることは本来許されない。交付金は、国民の税金であり、政府の執行は公平でなければならない。森友・加計問題でも、国民の財産や県民の財産を、政府が自分の思想に偏ったグループへの支援(国有地の安い売却:対象は教育勅語などを進めるグループ)、好みの政策に近い団体や友人に有利に与えるのは、国政の私物化に他ならない。

ラオスで調査をしていた時に、首都ビエンチャンの北2時間ほどのところのバンビエンの盆地で、飛行場後に遭遇した。米軍がベトナム戦争の折に、ホーチミンルートに手を焼き、地元のモン族を金で抱き込み、手伝わせて作った飛行場である。米軍はベトナムで負けると、パテトラオにも負け、雲を霞と逃げてしまい、手伝ったモン族は国外に逃れるしかなかった。その数は30万人ともいわれている。しかし近年は、このモン族の人々の帰国を許し、かなりの人々が帰国しているようである。そこには仏教国としてのラオス人の、寛容さがあるように思われる。
日本政府は、最近神道を挙げる人が中心になっているが、もともとあった神道は、八百万の神(ヤオヨロズノカミ)を信じ、共存に寛大な宗教であった。ところが最近の神道は、靖国神社などを中心とした新興神道で寛容さに欠ける。
日本古来の神道も仏教も、共存を旨とした他者に対して寛容な宗教であった。日本が世界に誇れるところは、共存に必要は寛容さであろう。これでこそ未来の世界で、平和に共存する思想を発信することが出来る。

沖縄の知事選の後を、興味深く観察している。

テニス全米オープンと文化的相違

2018年09月14日 | 文化
テニス全米オープンと文化的相違   2018.09.14.

テニスの全米オープン決勝で、大坂なおみさんが優勝して、日本は大喜びに沸き返っている。決勝の舞台で繰り広げられたセリーナの行動は、文化の相違をはっきりと現していた。

アメリカの現在の文化は、欧米から運ばれた遊牧民を起源とした文化である。遊牧民の文化を理解するには、松原正毅のユルック上・下(中公新書)を読むと良く分かる。遊牧民は、基本的に各自が別行動で、集まるのはヒツジの繁殖の交尾だけである。明日の搾乳をより多くするためには、各自が別々な場所で草を食べさせないとならない。同じ場所で出会うと、言い争いながらでもヒツジに草を多く食べさせようとする。基本的に次に会う機会はほとんどないから、如何に言い争ってもあまり気にすることはない。その場でいかに優位に振舞うかが、基本行動となる。謝るようであれば、その償いは自分でしなければならない。遊牧民から始まった欧米の文化は、基本的に言い争に勝つことを目的としている。セリーナの行動や攻撃の言葉は、このことをよく表している。

日本などの農耕文化は、いつも同じメンバーが顔を合わせることになり、喧嘩をすると次の日も顔を合わせることになる。土地を持って移動できないから、喧嘩をするよりは協調を旨とする。大坂なおみの言葉や行動は、日本の文化をよく表している。

宗教にも多くの差があり、遊牧起源の文化は、一神教が多い。土地と結びついて農耕文化は、多神教が多く、異なる神々を容認する。

韓国の場合には、基本は農耕文化であったと思われるが、ジンギスハーン以来遊牧民の影響を受けてきたと思われる。私が調査に訪れた時に、私のもとに留学していた南さんがいつも一緒だった。多くは南さんの学生も一緒で、キャンプ時などには炊事をしてくれた。食事代を渡すと、肉を買うときに内臓が多く、その調理方法も十分理解していた。韓国では例えばウシの腸などは、内容が詰まったまま売られており、その処理方法も十分に技術を持っていた。日本人でそのような技術を持っている人はほんの少数で、一般的な文化ではない。

日本の教育の中では、このような基本的なことをあまり教えていないように思われる。

沖縄 

2018年09月04日 | 文化
沖縄    2018.09.04.   

