EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

お遍路さんと松山市窪野町北谷地区の彼岸花群生

2015年09月23日 | 伊予松山歴史散策
窪野町北谷地区の彼岸花群生

先日、9月14日松山市窪野町北谷地区にある「彼岸花」の群生地の鑑賞に行ったが
満開では無かった。今日23日再び鑑賞に行って来た。シルバーウイーク最後の休日多くの人達が来ていた。8チャンネルのTV愛媛も取材にカメラが来ており鑑賞者にインタビューをしていた。
帰りに歩き遍路さんに会い暫しお話を伺った。お遍路さんは、鹿児島県方で、今年厄年なので88ヶ所巡礼は逆打ちで64番、前神寺から歩き始め、今日で10日目と言われた。話を伺った場所は、松山市窪野町、第46番札所から約1km程、第45番岩屋寺寄りであった。田んぼの畔に座り遅いお昼ご飯を食べておられた。今夜は、三坂峠付近にある坂本と言う遍路宿に泊まり、明日は第45番札所を目指して歩きますと言葉が返って来た。お身体お気を付けてお元気で薩摩にお帰り下さいとお声を掛けて別れた。


窪野町に入ると沢山の彼岸花が見えて来る。香りのある群生花であればいい香りがするが香りは無い。


今日は最後の連休多くの人が鑑賞に来ていた。テレビ愛媛のカメラも取材に来ていた。


此方は家族ずれで。






私はバイクで行きましたが帰りに遅い昼食を取るお遍路さんに出会った。
鹿児島県から来られ、64番、前神寺から歩き始め、今日で10日目と言われた。話を伺った場所は、松山市窪野町、第46番札所から約1km程、第45番岩屋寺寄りである。


お断りをして後ろ姿を撮らせて頂いた。白衣を着て、金剛杖を持っての姿。


お遍路さんは、今年が厄年なので逆打ち遍路ですと言われた。42歳の薩摩の人でした。


我が家に帰る途中日章旗を掲揚しているお宅を見た。
最近は国旗を掲揚して国民の祝日を祝うと言う行為をする事がめっきり少なくなった。
昭和40年代は教育員会が社会道徳の高揚の一環として行っていたが、現在は日本の国旗を揚げるという行為は祝祭日に限り揚げるということでも勇気のいることです。・・書いてある。日本という国に誇りを持ち、祝祭日くらいは国旗をあげ過去の祝祭日、日本の歴史にたいし思いをはせるという機会をお持ちいただければ喜ばしいことです。・・とも書かれている。我が家は必ず祝祭日には国旗を揚げている。町内では我が家だけである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東西南北から見た松山城天守 番外その1

2015年09月23日 | 伊予松山歴史散策
9月22日(火)の松山城。
昨日、観光ガイド当番日で午後登城しました。その画像です。
今年の秋の連休(シルバーウイーク・SW)は好天の連続で松山城には多くのお城好きの皆さんが友達と、家族で、いろんな方々が観光に来られていた。
昨日(9月22日)、一昨日(9月23日)、の午前中はロープウエー・リフト乗車には列をなして順番を待っており、天守入城は人数制限をし、今年最大の観光客であったそうです。午後からの天守入城は制限することなく観光出来ていた。昨日、一昨日二日限定で観光の籠が運営されていた。


昨日の伊予松山城、手前から、屏風折れの石垣の上に建つ、「馬具櫓・大天守・小天守・南隅櫓」。


松山城ロープウエー山麓駅舎、リフト乗場登城する観光者は列をなして順番を待っていた。


松山城ロープウエー・リフトで登城する観光者。


松山城ロープウエー・リフト山頂駅舎広場で、下山するため乗車待ちする観光者。


松山城絶景ポイントの一つ大手門跡の隘路、俳優榎木孝明お勧めの場所。


昨日、一昨日限定で運行した観光籠。


昨日(9月22日)午後3時過ぎの松山城天守最上階、標高約160m、昨日は少し霞がかかっていたが、本州の山を見る事が出来た。
暫く天守で観光案内をしましたが、次のような質問があった。
※松山城は、山城ですか・道後温泉は何方方向ですか・松山藩主は三人でしたが何故家紋が四つあるのですか・松山城は日本三代平山城、あと二つの城は何処ですか・連立式天守とはどんな天守ですか・山城、平山城、平城の違いは・天守の瓦に何故徳川家の葵紋があるのですか・坂の上の雲の主人公秋山眞之が登ったと言われている石垣は何処にありますか??いろんな質問を受けました。


