EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

久米地区に現存する四国88ヶ所霊場遍路石・番外

2015年09月13日 | 伊予松山歴史散策
天長年間(824~833年)の頃の話である。
浮穴郡荏原郷(現在の愛媛県松山市恵原町)の豪農で衛門三郎という者が居た。三郎は欲深く、民の人望も薄かったといわれる。
あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとした。三郎は家人に命じて追い返した。翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れた。八日目、三郎は怒って僧が捧げていた鉢をつかんで地面にたたきつけた、鉢は八つに割れてしまった。僧も姿を消した。実はこの僧は弘法大師であった。三郎には八人の子がいたが、一大事が起こった。その翌日から1人ずつ子が亡くなり、皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものだと後悔する。三郎は、沢山の財産を世の人の幸せのためにと寄進し、家族とも別れ、遍路姿となり大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。二十回巡礼を重ねたが出会えず、大師に何としても巡り合いたい気持ちから、今度は逆に回ることにして、巡礼の途中、阿波国の焼山寺の近くの杖杉庵で病に倒れてしまう。
死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れ、三郎は今までの非を泣いて詫び、望みはあるかとの問いかけに来世には河野家に生まれ変わりたいと託して息を引き取った。大師は路傍の石を取り「衛門三郎再来」と書いて、左の手に握らせた。天長8年10月の事であった。
翌年、伊予国の領主、河野息利に長男が生れるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。息利は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきた。その石は安養寺に納められ、後に安養寺は「石手寺」と寺号を改めた。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっており、衛門三郎の「石」は現在も第51番霊場石手寺(松山市)に奉られている。
松山市恵原町には、衛門三郎の八人の子を祀ったと言われる「八ツ塚」が今も点在している。
衛門三郎が弘法大師を追い求めて巡礼に出たのが四国八十八ヵ所巡礼の始まりだと言い伝えられている。
(松山市教育員会発行 伊予路の文化より引用)
なお文殊院には、河野衛門三郎と掲示されている。


四国88ヶ所霊場番外札所「文殊院」で松山市恵原町にあり衛門三郎の邸宅跡と言われており、お遍路さんは必ずお参りをされる。


衛門三郎が弘法大師を追い求めて巡礼に出たのが四国八十八ヵ所巡礼の始まりだと言い伝えられている。


文殊院境内に建立されている弘法大師の大きな立石像。


弘法大師の石像の横に衛門三郎の座像がる。


大きな弘法大師の石像に寄り添う様に像衛門三郎夫婦の座像がある。
「我れ人を救はんための先達に、みちびきたまふ衛門三郎」。
衛門三郎の戒名は「光明院四行蓮大居士」。
座像の前に石碑で「遍路開祖 河野衛門三郎 生誕1200有余年記念」と揮毫されている。


四国88ヶ所発祥の地、文殊院の説明板。


衛門三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとした。三郎は家人に命じて追い返した。その様子を絵に書いたその一枚。


文殊院から約200m西方角にある衛門三郎の8人の子供の墓と言われている八ッ塚。


衛門三郎の8人の子供の墓と言われている八ッ塚の一つ。


八ッ塚には画像の様な石碑が建てられている。


松山市教育員会が設置している八ッ塚の説明板。


第48番霊場西林寺から第49番霊場浄土寺に向かって歩かれるお遍路さん。
山の麓が浄土寺、9月11日撮影。


道後温泉商店街に立ち托鉢をするお遍路さん。了解を得て9月12日撮影。
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