私には沖縄に強い思い入れがある。1960年ころ学生だった私は、東京の小田急線の代々木上原に住んでいた。金がないので友人と2人あるいは3人で、一部屋を借りていた。同じように沖縄から来て、早稲田の史学の大学院にいた山本さん、東京教育大学の史学科の大学院にいた名嘉さんが、一部屋に住んでいた。時々一緒に食事をして話を聞くことがあった。彼らは休暇に沖縄に帰ると、警察が常に監視していると言っていた。当時は60年安保のデモの盛んであった時代で、史学科はその中心的存在であった。そのために返還前の沖縄では、警察が常時監視していたのであろうと思われる。

その後13年間助手をして、大阪市立大学の医学部に転職した。同じ助手であったが、実に自由で、何でも好きなことが出来た。そのころできた友人がいろいろ準備をしてくれ、日本列島の都市のネズミを調査することになった。那覇、鹿児島、松山、大阪、名古屋、札幌などで、各季節に1回位ぐらい調査をしたので、かなり忙しい時期であった。
その那覇での調査は、1976年ごろであったと思うが、まだ1ドルステーキなるものがあって、時々食べた覚えがある。1ドルはまだ360円であったように思う。
沖縄の日本土復帰は、1972年5月15日であるから、4年ほどは経っていたと思う。那覇の繁華街の国際通りを歩いていた時に、前を歩く20代の女性の体型に突然目が留まった。足は細く、ひざが太い。終戦直後の日本人の体形とほとんど同じである。子どもの頃のことは覚えたいないが、研究を始めてから、栄養と体型にも関心を持ち、いろいろ調べていたので、かなり衝撃的であった。本土と同じ時期に戦争は終わっているはずであるが、如何に沖縄の栄養状態が悪かったがが、如実に表れていた。
同時に、那覇から北に向かった時に通過した、嘉手納基地の情景である。国道が通る基地の脇のフェンス沿いに、たくさんの人々が並んでいる。運転をしていた仲根さんに聞くと、基地のために土地を無くした人々が、国道とのわずかな間の土地で、野菜を栽培しているとのことであった。その野菜に食用に持ち込まれたアフリカマイマイが付き、食べつくすので除去しているのだと言う。上を行くF戦闘機の轟音とともに、今でも時々思い出す光景である。
那覇の調査では、いつも事務所の近くのおばさんたちがしている食堂に行った。ゴーヤのチャンプル(ゴーヤの炒め物:コンビーフとゴーヤ)、トーフのチャンプル、なかみ(ヤギの内臓のスープ)など、今でも美味しさを思い出す。親切なおばさんたちの笑い声とともに。

基地の問題は、もっと本土の人(ウチナンチュー)が真剣に考えなければならない問題であろう。沖縄の基地の負担は、想像以上に重い。


私たちのカンボジア教育支援を語る!        カンボジア教育支援東海地区交流会

2017年11月24日 | 文化
カンボジアの教育支援展のお知らせ    2017.11.24.

私がカンボジアから帰国後、愛知教育大学の化学の長沼健先生(名誉教授)が現地で仕事を引き継いで下さいました。その長沼先生がお世話下さって、カンボジアの教育支援をしている団体が参加して、愛知教育大学で以下のような会が開かれます。
皆様ご都合が付きましたらご参加ください。

私たちのカンボジア教育支援を語る!
       カンボジア教育支援東海地区交流会

カンボジアには多くの団体が教育支援を行っています。今回主催した3団体もそれぞれ独自に支援を行い、時々交流をしていました。この際範囲を広げて東海地区の団体がそれぞれの活動を報告し、お互いが交流することで参考になればと思っております。また学生・市民の方々にも活動の実態を知っていただければ幸いです。

入場無料・どなたでも参加・観覧できます
時:平成29年(2017年)12月7日(木)午後1時~12月13日(水)午後5時
所:愛知教育大学附属図書館:刈谷市井ヶ谷町広沢1(開館9:00~閉館は日によって変わる)
アクセス: 名鉄本線「知立駅」バス1番のりばより「愛知教育大」「三好イオン」行20分
          「愛教大前」下車。350円
     車の場合、土日は許可証はいりませんが、平日は正門守衛所で「入構許可書」をもらってください(授業日は駐車場がかなり混んでいます)。
  内容:各団体のポスター展示(上記期間中/図書館内アイスペース)
     各団体からのプレゼンテーション 
12月10日(日)13時~15時/12月13日(水)13時30分~15時(図書館内摸擬授業室)