午後3時過ぎると観光者も少し減りました。天守最上階から見た本丸広場。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東西南北から見た松山城天守 その4

2015年09月21日 | 伊予松山歴史散策
初代藩主、加藤嘉明、2代藩主、蒲生忠知は外様大名であったが、3代目松平定行から親藩として伊予松山藩は藩政を一新した。伊予松山藩主松平定行の血は第3代目で絶え、第4代藩主は、今治藩主、松平美作守定時の子、定直が藩主となる。定直の父は定房で今治藩初代藩主であり、伊予松山藩主松平定行の実弟である。その後4代継承するが、嫡男が出来ず再び養子を迎える。第9代は、徳川御三卿の一つ田安宗武の次男、定国が藩主となる。
田安宗武は、第8代将軍徳川吉宗の次男で、田安家の初代当主である。伊予松山藩は益々親藩として色濃くなっていく。その後3代続くが血は絶える。
定国の実弟が有名な松平定信(江戸幕府老中・白河藩主)である。
第12代藩主となる定穀(さだよし)は、薩摩藩主、島津斉宣の11男が養嗣子となる。
この時代第13代将軍に徳川家定が職に就き、伊予松山藩主、松平定穀は、名を勝善と改名
これは徳川家定に遠慮しての事だ。
勝善もまた子宝に恵まれなかった。田安徳川家当主、徳川斉匡の子、錦之丞を養子とすることが内定していたが福井藩主、松平斉善が突然死去したので、将軍徳川家慶の意向により錦之丞はそちらの跡取りとされてしまい、勝善との養子縁組話は解消されてしまった。この錦之丞がのちの幕末の名君として知られる松平春嶽である。
このため讃岐高松藩主、松平頼恕の6男、増之助(のち勝成)を婿養子とし第13第松平勝成が誕生。
勝成もまた子宝に恵まれず、先代勝善の娘(貞恭院殿)を養女とし、伊勢津藩主、藤堂高猷の5男練五郎を養子とし、そして第14代で定を復活させ、松平定昭とした。
明治以降伊予松山松平は、本姓である久松姓に戻した。
松平定昭も子宝に恵まれず、旗本、松平勝実の3男が伊予松山久松家を継ぎ第16代当主、久松定謨(ひさまつ さだこと)となり、以後、久松定武(愛媛県知事5期歴任)久松定成(初代靖国神社崇敬奉賛会会長)現在は、第19代久松定智氏である。


伊予松山藩主は松平定行が第3代目藩主となり、その後他家から婿養子を迎えながら存続して来た。そして城を護って来た。天明4年落雷で焼失、安政元年天守再建、その後昭和8年7月9日放火により画像のごとく本壇の建造物は焼失した。国宝天守は何とか残った。
明治政府は、明治6年廃城条例を発布、各地から存続請願がだされ、伊予松山城は、市民の憩いの場(公園)としての存続を大久保利通内務卿に請願、木戸孝允内務卿から存続の許可が下りた。その許可証は愛媛県立図書館に保管されている。


明治新政府は、各地方から天守存続願いが出され19の天守の存続を許可した。
しかし先の大戦で、広島、福山、岡山、和歌山、名古屋、大垣は戦災で焼失、そして松前天守は不審火で焼失した。現在12の天守が現存する。(弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、松江、備中松山、丸亀、高知、宇和島、伊予松山)で伊予松山天守が一番新しい。
昭和8年7月9日放火され、暫く復元工事着手出来なかった。昭和41年本壇小天守の復元工事に着手、同43年5月に竣工し画像のごとく旧状に復した。その後本丸の復元を行い平成2年、太鼓門西塀を復元し計画していた伊予松山城本丸復元工事は完了した。


