EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市の秋祭り「大唐人・小唐人大神輿の鉢合わせ」

2009年10月08日 | 伊予松山歴史散策
松山市の秋祭り「大唐人・小唐人大神輿の鉢合わせ」

 松山地方の秋祭りは、毎年10月5日に宵宮、7日に本宮が行われる。7日早朝に道後温泉駅前で繰り広げられる八町八体(溝辺・湯之町・道後村・築山・大唐人・持田・小唐人・北小唐人)の大神輿同士の鉢合わせは道後、男の秋祭りと呼ばれていて壮観である。
昨日の松山地方は、台風18号の影響で朝から降雨、秋山兄弟生誕地にも雨の中、五穀豊穣、商売繁盛、地域産業の発展を祈願する大神輿、小神輿が行幸してきた。また大街道商店街では神輿の鉢合わせが行われた。夕方から神輿は各神社に宮入を行い今年の松山地方の秋祭りが終わった。
東京から観光に来られた方が松山の神輿を見て、人が神輿に乗っている様を見て、神様が乗っている神輿に人が乗るなんて東京では考えられない事だと不思議がっていた。


 画像は、松山地方の秋祭りで、大唐人・小唐人の大神輿が大街道商店街で鉢合わせをするところ。
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江戸文字書家 「橘 右之吉さん」

2009年10月07日 | 伊予松山歴史散策
江戸文字書家「橘 右之吉さん」

橘流寄席文字・江戸文字書家「橘 右之吉」さん、ここ6年間、毎年9月に三越松山店で、展示、実演、販売を兼ねて来られている。江戸時代幕府は公文書に使う字を「御家流」と呼ばれ読みやすいが、歌舞伎、落語、相撲の世界を表現するには味気ない。そこで誕生したのが「江戸文字」と呼ばれる独特の文字である。橘さんは橘流寄席文字家元・橘 右近師匠に師事し伝統的な文字の習得に励み正統な一門伝承者として認められ「橘 右之吉」の筆名を認可された。以来、国立劇場や国立園芸場等のポスターを手懸け、なかでも浅草の浅草寺本堂に掛かる大提灯の文字「志ん橋」は橘 右之吉さんが書かれた文字である。私はここ3年何時も三越松山店でお逢いしている。今年5月には東京文京区の工房に伺った。礼儀正しいお人柄のいい方です。橘 右之吉さんに造ってもらった消し札2個大事に使っています。橘さん曰く、ローマ字の江戸文字を書くことがあまり無いので良く覚えてますとの由・・ローマ字は「JR5EEK」で、私のアマチュア無線局のコールサインです。
画像は、9月28日松山三越で技術の披露をしているところをお願いして写真を撮らせて頂いた。江戸文字書家・橘 右之吉さんです。

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アマチュア無線「全国(縦断)一斉マイクロ波バンド大移動運用会」

2009年10月06日 | 伊予松山歴史散策
アマチュア無線「全国(縦断)一斉マイクロ波バンド大移動運用会」

金銭上の利益のためではなく、 無線技術に対する個人的興味から自己訓練、通信、技術的研究のために開設される無線局をアマチュア無線局といい、「ハム」という通称で親しまれています。
世界中に約230万局、また国内でも約56万局が開設されており、活発な無線交信が行われています。また無線科学の進歩、国際親善等にも寄与してきており、更に非常災害時には、人命救助等にも活躍するなど社会的にも大きく貢献しています。
アマチュア無線のなかでもバンドの使用区分があり、135KHz帯から10,4GHz帯までは使用目的によて詳細に区分されている。今回の運用は、マイクロ波帯愛好者の運用会で年2回開催している。今回は第15回目である。以前は各エリア事に移動運用をしていたが、8年前に北海道支笏湖でマイクロ波帯北海道支笏湖大会が開催され此処で全国一斉の移動運用に統一してはと、私が提案して始まった。発起人は、JA8BAV・ 伊藤 博之氏(札幌市):JH1UGF・槇岡 寛幸氏(横浜市):JR5EEK・仙波満夫(松山市)の三人で起案した。平成14年9月28日・29日に第1回目を開催して継続中で、今回が第15回目です。
全国(縦断)一斉マイクロ波バンド大移動運用会、開催の趣旨と運用事項
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◎趣旨
アマチュア・マイクロ波バンドの利用が少なく、バンドの削減が国家的に進められる機運があり、アマチュア・マイクロ波バンド愛好・利用者は大きな危機感を持っております!この際、マイクロ波帯の活性化とバンド防衛に寄与することを前提として、全国のマイクロ波を愛好するアマチュア局の実験と運用と相互の友好を積極的に進める事が何よりだと考えます。
そのための一つの有力で、有意義な行動として、表記の”全国(縦断)一斉マイクロ波バンド大移動運用会”を企画し、全国(縦断)一斉マイクロ波バンド大移動運用会” を実施し継続しています。全国各地では悪天候のなか、各地の多くのマイクロ波愛好会、クラブ、愛好者の皆さんの絶大なるご協力得て、大きな成果を得ています。
開催実行委員事務局は、横浜市のJH1UGF:槇岡 寛幸氏です。
註:マイクロ波帯とは、一般に周波数が1~10GHzのUHF・SHF・EHFを含む周波数の総称がマイクロ波と呼ばれその中でもSHF「Super High Frequency」の略語で波長は1~10cm未満、3GHz~30GHz以下の周波数を言う。主に衛星通信、衛星放送、市外電話回線、各種レーダーが用途で、勿論アマチュア無線も含まれる貴重なバンドです。全国(縦断)一斉マイクロ波バンド大移動運用会はSHF帯が主である。