参加団体(2017年10月末現在)
幹事団体:愛知教育大学,NPOオアシス,NGO-CIESF
 賛助団体:名古屋環未来研究所(カンボジア開発研究会),NGO-あすて内「あカンて」他,
(各団体の活動例)      
   
子どもの健康調査(愛教大)   現地での運動会開催(オアシス)  日本人教師派遣事業(CIESF)

   国際協力をやってみたい方,何かヒントが得られるかもしれませんよ!
問合せ先:470-0214 愛知県みよし市明知町砲録山2-360 長沼 健 (NGO-CIESF理事)
E-mail: t-naganuma@ciesf.org   (携帯)090-5856-8907


御礼

2013年10月01日 | 文化
御礼  2013.10.01. 金森正臣

 帰国祝いの食事会を開いて頂き、頂き有難うございました。帰国後、「熱中症」はたまた小学生の時にした「熱射病」(この時は三途の川を渡りそうになり、回復に3週間ほどかかりました)になり数日動きが取れませんでした。でも次第に夜が涼しくなり、最近は快調になりました。

 久しぶりに皆さんにお会いして、何だか一時35年前の様でした。初めて教育大に伺った年のメンバーも来られて、急に時間が戻ったような錯覚でした。良いものですね、懐かしいメンバーと心おきなく話し合えるのは。

 その後、千葉に用事が有り1泊で出かけましたが、やはり都会は忙しく、そろそろついて行けなくなった感じです。多くの人が、携帯電話に縛られている様子を見ていると、テレビが普及し始めたころ、大宅壮一氏が、「1億総白痴化だ」と言ったことが今更新鮮に思えます。電車の中でも携帯に振り回されていると、物事を考える時間がないように思います。考えは繰り返し考え直すことで、少しずつ深化し、必要な物事の根本に近づくように思います。若い人の携帯依存も、新聞に報道されていますが、考えが浅くなり、直感的になって、真理を追究する深い思考が難しくなるように思います。

 御礼が遅くなりましたが、楽しい時間を有難うございました。皆様とまたゆっくりお話が出来る時間を楽しみにしております。若かった皆様も、既に中堅以上になっており、お忙しいことと思います。十分に健康に注意して、精進して下さい。

カンボジアの少数部族

2013年07月07日 | 文化
カンボジアの少数部族  2013.7.7.  金森正臣

 久しぶりに、カンボジアの東部のベトナムとの国境の山地の町、モンドルキリに出かけた。カンボジアにも山間部に、少数部族が住んでいる。山岳部と言っても、日本の山のように急峻ではなく、丘が連なっている程度である。標高は最高峰が、1000メートルぐらいで、居住地は300メートルぐらいから上部である。山間部に住んでいる少数部族は、いずれも2万人以下の少数で、2―3千人以下の人々もいる。知られているのは、数部族で多くはない。中にはゾウを使うことを得意とするグループもあり、今回行ったモンドルキリでも、レンタル・ゾウが観光資源の一つになっている。

 朝の市場に行った時に、少数部族の夫人が3人ほど物売りに来ていた。いずれも特徴のある籠を背負い、野生のシダや栽培品と思われるウリ科の植物(多分カボチャの仲間)のツルなどでる。想像ではあるが、少数部族は収入が少なく、市場でブースを借りることはできないのであろう。籠に荷物を入れ、各戸を回って売れば、資金は少なくてもできる。しかし担げる荷物は少なく、大きな売り上げにはならない。多分集落から数キロを歩いて来ているのであろう。町の端で見かけた米屋には、プノンペンでは見かけない破砕米(砕けた米)が多い、安いコメが売られていた。多分収入の少ない少数部族の方々のために、安いコメを集めて来ているのであろう。

