足立重信が考案した石手川に設置した「鎌出し・鎌投げ」
足立重信は、慶長5(1600)年に正木城(松前城)を勝山(現松山城)に移すにあたり、勝山近くを流れ伊予灘(瀬戸内海)に注いでいた湯山川(現石手川)の流れを南西に変え重信川に合流させ、慶長12(1607)年に竣工した。此れは勝山に城を築く工事と並行して行った大難工事であった。
改修は勝山(現伊予松山城)近くを流れ、直接伊予灘に注いでいた湯山川(現石手川)を、岩堰と呼ばれる岩壁230mを掘り割り、新水路を南西に開通させ、重信川の出合に合流させた。堤防延長は約16kmにわたり、特に松山城を守る右岸堤防は強大にした。掘り割られた岩壁が、現在の河道として残っている。
また、上流から一気に流れ下る水勢を弱めるため、両岸から千鳥に石を組み突出させ、流れを受け止める鎌出し(鎌投げ)水制工という工法を用いた。足立重信は、自分の屋敷内に川水を引き入れ、急に大水を加えてはこの方法で試して実用化したものと伝えられている。
足立重信が考案した「鎌出し(鎌投げ)」が現在唯一、一ヶ所しか現存しないと伝えられていたが、もう一ヶ所発見された。その検証に行って来た。
改修工事は、伊予松山城の外堀としての役目も果たした。
参考に、1級河川「重信川」は以前伊予川と呼ばれていた。この川もよく氾濫していた川で、足立重信が改修した。その名前を取って重信川と河川名を変更した。全国の1級河川名が改修者の名前が河川名になっているのは重信川だけである。
足立重信が考案した「鎌出し(鎌投げ)」が現在唯一、一ヶ所しか現存しないと伝えられていた所。
所在地は、松山市湯渡町12番8、湯渡橋直ぐ下の右岸にある。現在は草が茂り鎌出しは見えない。以前は草を取り綺麗にしていたが今はされてない。
足立重信が考案した「鎌出し(鎌投げ)」撮影は平成18年3月4日撮影。
「鎌出し(鎌投げ)」は改修された石手川は直線に改修したので早い水流を緩めるために画像の様に石を積み両岸から千鳥に水制工という工法を用いた。
現在は画像の様に草に覆われ鎌田出しを見る事が出来ない。平成27年9月25日撮影。
地元が設置した説明板。平成5年設置だがこの時はこれからご案内する二つ目の「鎌出し(鎌投げ)」は発見されてなかった。
これが二つ目の「鎌出し(鎌投げ)」、草が茂り覆いかぶさっているので鎌出しには見えない。・・この地点に行くには歩ける道が無いから行き難い。
そしてこの付近だけ護岸工事が未整備である。何故でしょうか?
これが二つ目の「鎌出し(鎌投げ)」。
所在は、松山市日の出町9番石手川緑地、左岸にある。
草を取り除き説明板を設置して広く市民に紹介しては如何でしょう・・松山市の市長さん。そして地元住民も。
松山市室町一丁目の末広橋からの石手川で、画像左が左岸(北方向)右が右岸(南方向)石手川の堤防は、特に松山城を守る右岸堤防は強大にした。
石手川は、伊予松山城外堀の役目を果たすためにも改修された。
堤防は三段構えで強固に護岸されている。水の勢いは恐ろしい。
末広橋付近は、昭和51年9月(1976) 台風17号による水害により護岸が欠損河川敷上の住宅12戸流出が流失した。私はこの時仕事の帰りに住宅が流出する現場を見たが水の勢いは恐ろしい。
その後画像の様な堤防に改修された。
石手川の左岸で一番外側の堤防は舗装され道路として利用されているが、画像の様に一車線である。
石手川の右岸で一番外側の堤防は舗装され道路として利用されているが、画像の様に左岸と違って二車線で堤防が広いのである。右岸側には城下町があり水害から護るために広く大きく造られた。
足立重信が改修した石手川は、市坪西町で重信川に合流して瀬戸内海に流れ出る。画像左が、重信川、傍示川(石手川の支流)、石手川、奥に見える橋が出会橋で橋の袂(松山市側)に正岡子規の有名な句碑がある。
そして画像より少し上流約500m右岸に秋山好古揮毫の石碑がある。
重信川も、加藤嘉明の命を受けて暴れ川であった「伊予川」を改修し、改修者の名を取りて「重信川」と改名した。全国の1級河川で工事者の名前が河川に付けられているのはこの河だけである。
上空から見た石手川が重信川に合流する出合で、右側が伊予郡松前町、左が松山市。
出合橋の松山市よりの袂にある正岡子規の句碑。
「若鮎の 二手になりて 流れけり」・・子規
子規が東京で遊学中、松山の名所重信川と石手川が合流する出合い付近を懐かしい思いを起こしながらその早春の風景を詠んだもの・・「正岡子規と秋山眞之が語らいながら、故郷松山を懐かしんだのでは??」
明治25年6月17日松山の河東碧梧桐に宛てた手紙に「出合」と題して
「若鮎の 二手になりて 流れけり」として送られたとある。・・名句である。
秋山好古揮毫石碑 碑 文 :追 遠 記 念 碑
場所、松山市和泉北三丁目2番3号泉永寺境内(石手川泉永寺橋右岸直ぐ下)
足立重信により石手川が改修され、和泉、朝生田の洪水被害は少なくなったが和泉村七十町歩の養水乏しく旱害に苦しんだ。慶長11年(1606)森宗勘が縦淵城跡ほとりに堰を設け和泉村用水路の普請が和泉村民総出ではじまった。難工事は石手川底を通水させる埋樋水門で、宗勘が苦心の末考案して宗勘樋が完工し和泉村七十町歩は良田と化した。森宗勘の不滅の功績をあらわすため明治25年3月泉永寺に彼の遠孫、森六次郎名をもって「小野川縦淵水門開祖之碑」が建てられた。昭和2年8月「追 遠 記 念 碑」が向かい合うように東側に建立された。裏面に、明治2年和泉村と朝生田村との水争いのことが記載されている。
註・縦淵城跡所在地:松山市東石井五丁目13番14号「城山神社」
小野川は中世「縦淵川」と言っていた。
足立重信は、慶長5(1600)年に正木城(松前城)を勝山(現松山城)に移すにあたり、勝山近くを流れ伊予灘(瀬戸内海)に注いでいた湯山川(現石手川)の流れを南西に変え重信川に合流させ、慶長12(1607)年に竣工した。此れは勝山に城を築く工事と並行して行った大難工事であった。
改修は勝山(現伊予松山城)近くを流れ、直接伊予灘に注いでいた湯山川(現石手川)を、岩堰と呼ばれる岩壁230mを掘り割り、新水路を南西に開通させ、重信川の出合に合流させた。堤防延長は約16kmにわたり、特に松山城を守る右岸堤防は強大にした。掘り割られた岩壁が、現在の河道として残っている。
また、上流から一気に流れ下る水勢を弱めるため、両岸から千鳥に石を組み突出させ、流れを受け止める鎌出し(鎌投げ)水制工という工法を用いた。足立重信は、自分の屋敷内に川水を引き入れ、急に大水を加えてはこの方法で試して実用化したものと伝えられている。
足立重信が考案した「鎌出し(鎌投げ)」が現在唯一、一ヶ所しか現存しないと伝えられていたが、もう一ヶ所発見された。その検証に行って来た。
改修工事は、伊予松山城の外堀としての役目も果たした。
参考に、1級河川「重信川」は以前伊予川と呼ばれていた。この川もよく氾濫していた川で、足立重信が改修した。その名前を取って重信川と河川名を変更した。全国の1級河川名が改修者の名前が河川名になっているのは重信川だけである。
足立重信が考案した「鎌出し(鎌投げ)」が現在唯一、一ヶ所しか現存しないと伝えられていた所。
所在地は、松山市湯渡町12番8、湯渡橋直ぐ下の右岸にある。現在は草が茂り鎌出しは見えない。以前は草を取り綺麗にしていたが今はされてない。
足立重信が考案した「鎌出し(鎌投げ)」撮影は平成18年3月4日撮影。
「鎌出し(鎌投げ)」は改修された石手川は直線に改修したので早い水流を緩めるために画像の様に石を積み両岸から千鳥に水制工という工法を用いた。
現在は画像の様に草に覆われ鎌田出しを見る事が出来ない。平成27年9月25日撮影。
地元が設置した説明板。平成5年設置だがこの時はこれからご案内する二つ目の「鎌出し(鎌投げ)」は発見されてなかった。
これが二つ目の「鎌出し(鎌投げ)」、草が茂り覆いかぶさっているので鎌出しには見えない。・・この地点に行くには歩ける道が無いから行き難い。
そしてこの付近だけ護岸工事が未整備である。何故でしょうか?
