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東西南北から見た松山城天守 その2

2015年09月19日 | 伊予松山歴史散策
初代の伊予松山城天守は加藤嘉明が築城した白亜の5層造りだった。
加藤嘉明は、徳川家康の許可を得て勝山に新しい城を築城、時は慶長7年1月15日の吉日に工を起こした。築城にあたり家臣の足立半右衛門重信が普請奉行として任にあたり、並行して暴れ川であった湯山川(現在の石手川)の大改修に着手、洪水の反乱から守り城下町の町割りとその繁栄を計った。足立半右衛門重信、以後足立重信と書く。
足立重信は美濃国の出身で加藤嘉明に小姓として仕え、文禄・慶長の役に従軍し功を立てた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、佃十成らと共に主君嘉明の留守居として、松前城(正木城)に残り、伊予の関ヶ原と言われた三津刈屋の戦いで河野氏の旧臣(村上水軍)らの軍勢を撃退しこれらの戦功によって家老に任ぜられ、5000石の所領を与えられた。
寛永2年(1625年)に松山城の完成を待たず死去した。生前望んだ松山城を見渡せる山越の来迎寺に葬られた。
足立重信が眠る来迎寺から見た松山城天守と重信の墓、隣接するロシアへ兵の墓もアップしましたのでご覧下さい。


松山大学御幸キャンパスから(方角は北)みた松山城天守。
標高132mの勝山に本丸があり、天守最上階は約160mある。


松山大学御幸キャンパスから(方角は北)みた松山城天守で建物は、画像左から天神櫓、天守、天守の右に見える屋根は、小天守の屋根、その右に見える小さな屋根は、南隅櫓の屋根、玄関多聞櫓、北隅櫓の連立した本壇の城郭建造物。


本壇の城郭建造物が一望出来る、来迎寺にある足立重信の墓で、五輪で献燈が2基ある。
来迎寺は、松山市御幸一丁目525番地にある。


足立重信の墓にある石碑と燈篭の脚に句が刻んである・・非常に珍しい。
句は、右燈篭の脚に、功や三百年の水の春   内藤鳴雪 
   左燈篭の脚に、宝川伊予川の秋の出水哉 村上霽月
重信の300年忌に重信川の石で造ったと言われている。


来迎寺にあるロシア兵墓地の表示板。
以前松山市は、ロシア人墓地と呼称していたが、埋葬されているロシア兵、98人のうち12人がポーランド人であることが確認されたため、ロシア大使館や地元保存会に了承を得て、平成25年1月から、呼称を「ロシア兵墓地」に変更した。


明治37、8年、日露戦役の捕虜は、最初松山に収容された。
画像の様に墓地は草一つ生えてなく綺麗に清掃され365日献花が絶えたことがない。
墓石は兵の故郷ロシアを向けて建立されている。
墓地の管理は、松山市、ロシア兵墓地保存会、勝山中学校、清水ゆうゆう姫山会、日露親善協会愛媛支部、清水地区女性会、商工会議所女性会、清水地区民生児童委員会の皆さんです。
日露戦争で捕虜になり、松山の収容所で亡くなられたロシア兵士の慰霊祭を毎年3月実施しています。在大阪ロシア連邦総領事館職員も参列されます。
収容所されたロシア兵士は、手厚く持て成され道後温泉入浴が許され、砥部焼の鑑賞に運動会に参加等々かなり自由な収容所生活であった。
所在地は、松山市御幸町一丁目531番地2。 

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