EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市の染井吉野桜 今日この頃

2014年03月19日 | 伊予松山歴史散策
今年の冬は、厳寒で桜の開花が遅れるのではないかと、気象庁から予報が出てから3月中旬になり松山は、20度近くの日が続いている。
松山では、今日から道後温泉春祭りが開幕した。
初日の19日は、多彩な行事がありカメラ持参で行ってきました。その前に、道後公園(湯築城跡)に松山地方気象台の染井吉野観測用標本木があり、観察して来ました。状態は画像の通りです。



中世(室町時代)の城跡、湯築城跡が現在の道後公園ですが、ここに画像の様に染井吉野桜の観測標本樹があります。現在は、樹を傷めないように柵が施されましたが、4年前までは樹の元まで入ることが出来、お花見等々はシートをしいて平気で食していました。全国で松山だけではないかと、保存が雑だなと感じておりましたがやっと柵が出来ました。そんな関係か昨年あたりから観測標本樹が元気になったような気がします。註:湯築城は、日本100名城第80番指定。


柵の中で開花を待つ松山の染井吉野桜です。昨日(18日)高知市で開花宣言がありましたが、松山はあと6日~7日後くらいの感じでした。


画像は今日(19日)午前10時21分に撮った松山市の染井吉野桜の観測標本樹の蕾です。


同じ時間帯。


同じ染井吉野桜の観測標本樹の蕾で温泉まつりの帰りに再び観測してきました。午後3時30分撮影です。


同時間帯で、だいぶん蕾が割れている。


同時間帯午後3時30分の蕾で明日あたり開花しそうですが開花宣言は5輪から6輪の開花が必要・・もう少し時間が必要!!
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秋山眞之生誕146年祭 開催された

2014年03月17日 | 伊予松山歴史散策
秋山眞之生誕146年祭 開催された。

昨日(16日)、愛媛県知事、松山市長、山下亀三郎家、宗家第3代目山下眞一郎氏も臨席され多くの来賓参列の下盛大に秋山眞之生誕146年祭が秋山兄弟生誕地で開催された。
式典後は、お茶会、お琴の演奏会で眞之を偲んだ。
秋山眞之は、伊予松山藩士・秋山久敬の5男として慶応4年3月20日、に生まれ幼名は淳五郎で、元服し名を眞之と改めた。正式な呼び名は、秋山淳五郎眞之である。
眞之は、兄・信三郎好古の支援をえて東京大学を目指し、東京大学予備門に入学、東京帝国大学を目指すが、尊敬する兄、好古に学費、生活費の負担を掛けることは偲びがたし、の思いを持ち、兄を説得し了解を得て海軍兵学校17期生として進学した。(なお、東京大学予備門の同級生に夏目漱石がいた。)
海軍兵学校では、終始首席で卒業し海軍大学校教官を経て、日露戦争勃発後には、日本海軍連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、旗艦「三笠」乗艦、日本海海戦では、ロシア海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊を日本海で撃滅その作戦を全て秋山眞之が専任参謀として立案し勝利に貢献した。その後大佐となり、海軍少将と昇進、大正6年12月1日中将に昇進、大正7年2月4日、小田原の山下亀三郎(山下汽船創設者)の別宅で盲腸炎を患い腹膜炎を併発し亡くなった。享年49歳、海軍中将従四位勲二等旭日重光章。
墓所は、鎌倉霊園にある。

画像は3月16日開催された秋山淳五郎眞之の生誕146年祭であります。


秋山淳五郎眞之の生誕146年祭祭壇に飾られた「胸像と・カラー肖像画」。
肖像画は、千葉県習志野市大久保、薬師寺住職・三橋秀紀氏からの寄贈で、画かれた方は、丸山画伯で、眞之の白黒写真を参考にして画かれた名作です。


開場となった「秋山兄弟生誕地・武道場」。


午前9時30分、生誕146年祭開催の挨拶を述べる、公益財団法人常盤同郷会、平松昇理事長。


公益財団法人常盤同郷会・藤島理事が眞之に献茶。


146年祭を祝い、正派邦楽会、大師範・琴・三弦前谷雅貴社中の皆さんが演奏した。最初に演奏された曲は「さくら・さくら」を素晴らしいアレンジで演奏し会場から一斉に大きな拍手が起こった。


参列された来賓者に対し、伊豫売茶流天山会、家元がお手前を披露。


お茶を頂き、正派邦楽会・大師範・琴・三弦前谷雅貴社中の皆さんの演奏が続く。・・秋山眞之を忍びながら。


秋山兄弟生誕地では、3年前の眞之生誕祭から、眞之の大好物であった「いり豆」を秋山生誕地女性研究員が、伊予の名産「伊予絣」で袋を作り、その中に「いり豆」を入れて限定販売をしました。


「伊予絣」で作った袋に入った「いり豆」を買い求める来館者。


女性研究員手作りの入り豆と、伊予絣で作った手作りの袋。


秋山眞之生誕146年祭に駆け付けた皆さん方。・・会場の武道場入口前。


秋山眞之生誕146年祭、本日の立役者、華麗なお茶会を開いた「伊豫売茶流天山会」の皆さん。・・ご苦労様でした。
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伊予松山城・復元建造物散策 4(終)

2014年03月15日 | 伊予松山歴史散策
前回は、復元建造物散策3で本壇の中庭に入り、連立式天守の建物、筋鉄門・玄関を紹介しましたがその続きを辿って見ます。
本壇の建物は天明4年(1784)、落雷で焼失、その後弘化4年(1847)、から嘉永5年(1852)、に再建されたが昭和8年7月9日、怪火により本壇上の建物の中、筋鉄門上部渡櫓部分・小天守・多聞櫓・南隅櫓・十間廊下・北隅櫓・玄関多聞・玄関及び内門上部渡櫓部分が焼失した。松山市は、昭和41年この復元工事に着手、同43年5月末に完成し焼失前の旧状に蘇った。これを手掛けた当時の市長は、第16代、宇都宮孝平市長で、その後の復元工事を受け継いだ市長は、第17代中村時雄市長であった。平成2年に太鼓櫓西塀を復元し年次的に計画復元してきた一連の工事は完成した。
なお、本丸広場にあった紫竹門から馬具櫓を経て太鼓櫓に接続する続塀(渡塀)は、意図的に復元はしていない。これを復元すると本丸(132m)からの城下町&瀬戸内海の眺望が阻害されるからである。
以下画像で紹介します。



画像は、天守2階西側から撮った中庭と復元された建物で、右側から、内門・玄関多聞・玄関・北隅櫓・十間廊下・南隅櫓・多聞櫓、で昭和43年5月、木造で復元された。奥に乾櫓(重文)。


北隅櫓から見た天守(重文)と小天守で、本壇で一番早く復元工事に着手した。昭和43年5月、木造で復元した。


小天守をアップに左の門は筋鉄門。


天守前から撮った十間櫓と南隅櫓と北隅櫓と玄関。


内門・玄関多聞・玄関・北隅櫓。


南隅櫓・多聞櫓・十間廊下の一部。


本壇の西側を本丸乾櫓から撮りました。左から、北隅櫓・十間廊下・南隅櫓。
本丸132mから更に13mの石垣を築き本壇に連立式天守を構築している。石垣は画像の通り「合横矢掛り」とし、多くの狭間・石落としを備えている。


本壇、一ノ門前から撮った。左から、小天守・天守・天守の下は、筋鉄門
東塀。


北隅櫓の内部で、東は玄関多聞に連結し北方向の北ノ廓から西へかけ、三ノ丸方面を監視する。そして野原櫓を支援する任務を持つ櫓。


北隅櫓の下内部で、武器、食料等を保管する所であったが、現在は、初代加藤嘉明、二代目蒲生忠知、三代目松平定行の資料展示場となっている。


十間廊下内部で刀剣・甲冑等が展示してある。
元来一般的には、多聞櫓に属する建物であるが桁行が十間あるから固有名称として「十間廊」の名前が付けられ、搦手方面(裏鬼門)の備えを担当している。


小天守の内部で、この櫓は、慶長築城当初は、着見櫓(つきみやぐら)と称していた。本壇の一ノ門の次にある枡形を監視し、兵がここより出撃し、帰塁する際、この櫓(小天守)からその兵員数を点検する任務から櫓名を天守に次ぐ重要な櫓なので小天守と変更した。
また、本壇のどの櫓よりも二ノ丸、三ノ丸が一番よく監視出来るので重視されていた。


内門の渡櫓内部。門は、櫓門で画像は門の上の櫓部分、天守と玄関多聞とを繋ぐ通路となっており、筋鉄門同様に玄関前の内庭を防御する最後の防衛施設である。


北隅櫓の階段、以前は非公開であったが平成17年の大修復時から公開している。


玄関の階段で、普段は使ってない。


上空から見た伊予松山城全体画像、現在は、三ノ丸にある施設は図書館・市民会館・美術館・NHK松山放送局でそれ以外の建物は取り壊され市民公園と整備された。


昭和8年7月9日焼失した連立式天守。


焼失した建物を復元し、連立式天守を往時の姿に再建なった現在の伊予松山城本丸・本壇


上空から見た伊予松山城本丸で二つの峰を切り開き本丸敷地を整備した地形が良く分かると思います。
最後に一筆献上:
伊予松山城は、慶長7年(1602)1月15日、初代城主、加藤嘉明が25年の長い歳月を掛けて築城した。その間に要する経費は農工商の民衆からの重い年貢の取り立てでこれに充当、二代目城主、蒲生忠知が二ノ丸を築城して26年間の歳月を要しての完成であった。
その汗の結晶として現在の松山の観光資源、松山城がある。道後温泉と松山城がセットで松山の観光を支えており、この二つがなければ誰たりとも松山には来てもらえない貴重な遺構である。これからも大切に保存し、そして松山に来て頂くよう市民の一人として「お持て成しの心」でお迎えしご案内して行きたいと考えております。是非松山にお越し下さい。
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早朝、2時06分伊予灘で地震発生!!