故、坂東三津五郎さんお好みの天守の一つ伊予松山城で、「日本の城ミステリー紀行」の案内人として放映されたバックの画像が伊予松山城天守であった。坂東三津五郎さんのお蔭で多くの方々が松山城に来て頂いている。


坂東三津五郎さんが特にお勧めの松山城の景観の場所です。


坂東三津五郎さんが特にお勧めの松山城の景観の場所、それは、乾門を出てから望む所で、屏風折れの石垣に続塀がありその後ろに本壇の建造物を望む松山城一番の見所です。
此処での撮影は、午後がよく、午前中は逆光になる。


此方の絵は、俳優の榎木孝明さんが描かれた松山城で、榎木孝明さんお勧めの場所です。
場所は、大手門跡から隘路をみて、石垣の奥に太鼓櫓を望み一番奥に天守を望むいい場所です。


俳優の榎木孝明さんお勧めの所です。


俳優の榎木孝明さんが描かれた伊予松山城天守です。


写真で撮るとこんな感じです。榎木孝明さんが描かれた時期は12月だったので落葉樹の葉は落ち天守がよく見通すことが出来た。


三越松山店で、平成24年12月25日~平成25年1月6日迄開催された「榎木孝明絵画展」。


安政元年に再建された江戸時代最後の古城として最も新しく、完全な連立式天守が現存している。
画像は、本壇の中庭から見た天守です。日本三代連立式天守の一つです。(姫路城、和歌山城、伊予松山城)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東西南北から見た松山城天守 その3

2015年09月20日 | 伊予松山歴史散策
加藤嘉明は、松山城完成1年前、寛永4年(1627年)2月に会津若松藩40万石で転封、第2代目藩主は、出羽国上ノ山藩主であった蒲生忠知(がもうただちか)が寛永5年(1628年)2月、24万石(嘉明時代の20万石と、近江国日野の地4万石)で任じられ、同年6月家臣と共に伊予松山城に入った。
そして未完成の二之丸を造り伊予松山城が完成した。
蒲生忠知は、有名な蒲生氏郷の孫である。しかし寛永11年(1634年)8月参勤交代の途中、京都で病死、忠知には嗣子が居なかったのでお家断絶となる。
寛永12年(1635年)7月、伊勢国桑名藩主の松平定行が15万石で松山藩主となり以後松平氏は14代続き明治を迎える。
定行は、天守をはじめ、門塀・石塁等の改修を幕府に願い出て寛永16年(1639年)7月13日に許可を得て5層の天守を3層に改築した。
その理由は、天守が山頂部にあり、かつて二つの峰を有した勝山を切り開き一つの台地として本丸を造ったその谷を埋め立てた所に当たるので建造物保存の安全を保つためと言われている。
もう一説は、15万石の城にしては大きすぎるとの考えで幕府に遠慮して3層に改築したとの説もある。
松平定行の父、定勝の母は伝通院(於大の方)で、はじめ徳川弘忠に嫁ぎ家康を生んだが、ある事情で徳川を去り、久松俊勝に再婚して定勝が誕生、したがって定勝は家康の異父同母弟であって、その子定行は家康の甥になり幕府の信頼を受ける事が厚かった。
この様な事を考えると3層に改築したのは本家徳川に対して遠慮をしての事であったのではと思われる。
しかし改築の本意は謎である。


西日本最高峰「石鎚山・標高1982m」を背景に松山城を望む事が出来る地点はこの地のみである。



場所は、松山市衣山四丁目のみかん畑。


場所は、松山市衣山四丁目のみかん畑。
方角は、北西方向。
画像右に見えるTV塔は、建設には大変苦労した。それは松山城全体が国指定史跡公園で、文化庁は建設許可をしなかった。松山は松山城が街の中心にありTV電波を送信するには一番の適地であった。いろいろと交渉した結果やっと建設許可が下りた。但し一つ
条件があった。それは史跡内であるから鉄塔の色は目立たない緑色にせよとの事であった。TV塔完成は東京オリンピック開催の前年に完成、その後東京タワーが出来る。東京タワー建設に従事した鳶職の皆さんは方練習を兼ねてこの鉄塔を建設した。