以前にも書いたように思うが、少数部族は言葉もそれぞれ異なり、教育もなかなか難しい。教育の進まないことも、彼らの経済的発展を阻害している。しかし簡単な解決方法はない。今後金銭経済が浸透してくると(既にかなり進んでいるが)、周囲との格差が増すことをどうすることもできない。ムウウウー。ゴマメの歯ぎしり・・・。

 ある少数部族の集落に行った。まず目についたのは、小さなブタ(写真2)。体長は、60-70センチ、体重は30キロぐらい以下。大型犬より小さい。日本のブタは、150キロぐらいになるから、5分の一ぐらい。既に子どもを産んで連れて歩いていたから、子どもではない。大阪に居た35年ぐらい前の時代に、実験動物を扱っており、ミニブタを作ることが、皆さんの大きな関心ごとであった。この様なブタがいることが分かっていれば、もっと改良が早かったように思われる。ここの少数部族の家は、以前に行った少数部族の家より小さかったが、土の上に直接柱を建てること、壁は竹などで作り周囲が円形なこと、草ぶきの屋根などは共通であった(写真3)。集落の中には、水牛が沢山遊んでおり、水牛を使っている。しかし山の上から見た時に、水田は多くなく、何に使っているかは不明であった。一般に水牛は、水の中で働くのに適しており、コブウシは乾いた畑を起こすのに適していると言われている。ラオスのように、食用にしている(カンボジアではあまり食べない。一部、プレイベンでは、水牛のビーフジャーキーがある)のかもしれない。この集落の中には、初めて見るバナナがあった。カンボジアで見るものより大きな房で(日本で見る、フィリッピンのバナナより小さい)、草丈も大きく、果実の色は紫と黒の中間ぐらいの色であった(写真5)。まだまだ見たことのない種類がありそうである。



写真1:籠を背負い、市場で野菜を売る少数部族の夫人。
写真2:少数部族の集落にいたブタ。体重は、30キロ以下程度であろうか。
写真3:少数部族の家
写真4:水牛が多い集落であった
写真5:見かけたことのないバナナがあった


追記と報告
2007年7月7日の夕方、プノンペンで交通事故にあって、左足を骨折してタイの病院に運ばれてから、6年が経過しました。3年ほどは後遺症がありましたが、最近はほとんどなくなりました。お世話になった多くの皆さんに感謝です。2010年6月22日には、S字結腸癌の手術をししましたが、こちらも現在はほぼ後遺症なく回復です。そろそろカンボジアでの活動を終わり、8月には日本に帰国の予定です。

自然保護

2013年06月26日 | 文化
自然保護 2013.6.26. 金森正臣

ベトナムとの国境の州、モンドルキリを訪問した。最初に行ったのは、2006年ごろであるから、それから7年になる。その間に1回行っているが、忙しかったのでいろいろ探索する時間は無かった。今回は比較的ゆっくりだったのと会社の慰安旅行だったために、モンドルキリの観光名所として注目されているブースラーの滝にも行った。

観光名所の滝は、モンドルキリの中心地、センモノロムの町から小型のバスで1時間ほど北東に向かったところである。以前にはどろどろの山道で、ところどころ崩れていたり、ぬかるんでいたりで、帰路が心配された。しかし今回はほとんど舗装されており、時間的にも30分以上短くなっていた。

 滝の近くには以前と同じように、売店があり、近くの産物が売られていた(写真1)。その中には、写真1の熊の胆があった。カンボジアには、ツキノワグマがおり、以前にパイリン(カンボジアの西の端で、タイとの国境の町。ポルポト派が最後まで拠点としていた町)で見たことがある。多分ツキノワグマと思われるが、マレーグマの可能性も否定できない。マレーグマは、絶滅危惧Ⅰに分類されている。

 写真2のサルの開きの燻製は、スローロリス。絶滅危惧Ⅰに分類されている。しかしカンボジアでは、伝統医薬品として普通に扱われていたものであり、彼らにしてみればなぜ駄目なのかは納得行っていない。その証拠には、外国人が来なければ、堂々と売られている。地方の町の市場に行けば、必ず伝統医療に使う医薬品の売り場があり、かなりの確率でスローロリスの開きの燻製が売られている。しかし外国人が多く出入りする地域では、隠されて売られており、彼らが未だに薬として重要視していることが伺える。
 自然保護の運動も、環境省が管轄しており、プノンペンでも時々イベントが行われている。希少生物を保護することも重要であるが、滝に行く道付近などの少数部族が住んでいた森林の保護の方が重要であろう。自然保護区にはなっているが、実情は森が切り開かれてゴム園やキャッサバ畑になっている。直柱(地面に直接柱を立てる)で円形の家を作り、柱以外は竹と草で家を作る彼らの文化は消失してしまうような気がする。彼らは、中国の雲南省から続く「メオ」の系統の部族であろうと思われる。
 カンボジアでは、まだ自然保護の行政は非常に遅れている。東アフリカのタンザニアでは、自然保護区が5段階に分かれており、国立公園の面積も広い。段階的に管理されており、ゲームリザーブ(特定の動物を案内人付きでハンティングをする地域)などの収益が、公園の管理費などになっている。地域の住民の利用できる地域もあり、住民生活は考慮されている。カンボジアでは今後自然保護の理念や管理について、更なる進化が必要であろう。


写真1:右端のペットボトルは、野生のハチから採ったハチミツ。以前の3-4倍程度の値段になっていた。500㏄で5ドルほど。精製されていないので、ハチの巣などが入っている。白い球状のものは、ハチ蝋。その奥の黒い塊が問題の、熊の胆。左側は、木工製品の楊枝立など。さらに左の端に、サルの干物の端が見える。
写真2:サルの開きの干物。燻製になっており、伝統的な薬である。サルは樹上生活のスローロリス。絶滅危惧Ⅰに分類されているために、自然保護団体からの告発が多く、写真を撮ろうとしたら、隠されてしまった。しかし、カンボジア人が説明してくれたら、写真を撮らせてくれた。

クメールの文化とカンボジア

2013年04月18日 | 文化
クメールの文化とカンボジア  2013.4.18.  金森正臣

 クメールの文化と言うのは、多分クメール王朝時代の文化を示す言葉である。多分と言ったのは、クメール文化と言う言葉は、多様に使われており、定義が正確ではないからである。カンボジア人は、クメール文化に誇りを持っているが、私は現在のカンボジアには、古い時代のクメール文化は伝わっていないように思っている。例えば、アンコールワットにしてもアンコールトムにしても、優れた対称性を持っている。点対称であったり、線対称であったり。また正確な測量が出来ており、建物は測量にもとづいて施行されているし、施行も正確に行われている。現在のカンボジアの建物は、設計図通りに施工することは難しく、階段などは最上段と最下段が、中間部分とは異なった高さになっていたりする。一つの階段で3通りの高さが異なる段が存在することは、結構普通である(最近の外国の会社が作る場合には、かなり良くなってきているが)。日本などでは、法隆寺や薬師寺の建築の技術は、1400年以上も受け継がれており、現在でも宮大工さんたちはその技術を使っている。

 クメール王朝は、800年頃から1430年頃まで栄えた。その後、1860年頃からの400年間に、首都を4回ほど大きく移動している。原因は他国から攻められて、負けて移動している。このような状態が何回かあると、持っていた文化の担い手である、「庶民」が同行することは難しいであろう。

 もう30年ぐらい以前になるが、エジプトの田舎で調査をしていて、サダト大統領が暗殺された日の夕方、地方からカイロに戻った記憶がある。次の日からハッジと言うイスラム教の休日に入り、仕事ができないので、エジプトの古代王朝のルクソールに遊びに出た。そこで見たラムセス2世(エジプトでは、王の中の王と言われている)の宮殿や王家の谷で墓を見た。その壁画に残されている農民の姿は、調査地の農村の風景とほとんど変化がない。農民は4500年の時を経て、ほとんど同じ生活をしている。上層部の支配者は、消えてしまっても、農民はほとんどそのままの生活をしている。私の歴史観のいくつかの考え方や文化について、大きな転機になった。

