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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 10、愛媛県松山市護國神社の石碑「天壌無窮」

2018年12月31日 | 伊予松山歴史散策

これまでは、愛媛県外に建立された石碑を訪ねてきたが、これからは秋山好古の故郷である愛媛県内の石碑を訪ねてみることにする。

訪ねる石碑「天壌無窮」は、GHQの命令で昭和20年11月に清水小学校校庭に建立してあった石碑は撤去され、平成7年10月に愛媛県護國神社、波(は)爾(に)荘(さかえ)宮司の努力で同神社境内に再建立された。
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部・最高司令官・マッカーサー元帥)は、財閥解体、農地改革、普通法改正、日本国憲法制定、教育基本法等々の改革を実施した中、教育改革の一つに、教育施設内に軍人が揮毫した石碑、扁額等の撤去命令が発せられ、清水小学校開校と昭和天皇の御大典記念に建立された「天壌無窮」の石碑が撤去の対象となった。

 撤去された石碑は、平成7年10月まで、清水小学校の用具室に雑然と置かれていたのを愛媛県護國神社、波爾荘宮司が見つけ、学校の許可を得て愛媛県護國神社境内に再建立された曰くつきの石碑である。
秋山好古揮毫石碑を訪ねて、12愛媛県宇和島市吉田町の石碑「忠魂碑」もGHQの命令で撤去された石碑でこの後訪ねることにする。

扁額も撤去されたものが2面ある。
その1面「質実剛健」は、愛媛大学付属高等学校職員室にあった扁額で現在は、秋山兄弟生誕地武道場に掲示され一般に公開している。

あとの1面は、愛媛県立伊予農業高等学校職員室にある。
秋山好古が揮毫し、GHQの命令で対象となり撤去された石碑は2基であるが、全国には軍人が揮毫した多くの石碑が撤去され廃棄処分された碑が数多くあっただろうと推察される。

「天壌無窮」の石碑が再建立された松山市御幸一丁目476番地にある、愛媛県護國神社。

1.    文   天壤無窮  

2.所 在 地  : 松山市御幸一丁目476番地 愛媛県護國神社

3.揮 毫 者  : 陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者  : 裏面に建立者20数名の先生の氏名が記載してあったが殆ど判読困難

   再 建 立 者 :愛媛県護國神社 波(は)爾(に) 荘(さかえ)宮司

5.建立年月日  : 昭和3年 御大典・松山市清水小学校開校記念

   再建立年月日:平成7年10月吉日

6.碑石大きさ  : 縦・1m35cm  横・1m10cm  厚み・35 ㎝

7.石碑の由来  :

昭和3年清水小学校開校及び昭和天皇即位の大礼を記念して20数名の先生方が醵金して建立した。
昭和20年11月米・英軍が松山に進駐し、GHQの命令により碑石を撤去して、同校の用具室に保管してあったのを、平成7年10月渡部校長の許可を得て愛媛県護國神社、波(は)爾(に)荘(さかえ)宮司の努力で同神社境内に再建立した。

 碑石が割れているのは、撤去作業時に破損したものである。
秋山好古は、当時北豫中学校長在任中であり、清水小学校はすぐ近くにあり、先生方が揮毫を依頼し好古が受けたものである。
なお、醵金をして建立した先生方の名前が碑石裏面に刻印してあったが、今は風化が激しく消えて殆ど見えない。 

昭和16年3月、国民学校が公布され教育の目的は、「皇国ノ道ニ則りテ初等普通教育ヲ施し国民ノ基礎的練成ヲ為スヲ以テ目的トス」(第一条)とあって、「皇国ノ道」とは「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スル道」と意味づけされたと言う。・・天壤無窮の碑文碑が校庭にある事、揮毫者が軍人である事も重なりGHQの遺憾とするところにより司令長官命令で撤去された。

愛媛県護國神社の鳥居をくぐり右に行くと東屋があり、その東側に石碑は再建立されている。

石碑「天壌無窮」を後ろから見たところ。
石碑にひびが見えるのは、撤去の時に割れた跡である。

愛媛県護國神社の由緒。

石碑「天壌無窮」の正面。
石碑にひびが見えるのは、撤去の時に割れた跡である。

撤去の時に割れた跡である。
裏面に建立をされた醵金をされた先生方の氏名が書かれていたが風化が激しく殆ど見えない。

ただ、奉祝昭和・・・御大典の文字が何とか読み取れる。

昭和3年 昭和天皇の御大典記念・松山市立清水小学校開校記念に建立された「天壌無窮」の石碑。
昭和20年11月撤去前、清水小学校校庭にあった時の写真。
(写真提供:福島泰弘氏)