場所を変えて、道後温泉裏手の峠「瀬戸風峠・標高212m」から見た城下町と松山城を時間差で撮ってみた。


松山城奥には瀬戸内海「伊予灘」が見える。


夜の帳が下り松山城天守もライトアップされる。
場所は、松山市下伊台町で方角は、東北方向。


場所を変えて夕暮れの松山城。
場所は、松山市東野三丁目で、方角は東方向。


松山城天守に太陽が降りて来る。


松山城天守に太陽が降りて来るこのタイミングでシャッターを切るのは色んな条件が必要で年に2回見る事が出来る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東西南北から見た松山城天守 その2

2015年09月19日 | 伊予松山歴史散策
初代の伊予松山城天守は加藤嘉明が築城した白亜の5層造りだった。
加藤嘉明は、徳川家康の許可を得て勝山に新しい城を築城、時は慶長7年1月15日の吉日に工を起こした。築城にあたり家臣の足立半右衛門重信が普請奉行として任にあたり、並行して暴れ川であった湯山川(現在の石手川)の大改修に着手、洪水の反乱から守り城下町の町割りとその繁栄を計った。足立半右衛門重信、以後足立重信と書く。
足立重信は美濃国の出身で加藤嘉明に小姓として仕え、文禄・慶長の役に従軍し功を立てた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、佃十成らと共に主君嘉明の留守居として、松前城(正木城)に残り、伊予の関ヶ原と言われた三津刈屋の戦いで河野氏の旧臣(村上水軍)らの軍勢を撃退しこれらの戦功によって家老に任ぜられ、5000石の所領を与えられた。
寛永2年(1625年)に松山城の完成を待たず死去した。生前望んだ松山城を見渡せる山越の来迎寺に葬られた。
足立重信が眠る来迎寺から見た松山城天守と重信の墓、隣接するロシアへ兵の墓もアップしましたのでご覧下さい。


松山大学御幸キャンパスから(方角は北)みた松山城天守。
標高132mの勝山に本丸があり、天守最上階は約160mある。


松山大学御幸キャンパスから(方角は北)みた松山城天守で建物は、画像左から天神櫓、天守、天守の右に見える屋根は、小天守の屋根、その右に見える小さな屋根は、南隅櫓の屋根、玄関多聞櫓、北隅櫓の連立した本壇の城郭建造物。


本壇の城郭建造物が一望出来る、来迎寺にある足立重信の墓で、五輪で献燈が2基ある。
来迎寺は、松山市御幸一丁目525番地にある。


足立重信の墓にある石碑と燈篭の脚に句が刻んである・・非常に珍しい。
句は、右燈篭の脚に、功や三百年の水の春   内藤鳴雪 
   左燈篭の脚に、宝川伊予川の秋の出水哉 村上霽月
重信の300年忌に重信川の石で造ったと言われている。


来迎寺にあるロシア兵墓地の表示板。
以前松山市は、ロシア人墓地と呼称していたが、埋葬されているロシア兵、98人のうち12人がポーランド人であることが確認されたため、ロシア大使館や地元保存会に了承を得て、平成25年1月から、呼称を「ロシア兵墓地」に変更した。


明治37、8年、日露戦役の捕虜は、最初松山に収容された。
画像の様に墓地は草一つ生えてなく綺麗に清掃され365日献花が絶えたことがない。
墓石は兵の故郷ロシアを向けて建立されている。
墓地の管理は、松山市、ロシア兵墓地保存会、勝山中学校、清水ゆうゆう姫山会、日露親善協会愛媛支部、清水地区女性会、商工会議所女性会、清水地区民生児童委員会の皆さんです。
日露戦争で捕虜になり、松山の収容所で亡くなられたロシア兵士の慰霊祭を毎年3月実施しています。在大阪ロシア連邦総領事館職員も参列されます。
収容所されたロシア兵士は、手厚く持て成され道後温泉入浴が許され、砥部焼の鑑賞に運動会に参加等々かなり自由な収容所生活であった。
所在地は、松山市御幸町一丁目531番地2。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする