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松山で一番新しい重要文化財「萬翠荘」

2013年11月13日 | 伊予松山歴史散策
昨日(11月12日)愛媛県本庁舎見学会の次に行われた場所は、萬翠荘であった。
今回の見学の目玉は、日頃見学することの出来ない3階、屋根裏見学である。先ずは、萬翠荘の概要を紹介しておきます。

名称、萬翠荘は、萬(よろず)翠(みどり)荘(やかた)、松山城の麓の緑の森の中に佇む邸宅、と言う意味であります。
※ 建築は、大正11年、旧伊豫松山藩主の子孫に当たる、久松定謨伯爵が、松山の別宅として建築。
※ 構造は、鉄筋コンクリート造り、地下1階、地上3階、面積887,58㎡(268坪)
※ 設計者は、愛媛県庁舎を設計した木子 七郎。
※ 平成23年11月29日、国指定重要文化財に指定された。
※ 特記事項は、昭和20年7月26日の松山大空襲時に、ここは意図的に残したと言われている。GHQが進駐時には、司令官の宿舎として使用するためだったとか?

萬翠荘には、もう一つ特記がある。それは、建築中、大正11年11月15日、松山で陸海軍の大演習が決定その大演習を摂政宮(後の昭和天皇)が観閲のため来松決定した。萬翠荘は、摂政宮様の宿舎とするため急遽突貫工事で完成した建物として有名である。観閲された高浜の荒神山に摂政宮(皇太子)ご結婚記念に、大正13年1月「摂政宮殿下特別大演習御野立場」の記念碑が建立された。揮毫は、陸軍大将、秋山好古でこの時好古は、北豫中学校校長であった。
では、見学した特に屋根裏も紹介。そして大演習を観閲された摂政宮当時の新聞記事と記念碑を見て下さい。


旧伊豫松山藩主の子孫に当たる、久松定謨伯爵が、松山の別宅として建築した萬翠荘。政府は、旧藩主、特に旧譜代、親藩の子孫は東京住まいとされたため松山に居宅がなかったので建築した。


愛媛県本庁者見学後、萬翠荘に移動、先ずは担当者から説明を受けて内部見学。


正面玄関受付に開示してある重要文化財指定書。


1階南側にある謁見室。昨日は明日から展示会開催の準備がされていた。


各部屋に設置されている暖房(ガスストーブ)、松山で初めての都市ガス使用。


踊り場のステンドガラスで、木内真太郎の作品。当時、松山では最大の一級品。


摂政宮様で太子時代のお姿。


旧伊豫松山藩主子孫、第16代久松定謨で、大正6年陸軍歩兵第一旅団長、大正9年陸軍中将となる。


これからが萬翠荘3階の屋根裏、非公開である。


トラス構造で、三角形を基本単位としてその集合体で構成する構造形式。


真ん中の黒いパイプは、各部屋の暖炉(ガスストーブ)の排気管。


3階にある非常口。


昭和20年10月21日連合軍の四国進駐地を松山に決定。大型駆逐艦や巡洋艦に護衛されてマンダナオ島ダオバから松山・三津浜沖に到着上陸し、松山から、高松、徳島、高知とGHQの兵士は進駐していった。萬翠荘は師団長の宿舎となり、以後昭和24年11月30日までの約4年間松山をはじめ四国を統治続けた。
画像の英語表示板は、3階非常口にあるものでその当時の名残として保存されている。


大正11年11月15日から二日間、松山で陸海軍の大演習が行われた時、同年11月17日、海南新聞(現、愛媛新聞)の記事。上部画像は、摂政宮が観閲される場所、荒神山に上がられている様子。


松山陸海軍大演習を高浜の荒神山で観閲されるご座所。奥に見える島が「興居島」。


大正11年11月15日、昭和天皇が摂政宮の時、陸海軍の大演習が高浜沖で行われ荒神山から観閲された。皇太子ご結婚記念に大正13年1月に観閲された荒神山に建立された記念碑。「摂政宮殿下特別大演習御野立場」揮毫は、陸軍大将、秋山好古で好古は、北豫中学校校長であった。
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