2014年03月14日 | 伊予松山歴史散策
今朝早朝、午前2時06分、瀬戸内海の伊予灘でマグニューチュード6,1の地震が発生し、震度5強(愛媛県西予市)で強い地震があった。南海地震かなと思い、ラジオを聞くと伊予灘で発生の地震であった。私の寝室は2階で、飛び起き先ずTVの倒壊とPCの保護に努めた・・揺れは結構長く続き、隣の屋へは本箱の上の物が落ち本も一部床に散乱した。松山市街は、震度4であった。
平成13年3月24日、発生した芸予地震よりも松山での揺れは弱かった。その時の震度は5強で、今朝の震度は松山市中島で5弱、市内では4と報道された。情報は、4と報道した局と5と報道した局があったが私の体感では5弱と感じた。瀬戸内海の芸予海域での地震は、慶安2年(1649)に最初に発生してから今朝の発生まで7回の地震が起こっている。震度は、どれも5~6とある。今朝のラジオを聞くと、トラックを運転していたら上下の激しい揺れを感じ体が持ち上げられ頭を天井に打ち付けられたと言っていた。
南海地震の発生は、何時起こっても不思議でないと言われている。今朝の地震の事を思い、持ち出せる最低限の必要用品をリックサックに入れて準備をします。そして足を保護する為、簡単に履ける靴をベットサイドに準備をしておこう。
先ずは散乱した物を片付ける事にします。//そして高い所に物を置かないように心掛けます。


我が家のAT群ですが、アンテナが上下、アンバランスになりました。これは平成13年3月24日、発生の芸予地震で起こったもので、現在も修復せずそのままにしており、この際撤去しようと考えております。
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松山市指定天然記念物「十六日櫻」二ケ所で開花始まる

2014年03月13日 | 伊予松山歴史散策
今年の冬期は厳寒で桜の開花が遅れると予報が出ている中、やっと松山に桜の季節がやって来た。
松山市には、十六日桜「別命:イザヨイサクラ」が三ヵ所にある。
一つは、松山市山越三丁目にある龍穏寺で、二つ目は、松山市御幸町一丁目にある天徳寺、三つ目は、同町にある吉平屋敷跡で天徳寺と吉平屋敷跡の桜は、昭和45年5月18日に松山市が天然記念物に指定している。
昨日(12日)天徳寺と吉平屋敷跡に行き天徳寺は、副住職の許可を得て撮影、吉平屋敷跡は自由に観賞出来るので断りをする必要は無く撮影することが出来る。

十六日桜「別命:イザヨイザクラ」は、小泉八雲が孝子桜として世界に紹介したことから有名になった。
桜花が見たいと願う病父のために孝子、吉平が桜に祈ったところ、寒中1月にもかかわらず、十六日に花が咲いたと言う伝説の桜である。
開花は、龍穏寺の桜は1月中旬頃から2月中旬頃まで、天徳寺と吉平屋敷跡は、3月上旬から中旬頃まである。
もともと十六日桜は、龍穏寺にあったが昭和20年7月26日の松山空襲で焼け、現在、前記二ヶ所の桜は、龍穏寺からの株分けが元であると言われているが、初代の十六日桜の形態を保ったものはなく、実生による変異品種のようである。
「うそのような十六日桜咲きにけり」、「めずらしや梅莟に初桜」、ともに子規の句。

画像は、前半が天徳寺・後半が吉平邸跡にある十六日桜である。


天徳寺境内にある十六日桜。
手前にある緋寒桜があるが、昨年この時期は開花していたが、今年は既に散っていた。十六日桜は毎年3月10日頃に開花するが、今年は2月の気温が低かったためか花が少なかった。


昭和45年5月18日、松山市指定天然記念物の十六日桜。(天徳寺)
種類は、ヤマザクラの早咲品種で旧正月16頃に開花と言う事でこの名が付いたがその時の桜とは異なるような気がする。


天徳寺の十六日桜と吉平屋敷邸跡の桜とアップで撮って比較すると天徳寺の方が薄いピンク色の花びらが多い。






これからの画像は、松山市御幸町一丁目にある吉平邸跡の松山市指定天然記念物「16日桜」で、こちらの桜も今年は花が少ない。やはり気温の関係か?それとも桜の老化現象か??


昭和45年5月18日、松山市指定天然記念物の十六日桜。(吉平邸跡)


よく見ると、天徳寺の十六日桜と、吉平屋敷跡の桜と比べると花びらの色合いが少し異なる様な気がする。


桜花が見たいと願う病父のために孝子、吉平が桜に祈ったところ、旧正月16日に花が咲いたと言う伝説の桜である。


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