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伊予松山城・復元建造物散策 4(終)

2014年03月15日 | 伊予松山歴史散策
前回は、復元建造物散策3で本壇の中庭に入り、連立式天守の建物、筋鉄門・玄関を紹介しましたがその続きを辿って見ます。
本壇の建物は天明4年(1784)、落雷で焼失、その後弘化4年(1847)、から嘉永5年(1852)、に再建されたが昭和8年7月9日、怪火により本壇上の建物の中、筋鉄門上部渡櫓部分・小天守・多聞櫓・南隅櫓・十間廊下・北隅櫓・玄関多聞・玄関及び内門上部渡櫓部分が焼失した。松山市は、昭和41年この復元工事に着手、同43年5月末に完成し焼失前の旧状に蘇った。これを手掛けた当時の市長は、第16代、宇都宮孝平市長で、その後の復元工事を受け継いだ市長は、第17代中村時雄市長であった。平成2年に太鼓櫓西塀を復元し年次的に計画復元してきた一連の工事は完成した。
なお、本丸広場にあった紫竹門から馬具櫓を経て太鼓櫓に接続する続塀(渡塀)は、意図的に復元はしていない。これを復元すると本丸(132m)からの城下町&瀬戸内海の眺望が阻害されるからである。
以下画像で紹介します。



画像は、天守2階西側から撮った中庭と復元された建物で、右側から、内門・玄関多聞・玄関・北隅櫓・十間廊下・南隅櫓・多聞櫓、で昭和43年5月、木造で復元された。奥に乾櫓(重文)。


北隅櫓から見た天守(重文)と小天守で、本壇で一番早く復元工事に着手した。昭和43年5月、木造で復元した。


小天守をアップに左の門は筋鉄門。


天守前から撮った十間櫓と南隅櫓と北隅櫓と玄関。


内門・玄関多聞・玄関・北隅櫓。


南隅櫓・多聞櫓・十間廊下の一部。


本壇の西側を本丸乾櫓から撮りました。左から、北隅櫓・十間廊下・南隅櫓。
本丸132mから更に13mの石垣を築き本壇に連立式天守を構築している。石垣は画像の通り「合横矢掛り」とし、多くの狭間・石落としを備えている。


本壇、一ノ門前から撮った。左から、小天守・天守・天守の下は、筋鉄門
東塀。


北隅櫓の内部で、東は玄関多聞に連結し北方向の北ノ廓から西へかけ、三ノ丸方面を監視する。そして野原櫓を支援する任務を持つ櫓。


北隅櫓の下内部で、武器、食料等を保管する所であったが、現在は、初代加藤嘉明、二代目蒲生忠知、三代目松平定行の資料展示場となっている。


十間廊下内部で刀剣・甲冑等が展示してある。
元来一般的には、多聞櫓に属する建物であるが桁行が十間あるから固有名称として「十間廊」の名前が付けられ、搦手方面(裏鬼門)の備えを担当している。


小天守の内部で、この櫓は、慶長築城当初は、着見櫓(つきみやぐら)と称していた。本壇の一ノ門の次にある枡形を監視し、兵がここより出撃し、帰塁する際、この櫓(小天守)からその兵員数を点検する任務から櫓名を天守に次ぐ重要な櫓なので小天守と変更した。
また、本壇のどの櫓よりも二ノ丸、三ノ丸が一番よく監視出来るので重視されていた。


内門の渡櫓内部。門は、櫓門で画像は門の上の櫓部分、天守と玄関多聞とを繋ぐ通路となっており、筋鉄門同様に玄関前の内庭を防御する最後の防衛施設である。


北隅櫓の階段、以前は非公開であったが平成17年の大修復時から公開している。


玄関の階段で、普段は使ってない。


上空から見た伊予松山城全体画像、現在は、三ノ丸にある施設は図書館・市民会館・美術館・NHK松山放送局でそれ以外の建物は取り壊され市民公園と整備された。


昭和8年7月9日焼失した連立式天守。


焼失した建物を復元し、連立式天守を往時の姿に再建なった現在の伊予松山城本丸・本壇


上空から見た伊予松山城本丸で二つの峰を切り開き本丸敷地を整備した地形が良く分かると思います。
最後に一筆献上:
伊予松山城は、慶長7年(1602)1月15日、初代城主、加藤嘉明が25年の長い歳月を掛けて築城した。その間に要する経費は農工商の民衆からの重い年貢の取り立てでこれに充当、二代目城主、蒲生忠知が二ノ丸を築城して26年間の歳月を要しての完成であった。
その汗の結晶として現在の松山の観光資源、松山城がある。道後温泉と松山城がセットで松山の観光を支えており、この二つがなければ誰たりとも松山には来てもらえない貴重な遺構である。これからも大切に保存し、そして松山に来て頂くよう市民の一人として「お持て成しの心」でお迎えしご案内して行きたいと考えております。是非松山にお越し下さい。
コメント
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