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私が感じたパワースポット・新潟市江南区 北方文化博物館

2020年03月19日 | 伊予松山歴史散策

先日、午後11時05分から「NHKラジオ深夜便」で二夜に渡ってノンフィクション作家・高橋秀実さんの「パワースポットと日本人」と題した対談があった。
有名なパワースポットである明治神宮ですが、パワースポットは本殿ではなく、境内にある「清正井戸」であり、奈良の大神神社も御神体ではなく、参道の脇にある岩で「そこではなく・ここです」と話された。

パワースポットは、感じるものでなく、力・御蔭・御利益をお受けするものですとも話された。
受け取ったパワーを自力と会い合わせて自分にない力に変える事により活力となるのかなと私は感じながら話に聞き入った。

高橋秀実さん曰く「パワーがもらえるからパワースポットでなく・パワースポットだからパワーがもらえる」と語った。
さて

私がパワーをもらい受けた場所がある。

それは、新潟県新潟市江南区沢海にある「北方文化博物館の庭にある石」である。

私は数年前に味覚障害に陥り、愛媛大学医学部付属病院耳鼻咽喉科を受診した。
そして味覚障害担当医の診療を受け検査をして治療をした。

それから暫く治療をしたが担当医曰く、いろいろ治療をしたが完治に至らずこれ以上治療の方法がないので本日をもって治療を打ち切りますと通告された。

治療は、最初にMRIで脳の検査をしたが脳には異常なし、その後数種類の薬物投与治療をしたが容態は良くならなかった。

私は秋山好古が揮毫した石碑の調査を行っており、平成22年3月17日、新潟市江南区沢海日枝神社にある秋山好古揮毫の「忠魂碑」の写真取材で行った時、北方文化博物館・佐藤隆男副館長が博物館を隈無く案内をして頂いた。

案内の中、博物館の中庭にある大きな石があるが、「この石が何かわからないが計り知れない力が出ている。」と・・その道の研究をされている方から言われたそうです。

佐藤副館長は長らく博物館に勤務しているが、この石お陰か風邪も引いたことがなく元気で勤務しているし、博物館の学芸員達も元気ですと言われた事を思い出した。

平成22年9月5日、北方博物館で講演会が開催され、私も参加した「演題は:秋山好古と横越の人々」講師は北方博物館神田館長で、この時の新潟市移動は、愛媛県松山市の自宅から自家用車で行った。・・新潟県に入っていくら走っても新潟県なので嫌になった。

この時、佐藤副館長からの博物館中庭にある「計り知れないパワーの石」の事を思い出し石の前でしばらく座禅を組み「石のパワーの氣」を受けた。

その後、新潟県魚沼市堀之内竜光の天満神社に秋山好古が揮毫した石碑「戦役記念」が発見され、平成23年6月10日、写真取材に行き再び新潟市の北方文化博物館を訪れ、博物館の宿泊施設に泊まり「計り知れないパワーの石」氣を受けた。

その後再び、平成24年10月30日、秋山兄弟生誕地で奉仕活動でガイドをしている研究員7名を引率し北方文化博物館に研修として伺った。
この時も博物館に宿泊し「計り知れないパワーの石」の氣を受けた。
トータルで3回、「計り知れないパワーの石」の氣を受けたのである。

それから不思議に味覚障害が少しずつ回復の兆候が出て来た。
現在は、完全に回復に至っていないが7割り位回復したと自分で感じている。
人の身体は時々病魔に侵され自己治癒力で治すことが出来るが、時には医学の助けを得て手術や投薬をして治す必要がある。

また他力(パワー)を受け治癒力を高める事も必要ではないのか?、病は気からと言う言葉がある。気は、必ず治る・もう大丈夫というような安心感を自分に言い聞かせ、治癒力を高め、病を克服する力(パワー)を与えてくれる。
7割り位障害が回復した兆候があるが、それは北方文化博物館の「計り知れないパワーの石」の御蔭であると私は思っている。

北方文化博物館に感謝しています。

病は気からであるが健康も気からである。

佐藤副館長に、北方文化博物館の「計り知れないパワーの石」周辺には小さな石が沢山ある、この石にもパワーがあるとの由、出来れば一つ石をお借受けして、就寝時身体の近くに置き常時パワーを受け味覚障害回復に役立てたいとお願いしたが、そのお気持ちはよくわかりますが、博物館の貴重な聖なるものなので館外に持ち出すことは出来ないと言われた。

画像は、北方文化博物館と「計り知れないパワーの石」である。

松山にも数カ所パワースポットがあるから折を見て行ってみたい。

北方文化博物館正面入口。

参考までに
昭和20年8月15日、終戦を迎え日本はGHQ指導で戦後処理が始まった。

新潟県にもGHQが侵攻してきて北方文化博物館(当時は、越後一番の豪農伊藤家であった。)

