EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

東西南北から見た松山城天守 番外その2

2015年09月25日 | 伊予松山歴史散策
松山の街のシンボル松山城をいろんな方角から撮りためていた画像を取り出し見て頂きました。近年お城ブームでお城巡りをされている多くの方々が松山に来て頂いており有難く思います。
「行ってよかった日本の城2014」で第2番目に選んでもらいました。加藤嘉明も驚き喜んでいると思います。・・また是非お越しください。
と言う事で、慶長7年(1602)から26年の歳月を掛けて城を築城しその建築費用は、農工商の民から取り立てた年貢によるもので、特に農民は、年貢の取り立てが厳しく食べ物はろくなものを食べておらず、着るものに大変苦労したそうです。その苦労の結晶が現在の伊予松山城で、松山市の最大の観光資源・宝物です。
最近の女性は、いい一眼レフカメラを持参してお城散策をされる方が多く、先般も日本三代山城に行って来ました・・美濃岩村城(岐阜県岩村町)・大和高取城(奈良県高取町)・備中松山城(岡山県高梁市)と言われた。
岩村城・高取城・松山城に・・と言われ聞き取ったある人は、松山城を、伊予松山城と勘違いされた。伊予松山城も標高132mに本丸があり本壇は更に10m高く石垣を築き、本壇地盤から高さ4mの天守台を築き21mの天守があるので殆どの皆さんは山城と勘違いされる。伊予松山城は平山城であり、日本三代平山城(津山城・姫路城・伊予松山城)とされている。先ほど日本三代山城の一つ松山城に居て来たと言われた城は、備中松山城の事である。
余談でしたが、空撮の伊予松山城を見て下さい。


伊予松山城全体の空撮です。画像でよく見えるのは、三之丸で野球場と陸上競技場、陸上競技場に隣接してラグビー場があり、野球場と隣接して軟式庭球場(ソフトテニス)外堀右内側に小さく空色に見えるのが、市営プール、野球場の上側に国立病院四国がんセンター等々の施設があったが、この施設は現在他に移転し、現在は、城山公園となった。よってこの画像は見る事の出来ない貴重な写真である。そして城の形態がよく分かります。運動施設がある場所が三之丸で平地にあり、二之丸が山麓にあります。そして132mの山頂に本丸があります。もし三ノ丸も山中にあれば、山城ですが、三之丸が平地にあるから伊予松山城は、平山城です。
参考事項:三之丸⇒標高20、1m 二之丸⇒39,3m 本丸⇒132m


空中からの伊予松山城本丸で標高132mある。加藤嘉明は勝山(峰が三つあった)を切り開き屏風折れの石垣高さ13mを築き本丸を城築しました。大工事であり難工事であった。加藤嘉明の奥方も人夫たちの握り飯造りに一役買ったそうです。


南からの空撮で、手前の石垣を秋山眞之が幼少時代(淳五郎)に登った石垣で正岡子規(升・のぼる)は登れなかった。幼少時代二人は、淳(じゅん)さん、升(のぼ)さんと呼び合った仲で、そして末は博士か大臣かを目指し東京大学入学を志上京した。子規は予定通り東大に入学するが、眞之は海軍兵学校に入学した。なお東京予備門時代に夏目漱石と同期生である。


伊予松山城の中で国指定の重要文化財の建物が一番多くある所です。画像右から、ニノ門南櫓の屋根が一部、二ノ門東塀、二ノ門、三ノ門南櫓、筋鉄門東塀、一ノ門、一ノ門南櫓の一部が見える。伊予松山城本丸には国指定の重要文化財の建物が21棟現存する。現存12天守の中で2番目に多い建造物を有する。一番は姫路城で確か74棟ある。


先日、観光ガイドの当番日で質問を受けました「坂の上の雲の主人公の一人、秋山眞之が登った石垣は何処ですか?。
場所は画像の石垣で、隠門続櫓下の石垣です。ロープウェイ山頂駅舎から本丸に向けて登城すると最初に目に入る高石垣が見えて来ます。石垣は横矢掛かりに積まれていますが、その上に隠門続櫓がありますがその左の石垣です。秋山眞之(当時の名前は、淳五郎)は少年達を引き連れてガキ大将で城山によく遊びに行きました。正岡子規も、ある時「今日は近道をして行くぞ・・子供たちは、淳さん道は一本しか無いぞな・・どんなにしていくんぞな・・すると淳は、今日はこの石垣を登って近道をして行くぞな・・と言って皆に登らすも中ほどまで登るが恐ろしくなり下りて来る。淳さん、わしらだけに登らさづに、淳さん登ってみんさい。・・よーしわしが登るけんよーく見ておけと言って登り切った。」登り切ると筒井門と隠門の前に出る(枡形)。・・その石垣です。

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