 文化は、自然環境に支配されて、その基本が出来上がっている。ナイル川の流域は、深い森林に覆われていて、その作り出した土壌がもとになって、焼畑から耕作農業が発達した。およそ3000年間にわたって、そのエネルギーを使って、大きな文明が出来上がった。カンボジアのクメール文明は、それよりおよそ3500年以上遅れて、熱帯降雨林の地域に発達した。熱帯降雨林は、土壌の流亡が激しく、大きな畑作農業は発達しない。けれども沼沢地に発達した水田が、エネルギーを補給し、文明が発達したと思われる。しかし、プノンペンやその前のウドンなどの町は、メコン川の水の影響を受け、天水に頼った農業しかできないために、以前のクメール文明とは異なったものになった可能性が高い。シェムリアップの古いクメール文明は、シェムリアップ川の扇状地の上に位置しており、メコン川の影響はない。アンコールワットやアンコールトム遺跡には、環濠やバライと呼ばれる貯水施設があり、農地への給水システムが確立していた。そのために2毛作が可能であり、高い生産性を持っていた。このエネルギーを使って、文化を開花できたと考えられる。しかし現在のカンボジアは、飢えこそないが大きなエネルギーを貯める余裕は無く、その点でもクメール文明とは異なっている。文明は、エネルギーを貯めるだけの余裕がなければ、発達も継承も難しい。カンボジアの人々が、そのことに気が付き、クメール文明に誇りを持つだけではなく、現在の文化を高めなければならない時が来るように思われる

クメール正月

2013年04月11日 | 文化
クメール正月  2013.4.11. 金森正臣

 カンボジアの新年を祝う時期は、クメール正月と呼ばれる、今年は4月14日から16日である。毎年少しずれる。地方の方々は4月に入ると浮き足立ち、第1週の終わる6日ころには郷里に帰って行く。教員養成校も、すでに先週から休みで、学内に学生の姿は見られない。今日は、11日であるが、プノンペンの交通量は明らかに少なくなっている。最近交通渋滞の多いプノンペンでも、今朝などの通勤は楽である。でもここ数年は、外資系の進出が多く、働く形態が変わって来て、12日まで働く会社も多くなってきているから、以前のように2週間も交通量が少なくなることは無い。

 クメール正月は、始まる前に各所でお祝いをしている風景を見かける。また飾り付けも、わりと近代的な企業でも風習に習って行っている。事務所のあるビル会社も、入居者にプレゼントを配って、新年を祝う準備をする(写真1:ビルディングの会社から事務所に花束のプレゼント)。いろいろな場所も正月を祝う飾りが、施される。写真2は、街角の駐在所に飾られた、正月を祝う飾り。銀行に入り口につるされた、中華系の人々が好む星形の飾りなど。

 飾りとは別に、正月前には、新年を祝う民族舞踏の奉納もある。新年前に行うから、日本の「なまはげ」の様なものであろうか。事務所のビルでも、早朝にこの演舞団が到着。ビルの前で、踊りを披露してビル内に入った(写真3)。最後は招待者と一緒に写真に納まり、解散となる(写真4)。

 もう一つカンボジアの正月に欠かせないのは、子豚の丸焼き(写真5)。正月前になると、市場周辺に、子豚の丸焼きが吊るされる様になる。中国系の影響のように思われるが、本国にこの様な風習があるのであろうか。毎年この正月の時期には、ゴールデンシャワーの花が咲く。今年もきれいに咲き出したが(写真6)、何だか例年よりも房が短い様な気がする。昨年の雨量が少なかったのか、はたまた乾季に水分を使い過ぎたのか。マメ科の花で、乾季の最後に花をつけ、雨季までに実をばら撒かなくてはならない。樹木に残っている水分を振り絞って、花を咲かせる姿は、熱帯の厳しさを感じる。