をGHQの新潟県司令本部の施設として使用する予定で伊藤家を担当司令部長が訪れ、この事を伊藤文吉当主に通訳を介し英語で説明した。

すると、伊藤文吉当主から素晴らしい綺麗な発音の英語で返答が返って来た。

GHQ担当官は、ライト中尉でまさか英語で返答があるとは思わず、ライト中尉は、ミスター伊藤、貴方は発音の綺麗な英語であるが何処で習得したのかを聞きただすと「私は、米国ペンシルバニア大学の卒業生で、この大学で学びましたと言った。」

すると、ライト中尉はビックリしたそうです・・何ですか貴方もペンシルバニア大学の卒業生ですか? 私も(ライト中尉)ペンシルバニア大学の卒業生だと言った。

ライト中尉は、教育者で日本の教育制度改革担当司令官として新潟県に来たそうです。ライト中尉の肩書は、新潟軍政部民間情報教育部長であった。

ライト中尉は、伊藤文吉がペンシルバニア大学の先輩となる事が判明、先輩の建物を接収する事は出来ないと判断し、この建物を何らかの形で存続させようと考え(流石教育者である)

ライト中尉は、文化財として残すことを提案し、新潟県知事からGHQ最高司令官マッカーサー元帥にたいして伊藤家を文化財として残すよう上申書提出させた。
マッカーサー元帥は、博物館として存続する事を了承した。

これが我が国、戦後初めてとなる博物館として設立されたのである。
それもマッカーサー元帥の指示で私立としてであった。(公立としての運用はそれどれ枠組みがり活動に制約があるので私立であれば自由な活動が出来るからとのマッカーサー元帥の粋な計らいであった。

なお、ライト中尉の最初の赴任先は、青森県であったがこれを辞退、次は埼玉県これも辞退、次が新潟県を打診され何故か新潟県を了承したのである。もしも新潟県以外に赴任していたならば、現在の北方文化博物館は設立しておらず、GHQ新潟司令本部として建物内部は洋風に改造されていただろう。

ライト中尉と伊藤文吉と出会が何かの力が働いたのである。それが「計り知れないパワーの石」にあるのかもしれない。

由緒ある北方文化博物館の中庭には、ライト中尉の記念碑が建立されている。

マッカーサー元帥とライト中尉の息のかかった博物館そこにある「計り知れないパワーの石」威力があると私は思った。

北方文化博物館の玄関。

平成24年10月30日、秋山兄弟生誕地で奉仕活動としてガイドをしている研究員7名を引率し北方文化博物館に研修として伺った時。

新潟県新潟市江南区沢海、北方文化博物館の中庭にある私がパワーをもらい受けた不思議な石。

「この石が何かわからないが計り知れない力が出ている。」とい言われるパワーの石である。

 

パワースポットの定義や役割については、千葉市立図書館参考業務資料として下記のような記載があった。

「霊的な力が満ちているとされる場所」『大辞泉 下巻 第2版』
「心身を癒してくれる自然のエネルギーに満ちた場所」『現代用語の基礎知識2016』
「魂に啓蒙の光をもたらしてくれるパワーの源」『聖なる土地の力』
「その土地、その場所が持つエネルギーを、その場所に行くことによって吸収して、運を上げる場所」『パワースポットめぐり』
「まるで大地からの気功治療を受けているかのように、心と身体と魂が何らかの変化やメリットを受けることができる場所」『日本全国このパワースポットがすごい!』
いつ頃から使われるようになったのか、については、下記のような記載があった。
「平成2年代ごろからのオカルトや超自然主義の流行に伴って使われだした。」『大辞泉 下巻 第2版』
「スピリチュアルカウンセラーの江原啓之さん、手相占い芸人の島田秀平さんらが火付け役とされる。」(朝日新聞掲載「キーワード」の解説)

 

北方文化博物館の主屋で中庭にパワーの石がある。

北方文化博物館の大広間。

この博物館には、著名な方々が来られており、中でもイギリスの陶芸家バーナードリーチ、日本民藝館の創設者・柳宗悦、陶芸家人間国宝・浜田庄司、作家・司馬遼太郎、ライシャワー駐日米国大使、特に、司馬遼太郎は所蔵の美術品が素晴らしく博物館でなく美術館だと称した。

