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昭和20年7月26日、松山大空襲から68年 その1

2013年07月25日 | 伊予松山歴史散策
今年も7月26日が遣って来る。68年前松山大空襲の日である。
松山市主催の平和資料展が昨日24日午後1時から松山市総合コミュニティセンターロビーで開催された。7月31日まで展示される。
松山は、昭和20年7月26日、サイパン・イスレイ飛行場の米軍第73爆撃団所属の空飛ぶ要塞、B-29、350機が大牟田・松山・徳山の三都市を攻撃のため飛び立った。その内128機が松山を爆撃し一瞬にして焼け野原となった。
昭和20年7月26日は、松山大空襲の日であるがその前後、14回の空襲を受けている。
それは昭和19年海軍松山航空隊に、源田 実海軍大佐率いる当時日本海軍最強部隊が居たためである。
海軍航空隊は、三四三航空隊を編成しその司令官に「源田 実」海軍大佐が航空隊指令官として任命され、隊の編成は横須賀であったが、訓練基地は松山が一番いいと源田大佐の意向で急遽松山に決定したそうだ。(源田 実は、戦後国会議員となり、またノンフイクション作家として海軍航空隊に関する多くの著作物を出版している。また、松山航空隊三四三航空隊を源田実の事実に基づいた映画が製作され、主演は確か三船敏郎だったと思う)

源田大佐は、昭和20年1月15日に松山に赴任しここで世界最強の航空隊を結成することを目的にしており、戦線で活躍の優秀なパイロット、撃墜王と呼ばれるゼロ戦パイロット達、そして紫電改の訓練を始め、ドイツ空軍が始めた集団戦法の訓練が目的で、パイロット1200名その他整備兵等関係兵士総勢3000名の編成航空隊が松山に居た。
 三四三航空隊の編成は次のようなもので、三四三航空隊(属名:剣部隊)指令:源田大佐、その下に、戦闘三○一飛行隊(新撰組)、戦闘四○七飛行隊(天誅組)、戦闘七○一飛行隊(維新組)、偵察第四飛行隊(奇兵隊)、戦闘四○一飛行隊(極天組)が昭和19年12月正式に編成され、昭和20年1月15日に源田航空隊指令が松山に赴任した。
しかし初期訓練、集団戦法訓練をする間もなく、昭和20年3月13日米機動部隊が松山飛行場などを沖縄上陸作戦に先立って四国沖に接近、3月19日松山航空隊は編成早々四国上空で多数の米機と大空中線のため遂に紫電改の発進の時が来た、紫電改51機が松山飛行場を一斉に飛び立った。
この日、飛来したのは、約150機のグラマン機で、42機を撃墜、この日初めてグラマン機の一部が松山飛行場を攻撃したそうだ。
この時私は6歳だったがグラマン機との空中戦の様子が記憶にある。
米国は、優秀な世界最強の零式戦闘機に対抗する戦闘機を開発、それがグラマンF6F、F4Uでこれに打ち勝つために、日本海軍は紫電改を製機した。
しかし、米国はすでにその先を見込んで昭和17年9月にB-29の製作に取り組んでいた。
このB-29を使い日本本土を攻撃するには航続距離550K(爆弾搭載4トン)これに必要な滑走路は、マリアナ、サイパン、グァム、テニアンが必要であった。
それが、ミッドウエー海戦でこれが日本の敗戦が決まったのも同然であった。
米国は、この四国での空中戦で手痛いダメージを受け改めてB-29の必要性を感じたそうだ。(B-29、スーパー・フォートレス、空飛ぶ要塞と呼ばれた。)
20年5月4日初めてB-29による松山攻撃が始まりその後10日、14日の攻撃で松山飛行場一部使用不能と記述がある。
その後松山大空襲があった。
時、昭和20年7月26日午後11時08分に始まり27日午前1時13分頃まで約2時間余り爆撃は継続、攻撃要領は、大都市に対するものと同じ方法で行われ、攻撃の先頭部隊は無数の小型焼夷弾を投下次いで、後続の部隊が大型の焼夷弾を投下した。
これで松山は一夜にして焼け野原と化した。
但し、松山城は攻撃から外されていたそうだが焼夷弾を投下され城門櫓が焼失した。
東京大空襲(昭和20年3月9日)から約4ヶ月後の事である。
この松山大空襲で残ったのが「掩体」(えんたい)格納庫で、 物の経緯、事情の分からない人々はなんだろうと不思議に思い、そして見逃してしまうのではないかと思う。
此れは、太平洋戦争の遺物の一つとして保存し後世に悲惨な出来事を語り伝えて行かねばならない。
現在、三個の格納庫が松山市に残っており私も初めて格納庫を見た。

今年もまた終戦記念日が来る、世は正に日本は平和そのもの、これでいいのであろうか?
忘れてはならない先の大戦を、松山市の市民団体が「みつめよう戦争の真実、語り継ごう平和への思い」と題して行っている。
「第11回平和展」が7月25日(木)~28日(日)まで、松山市総合コミュニティセンター1階・展示室で開催されている。この画像は、次に掲示しますので是非見て下さい。


昨日24日(水)午後1時に展示開館された「平和資料展」の掲示板。






松山攻撃前に写した航空写真で、海軍松山航空隊基地周辺。


松山大空襲(7月26日)翌日27日に撮った米軍の航空写真で、白く見える所が焼かれた町。


最初の神風特別攻撃隊である敷島隊を指揮し、自らの命と引き換えに敵空母を撃沈した。神風特別攻撃隊第一号隊長、関行男中佐も一時期松山に居たのでは??関行男中佐は、愛媛県西条市出身である。23歳であった。
西条市に関行男中佐の慰霊の碑がある。
碑文は、
人類6千年の歴史の中で、神風特別攻撃隊ほど人の心をうつものはない。
「壮烈鬼神を哭かしむ」とはまさにこのことである。この種の攻撃を行ったものは、わが日本民族を除いては見当らないし、日本民族の歴史においても、組織的な特攻攻撃は、国の命運旦夕に迫った大東亜戦争末期以外にはない。
憂国の至情に燃える若い数千人の青年が自らの意思に基いて、絶対生きて還ることない攻撃に赴いた事実は、眞にわが武士道の精髄であり、忠烈萬世に燦たるものがある。神風特別攻撃隊第一陣は、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将(終戦時自決)の命により、昭和19年10月20日、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊をもって編成、その指揮官が海軍大尉関行男であった。この攻撃隊18機(うち半数は直掩隊)は10月25日出撃し、6機は敵護衛空母に命中し、3機は至近弾となって敵艦を損傷した。中でも関行男大尉は敵の護衛空母セント・ロー(1万400屯)に命中、同艦は火薬庫の誘爆を起し、艦体二つに折れて轟沈するという偉攻を奏した。
関行男大尉がその教へ子に残した辞世は
  教へ子は散れ山桜
          かくの如くに

元航空幕僚長 参議院議員 源田實 撰文

昭和19年10月25日
於比島スルアン島沖合にて戦死

昭和50年3月
西条海軍会建之

註:源田実氏は、平成元年8月15日、松山市で亡くなった。84歳、広島県 山県郡加計町出身。


軍需用品を造っていたのでは??


勤労奉仕も当たり前の時代。


















昭和20年7月28日の地元紙。


海軍・陸軍の軍服と当時の国防婦人会が着ていた物が展示してあった。


コメント (4)
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