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伊予松山城・重要文化財指定建造物散策 3

2014年03月01日 | 伊予松山歴史散策

前回は、本壇最後の門である、筋鉄門前までで終わっている。いよいよ日本三大連立式天守の中庭に入る。連立式天守にある建造物は、天守を中心にして筋鉄門・小天守・多門櫓・南隅櫓・十間廊下・北隅櫓・玄関多聞・玄関・内門が連立している。連立式天守とは、二基以上の櫓によって形成したもので、普通に中庭の設えがある。この様式を持つ城郭としてその名を全国に知られているものに、姫路・和歌山の両城があるが、なかでも伊予松山城は安政元年の復興にかかるから、江戸時代の城郭として最も新しく、かつ完全な城郭で中庭の規模は一番大きい。天明4年(1847)の落雷で焼失した本壇の大半の建物は、その後弘化4年(1847)から嘉永5年(1852)に至る6年間に再建された。残念ながら昭和8年7月9日、怪火により、これら本壇の建造物の中、筋鉄門上部渡櫓部分・小天守・多聞櫓・南隅櫓・十間廊下・北隅櫓・玄関多聞・玄関・及び内門上部渡櫓部分が焼失した。昭和41年この再建に着手し、同年43年5月末に竣工、本壇上の建造物は旧状に復した。
では、中庭に入り天守を見て天守内部を見てみよう、そして仕切門と仕切門内塀を紹介して重要文化財指定21棟の紹介を終了します。
次回は、昭和20年7月26日、松山大空襲により焼失し、戦後復元した30棟の建造物を数回に分けて画像で見て頂きます。


連立天守建物怪火により焼失
昭和8年7月9日、怪火によって焼失し、建造物が無くなった連立天守群の跡。なお、天守も昭和20年7月26日松山大空襲の時、中庭に投下された焼夷弾により焼失の危機があったが、松山城監守・住田氏の命がけの消化活動でもって鎮火し残った。戦後田中文部大臣より住田監守に感謝状が授与された。


昭和43年5月末、弘化4年から嘉永5年に掛けて再建された往時姿に復元した連立天守群。


安政元年に再建された天守で、3層3階地下1階の層塔型天守、総床面積は、629,45平方メートルある。東西両面は1層・2層ともに同形の千鳥破風が重ねられ、南北面には、唐破風と千鳥破風あしらわれ慶長年間の作風を忠実に伝承されている。黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の完全な城郭建築。また、現存天守の中で、唯一、天守群の瓦に「三つ葉葵御紋」が付されている。平成17年に大修復工事が行われた。


小天守から見た中庭。画像の建物は、正面に内門、玄関多聞、玄関、北隅櫓、十間廊下で手前の屋根は小天守の屋根。連立式天守の中庭で、この施設を持つ城は「姫路城・和歌山城」と松山城のみで規模は一番大きい。画像は、正面が天守、右が筋鉄門、左が内門、玄関、玄関多聞、である。そして天守台に穀倉口があり、現在天守観光はここが入口となっている。天守の形式は、3層3階地下1階の層塔型で、安政元年の再建で日本三大連立式天守の一つである。(姫路・和歌山・伊予松山の各城)


それでは天守内部を見てみよう。先ず入口には花崗岩の楣石(まぐさいし)総重量6トンが5本(一本の長さが、3,6m・断面が0・8×0・75m)が入口の上に渡してある。これは、上階を支える仕組みである。


天守入口を入るとここで履物を脱ぎ備え付けのスリッパに履替えロッカーに履物を収納し必ず鍵をかけて持参する、でないと何処に収納したのか不明となる。ここが天守地下1階で本来は米蔵であった。日本は梅雨の時期があり米は湿気を嫌うので内部には安山岩で石垣を組み床は素焼きの瓦を敷き湿気を吸収する仕組みになっている。内部の安山岩の石垣は湿度吸収のみならず、外部からの鼠や害虫の侵入防止としている。そして内部に使われている材木は全て楠で、防虫、防菌効果のために使われている。この蔵には2千俵の米が貯蔵出来た。


では、地下1階から急勾配の階段で1階に上がる。1階から2階にかけては、簗間4間、桁行6間の入側柱で構成されていて、その隅柱が通し柱となっている。現存12天守の階段は急勾配の階段が備えてある。


1階に上がると甲冑を着用出来る用意がされていて、皆さん甲冑を着込んで当時の侍気分を味わい記念の写真を撮っている。大変なのは夏季で、皆さん汗だくで取り組んでいる。


無事に甲冑を着ることが出来、いざ出陣記念のポーズで写真撮影。お主なかなかの若武者であるな!!


天守最後の階段を上り3階最上階を目指そう。


天守最上階で、標高約160mあり、天候が良ければ瀬戸内海はもとより、本州の呉市野呂山を眺望出来る。最上階には畳が敷ける様
配備され、小さいが床の間も創られている。3層3階の天守にしては広い間取りである。それは、加藤嘉明が築城した5層の天守台に3層の天守を築城した関係でこのような形になり天守のみ見ると、ぐしゃと押しつけた形であまりいい恰好ではないが、本壇の城郭でいい形に保たれている。


天守最層の屋根瓦に付されている「三つ葉葵」の御紋で、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸藩)徳川御三卿(田安・一橋・清水)以外地方の城では伊予松山城のみである。


仕切門寄手側
脇戸附の高麗形式門で、天守の北側に位置し内門との間が桝形となっている。天守、玄関多聞によって防衛される仕組みである。屋根の一端は天守建物下部に接し、他は仕切門内塀に接続している。天明4年の雷火のため焼失し、安政元年に再建された重要文化財指定である。昭和9、25、43、59,60年に修理されている。


仕切門内側
右の石垣は天守台で、奥の櫓は天神櫓である。


仕切門内塀、内側
仕切門内塀で、場内で一番大きな現存する続塀で、長さ24,56m、狭間16ケ所、本瓦葺、この続塀は乾門方面に対しての側防の構えとなっている。安政元年の再建で、重要文化財指定。昭和59、60年に修理が行われている。


仕切門内塀の寄手側
仕切門内塀の寄手側は、画像の様に横矢掛の石垣に沿って屈曲し、狭間と石落としの防御設備が施されて、右の建物は玄関多聞の一部でこれに接続している。
コメント
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