愛媛県護國神社境内に建立されている「歩兵第22連隊記念碑」が建立されている。

歩兵第22連隊当時の歩哨舎が保存されている。

歩兵第22連隊当時の歩哨舎の説明版。

愛媛県護國神社からすぐ近くに、秋山好古が校長を務めていた北豫中学校がある。
現在は、愛媛県立松山北高等学校である。
画像は、大正時代の北豫中学校の全景。

北豫中学校は、現在、愛媛県立松山北高等学校となっている。
松山北高等学校の正門。

秋山好古校長時代の講堂(現、第2体育館)で現在も使用している。

秋山好古校長時代の講堂(現、第2体育館)で現在も使用している。

秋山好古校長時代の講堂内部(現、第2体育館)で現在も柔道、卓球場として使用している。
秋山好古校長が亡くなって、6日後の昭和5年11月10日、画像の講堂(現第2体育館)で職員生徒約1千名が集まり哀悼式が行われた。

昭和5年11月10日、秋山校長哀悼式が開催された。
その資料。

愛媛県立松山北高等学校の校門を入ると右手に80周年記念館があり、入口に秋山好古校長の胸像が建立されている。

愛媛県立松山北高等学校80周年記念館入口。

80周年記念館内部で、秋山好古校長時代の資料を案内する、山崎教諭(現在、公益財団法人常盤同郷会理事長)が説明をする。
その説明を聞く、新潟市にある北方文化博物館館長、神田勝郎氏。
神田勝郎氏は、書籍「秋山好古と新潟の人びとの」著者である。

80周年記念館内部で、貴重な秋山好古校長時代の資料がある。

80周年記念館内部で、貴重な秋山好古校長時代の資料がある。

80周年記念館内部で、貴重な秋山好古校長時代の資料がある。

80周年記念館入り口に掲示されている、校章。

右から「北豫中学校」「県立松山北高等学校」「県立城北高等女学校」の各校章。

          愛媛県立松山北高等学校沿革

明治33年4月1日 鉄砲町(現校地)に北予中学校を開校。
大正12年4月2日 松山城北高等女学校開校。
昭和13年4月1日 北予中学校県立に移管し、愛媛県立北予中学校となる。
昭和23年4月1日 学制改革により愛媛県立北予高等学校発足。


昭和24年 9月 1日 県下高等学校再編成により旧北予高等学校、旧松山城北高等女学校、旧松山農業高等学校の3高が統合されて、新たに愛媛県立松山北高等学校として発足。
松山城北高等女学校の校舎は、松山北高等学校普通科の校舎として使用された。
昭和26年2月23日、松山市立勝山中学校として引き継がれ現在に至っている。

平成22年、松山北高等学校でNHKのテレビドラマ『坂の上の雲』の撮影が行われる。

県立城北高等女学校の校門が永久保存されている。
現在も松山市立勝山中学校の正門の横に保存されている。

県立城北高等女学校の校門の説明版。

愛媛県立城北高等女学校の銘板。
現在も松山市立勝山中学校の正門の横に保存されている。

愛媛県立松山北高等学校の全体図。

愛媛県立松山北高等学校正門横にNHKテレビドラマ『坂の上の雲』が放映され画像の様な説明版が設置された。

平成30年12月1日現在発見されている秋山好古揮毫の石碑一覧。
現在52基の石碑が発見されている。

昭和20年GHQの命令で撤去された扁額で、愛媛大学付属高等学校の職員室にあった。
撤去された扁額「質実剛健」は額から外され、おおざっぱなたたみ方で段ボールに入れられ、平成17年まで資料室の片隅に置かれていた。
平成17年7月、愛媛大学付属高等学校からの寄託として現在は秋山兄弟生誕地の武道場に掲示してある。 

この扁額は、和紙でなく、絹の布地に好古は揮毫した。
学校での保存扱いが悪く、和紙であればこんなに綺麗に額に収まらなかったが、絹であったので額に入れる事が出来た。
表具師は、仕上げる作業が大変であったと言っていた。
好古は布だから揮毫するのは大変であったと思う。

昭和20年GHQの命令で撤去された扁額で、愛媛県立伊予農業高等学校の職員室にあった。

当時の校長先生が自宅に持ち帰り大切に保管した。
昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効され、日本の主権が回復した後に校長先生が自宅に持ち帰り大切に保管していたこの扁額を再び学校に持って行き職員室に掲示し現在に至っている。
貴重な扁額である。

愛媛県立松山北高等学校、校長室に掲示してある秋山好古揮毫の扁額で、GHQの指示で撤去されたはずだが、保管はどの様な状態にしてあったかは不明である。
一度調べてみたいと思う。

 

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