これが二つ目の「鎌出し(鎌投げ)」。
所在は、松山市日の出町9番石手川緑地、左岸にある。
草を取り除き説明板を設置して広く市民に紹介しては如何でしょう・・松山市の市長さん。そして地元住民も。
松山市室町一丁目の末広橋からの石手川で、画像左が左岸(北方向)右が右岸(南方向)石手川の堤防は、特に松山城を守る右岸堤防は強大にした。
石手川は、伊予松山城外堀の役目を果たすためにも改修された。
堤防は三段構えで強固に護岸されている。水の勢いは恐ろしい。
末広橋付近は、昭和51年9月(1976) 台風17号による水害により護岸が欠損河川敷上の住宅12戸流出が流失した。私はこの時仕事の帰りに住宅が流出する現場を見たが水の勢いは恐ろしい。
その後画像の様な堤防に改修された。
石手川の左岸で一番外側の堤防は舗装され道路として利用されているが、画像の様に一車線である。
石手川の右岸で一番外側の堤防は舗装され道路として利用されているが、画像の様に左岸と違って二車線で堤防が広いのである。右岸側には城下町があり水害から護るために広く大きく造られた。
足立重信が改修した石手川は、市坪西町で重信川に合流して瀬戸内海に流れ出る。画像左が、重信川、傍示川(石手川の支流)、石手川、奥に見える橋が出会橋で橋の袂(松山市側)に正岡子規の有名な句碑がある。
そして画像より少し上流約500m右岸に秋山好古揮毫の石碑がある。
重信川も、加藤嘉明の命を受けて暴れ川であった「伊予川」を改修し、改修者の名を取りて「重信川」と改名した。全国の1級河川で工事者の名前が河川に付けられているのはこの河だけである。
上空から見た石手川が重信川に合流する出合で、右側が伊予郡松前町、左が松山市。
出合橋の松山市よりの袂にある正岡子規の句碑。
「若鮎の 二手になりて 流れけり」・・子規
子規が東京で遊学中、松山の名所重信川と石手川が合流する出合い付近を懐かしい思いを起こしながらその早春の風景を詠んだもの・・「正岡子規と秋山眞之が語らいながら、故郷松山を懐かしんだのでは??」
明治25年6月17日松山の河東碧梧桐に宛てた手紙に「出合」と題して
「若鮎の 二手になりて 流れけり」として送られたとある。・・名句である。
秋山好古揮毫石碑 碑 文 :追 遠 記 念 碑
場所、松山市和泉北三丁目2番3号泉永寺境内(石手川泉永寺橋右岸直ぐ下)
足立重信により石手川が改修され、和泉、朝生田の洪水被害は少なくなったが和泉村七十町歩の養水乏しく旱害に苦しんだ。慶長11年(1606)森宗勘が縦淵城跡ほとりに堰を設け和泉村用水路の普請が和泉村民総出ではじまった。難工事は石手川底を通水させる埋樋水門で、宗勘が苦心の末考案して宗勘樋が完工し和泉村七十町歩は良田と化した。森宗勘の不滅の功績をあらわすため明治25年3月泉永寺に彼の遠孫、森六次郎名をもって「小野川縦淵水門開祖之碑」が建てられた。昭和2年8月「追 遠 記 念 碑」が向かい合うように東側に建立された。裏面に、明治2年和泉村と朝生田村との水争いのことが記載されている。
註・縦淵城跡所在地:松山市東石井五丁目13番14号「城山神社」
小野川は中世「縦淵川」と言っていた。