建造物全体が、登録有形文化財に登録されている。

北方文化博物館の宿泊施設「豪農の宿・大路菴」で私は二度宿泊した。

ラルフ・ライト・ピーターソン夫妻歓迎会が昭和60年6月23日(日曜日)午後5時から北方文化博物館で開催された時の写真。

GHQ新潟軍務時代の若きライトさんと7代目伊藤文吉館長、36年振りに再開したライトさんと8代目伊藤文吉館長。

北方文化博物館の庭にある、ラルフ・ライト 7代伊藤文吉との記念碑が建立されている。

ラルフ・ライトさんを偲ぶ記念碑。

8代伊藤文吉北方文化博物館長の念願が叶った日米友好の記念碑が建立された。

8代伊藤文吉館長の念願叶った「日米友情の記念碑」を建立。

念願叶ったと言うことは、北方文化博物館に多大な尽力と支援をされたライトさんは、昭和24年8月アメリカに帰国した。

帰国に際し、七代伊藤文吉館長は送別会を開催しお送りしたいと計画したが、行為は有難くお受けしますが送別会は行わないでくださいと断り帰国した。

8代伊藤文吉館長、一度お会いしてお礼を言いたいと思うもライトさんの消息は分からず、アメリカは戸籍法がなく個人情報が厳しく探すのは困難であった。

昭和59年、フレンドシップフォース新潟支部で会合が開催され会場が北方文化博物館であった。8代伊藤文吉館長と同席になった、ビル・パリッシュと北方文化博物館設立に付いて話をし、お世話になったラルフ・E・ライトさんに会いお礼を言いたいのだが消息が分からず困っていることを話すと「出来る限り手を尽くしお探ししますと」言ってくれた。

それから半年後、ビル・パリッシュからライトさんの消息が判明したと連絡があった。

ライトさんは帰国後ペンシルバニア大学大学院に入り博士号をとり現在はミネソタ州ロチェスター高校の校長をしていました。

8代伊藤文吉はライトさんと連絡を取り合い、昭和60年6月23日北方文化博物館で再開したのである。

ライトさんが軍務で初めて伊藤家を訪れた時、7代伊藤文吉と英語で会話をしていた時、8代伊藤文吉館長は中学生だったそうです。

伊藤家は、代々当主は文吉を名乗って来たそうです。

北方文化博物館初代館長が、7代伊藤文吉で2代目館長が8代伊藤文吉、平成28年10月25日逝去享年89歳、8代目に子供が無かったため、文吉という名は8代目で途絶える事となった。

3代目館長は、神田勝郎氏が就任し現在に至っている。

昭和24年5月、今から70年前の越後一番の豪農伊藤家資料の一部。

アメリカ国立公文書館所蔵。

当時の住所は

新潟県中蒲原郡横越村大字澤海六九七0番地

現在は

新潟県新潟市江南区沢海二丁目15番25号

平成22年9月5日、北方博物館で講演会が開催された。

演題は「秋山好古と横越の人びと」

講師は、現3代目北方文化博物館、館長神田勝郎氏であった。

講演会会場に掲示された講演案内の見出し。

講演会 次第。

予定していた聴講者を大きく上回り盛大に行われた。

平成24年10月30日、秋山兄弟生誕地で奉仕活動としてガイドをしている研究員7名を引率し北方文化博物館に研修として伺った時の様子。

北方文化博物館に隣接する日枝神社境内にある「秋山好古揮毫の石碑・忠魂碑」につて説明する神田館長。

神田館長の尽力で「秋山好古揮毫の石碑・忠魂碑」が新潟市民文化遺産に認定登録された。

NHK松山放送局が取材に行き放映した。日本海側に初めて発見された秋山好古揮毫の石碑と言う事案で。

 

平成23年6月10日、新潟県魚沼市にも秋山好古揮毫の石碑発見と連絡を受け神田館長の案内で取材に行った時の新潟日報の記事。

 

新潟県魚沼市堀之内竜光の天満神社に秋山好古が揮毫した石碑「戦役記念」が建立されている。

最近の北方文化博物館情報。

北方文化博物館シンボル「フジの花」から採取した酵母による日本酒醸造に成功した。
その新聞記事。

ライトアップされた北方文化博物館のシンボル「フジの花」。

北方文化博物館は、越後の大地主・伊藤家七代の歴史と地方文化を当時の姿のままに伝える豪農の館です。8,800坪の敷地に、65の部屋を設けた1,200坪の母屋。敷地のまわりは土塁や塀、濠で囲まれ、土蔵づくりの門、総欅づくり唐破風の大玄関など、現存する新潟の豪農の屋敷の中でも最大規模を誇ります。
この北方文化博物館の中庭には、樹齢150年、幹まわり1m60cm以上、一本の木から広がる大藤があります。開花は5月初旬から中旬、甘い香りを放って藤色の花を房状に咲かせます。開花に合わせ、この大藤のライトアップを実施します。

北方文化博物館資料より引用

 

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