画像は、10月3日・4日に行われた第15回・全国(縦断)一斉マイクロ波バンド大移動運用会に参加運用した、JR5EEK「私の」設備です。
設備:62cmのパラボラアンテナは、5600MHzと10,1GHz共用アンテナで、左に1200MHz帯の8エレループ八木アンテナ、左端は、2400MHz12エレループ八木アンテナです。移動場所は、松山自動車道上り伊予灘SAです。

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湯築城跡

2009年10月05日 | 往年の名車 メグロ
湯築城跡

湯築城は、14世紀から16世紀後半「南北朝時代から安土桃山時代」にかけて、約250年間に渡り伊予の守護であった河野氏の居城として存続した、中世の城跡が市街地にあるものは、殆ど外堀は埋め立てられ、土塁は取り壊され宅地として開発されてますが、この湯築城は戦国時代のタイムカプセルの様に現存している事が重要な史跡で日本でも此処だけである。
発掘調査は昭和63年から平成10年に掛けて行われ、特に県立道後動物園があった所に限り学術的な発掘調査がされその成果に基づいて文化財を生かした整備を行い平成14年4月12日に武家屋敷2棟・土塁・道路・排水等の立体復元や平面復元が完成し一般に公開開始した。また、平成14年9月に国の史跡「湯築城跡」に指定された。広さは、外堀を含む南北350m・東西295m・面積8,6ha(8町6反)で東京ドーム1,7倍の広さがあり丘陵の高さは31mある。中世の城としては珍しい平山城で、攻めるには攻めやすく、防御するには大変困難な城である。
四国征伐をめざす豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景が湯築城を落城させ城は、小早川隆景に与えられた。隆景が筑前に移った後、1587年(天正15年)、福島正則が城主となるが、正則が国分山城に居城を移したため、1587年7月に廃城となった。16年後の、1602年1月15日に勝山に加藤嘉明が城の築城を開始、1603年10月新城下に仮御殿が完成、加藤嘉明が新城下に居を移し此処に松山と言う名称が公にされた。伊予松山藩の誕生である。
画像は、外堀の隣接にあるマンションから撮影した国指定史跡「湯築城跡」である。

平成18年日本100名城(80番)に選定された。
 日本100名城80番目、私は36番目の探訪である。
平成14年開園当時からボランティアガイドをしていたが現在は休んでいる。100名城スタンプも未だに押してなく本日押しに行った。
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宇和島市伊達博物館&天赦園

2009年10月04日 | 往年の名車 メグロ
宇和島市伊達博物館&天赦園

10月1日宇和島市にある伊達博物館に行って来た。宇和島市立伊達博物館創立35周年特別展「戦国武将伝:織田信長・秀吉・家康・政宗縁の品々」が10月4日で終わるので観賞にいった。お目当ては、京都大徳寺所蔵の「木造織田信長坐像・国重文指定」と南禅寺所蔵の家康が命じて草稿した「武家諸法度草稿・・国重文指定」である。織田信長坐像、今までに見た信長の肖像とは違った像でこれが本当の信長なのかと思った。「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす・・」鋭い眼差しであった。武家諸法度草稿は、これを基にして元和元年(1615年)徳川秀忠が武家諸法度13ヶ条を発布した。その草稿が展示してあった。その後第3代将軍徳川家光が参勤交代等々の条文を加え19ヶ条が定型された。伊達藩は参勤交代で藩内の経費が圧迫されたと展示の中にあった。これは、他の藩も藩の維持管理が大変であったと思う。
天赦園は、寛文12年(1672年)宇和島藩第二代藩主伊達宗利が造成し、第七代伊達宗紀が退隠の場所として大改造し慶応2年(1866年)に竣工「天赦園」と命名したとある。天赦園命名の由来は、「馬上に少年過ぎ 世は平らにして白髪多し 残軀は天の赦す所 楽しまずんば是を如何せん」と言う漢詩から採って命名したものである。伊達宗紀は第八代宗城・第九代宗徳を背後より支援し明治維新の四賢公の一人宗城を維新の大業に参画させた。
天赦園は、西郷隆盛・大村益次郎・高野長英等勤王の志士との会見が行われた所とある。・・天赦園の資料引用
伊達博物館&天赦園は初めて行き庭園で暫し休息した。県外の観光者は、岡山の後楽園も凄いが此処もいい庭園だと感心していた。今日は外国人の(白人)団体が大型バス2台で観光に来ていた。
残念ながら松山には立派な庭園がない。

画像は、愛媛県宇和島市の国指定名勝「天赦園」である。
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