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現存12天守紀行「近世に創建された現存する天守」

2010年12月12日 | 往年の名車 メグロ
現存12天守紀行「近世に創建された現存する天守」

現在、全国に現存する城は殆ど近世の城郭で織田・豊臣政権下に誕生し、全国統一の過程のなか創建された。
関ヶ原の戦い後諸大名は配置替えにより新領地に入り大名達は直ちに新城を築城する大名また居城の大改修を行った。
1615年一国一城令の城郭統制が発布され中世の城は姿を消し近世城郭だけが修理を続けながら明治維新まで維持管理されていき、近世城郭の構成は、天守・石垣・礎石建物・瓦葺・枡形虎口で櫓や門は、全部画一的となった。
江戸時代164の城があったが明治時代になり廃城令が発布され殆どの城は取り壊され残るのが19天守である。
太平洋戦争で6天守が焼失、北海道松前藩の天守は失火で焼失し、現在全国に現存する天守は12天守である。
12天守は、昭和4年3月28日国宝保存法の制定により国宝に指定されたが昭和25年5月文化財保護法が制定された事により国法と重要文化財に指定変更された。
国宝に指定されたのは、松本城・犬山城・彦根城・姫路城で、重要文化財に指定変更されたのは、弘前城・丸岡城・松江城・備中松山城・丸亀城・高知城・宇和島城・伊予松山城である。
私は、時間の余裕みながら12天守を紀行して来た、平成7年9月6日から紀行を初め、平成20年5月9日最後の訪問、弘前城で紀行は終わった。
画像は、私が訪ねた12天守です。

先ずは、日本100名城 第4番 重要文化財:弘前城天守です・・平成20年5月9日に訪れた。

弘前城を建造したのは、津軽家二代目藩主信枚で、江戸時代弘前藩津軽氏10万石の居城として1611年に河岸段丘(か がん だんきゅう)17mに築城され津軽地方の政治経済の中心地となった。
天守は、本丸西に五層で創建されたが1627年に落雷で焼失1810年に本丸東の辰巳櫓を取り壊して同じ場所に新築したのが現存する天守である。
現在は、弘前公園として観光名所となり、弘前市により管理されている。
天守と桜のコントラストが美しく日本屈指の桜の名所として日本桜名所100選に選ばれている。
外様10万石 独立式天守 3層3階層塔型 重要文化財9棟
青森県弘前市下白銀町1番地

次は、日本100名城 第29番 国宝:松本城天守・・平成19年11月20に訪れた。

藩政時代最後の(140年間)城主戸田氏(譜代)6万石の居城松本城は、五重六階の天守で、姫路城とともに桃山文化を代表する現存天守として2基しかない貴重なものである。
創建は、1597年頃で現存する大・小天守が完成し1636年に辰巳付櫓と月見櫓が増築され今のバランスがとれた天守の姿となりこれを複合連結式天守と呼ぶ。
姫路城は白亜総塗込めの純白美に対し、松本城は黒漆を外壁に塗った黒く輝く天守で、別名、「烏城」「鵞(が)湖(こ)城(じょう)」とも言う。鵞湖とは諏訪湖の雅称である。
譜代6万石 連結複合式望楼型 5層6階 国宝5棟
長野県松本市丸の内4番地1

次は、日本100名城 第36番 重要文化財:丸岡城天守・・平成20年4月13日に訪れた。

丸岡は戦国時代、織田信長配下の勇将・柴田勝家の養子・柴田勝豊が治めていた。
藩政時代は、5万石・有馬氏(外様⇒願い譜代)の居城で160年間支配し明治維新をむかえる。
丸岡城天守は、1576年に「まるこの丘」と呼ばれる標高17mの丘に高さ12,6m、二層三階の初期望楼型独立式で築城され、軒下や壁面が白木造りとなっている。
 また、荒々しい野面積みの石垣が残り、瓦は全国的に見ても珍しい石瓦で葺かれていている。(笏谷石・しゃくだにいし・で造られているのは、全国でも珍しい)
天守は、昭和9年に国宝に指定されるが、昭和23年福井地震のため倒壊し、
昭和30年に倒壊した天守の廃材を用い、元通り修復再建され現在は国指定の重要文化財となっている。
外様5万石 独立式 2層3階望楼型 重要文化財1棟
福井県坂井市丸岡町霞1番地59
 
次は、日本100名城 第43番 国宝:犬山城天守・・平成19年11月19日に訪れた。

尾張徳川の附家老である成瀬正成が3万石で入り尾張藩を補佐する犬山成瀬氏の居城で、天文6年(1537年)に現在の天守最古の天守を持つ城として国宝に指定されている。
犬山成瀬氏はあくまでも身分は尾張藩の徳川家を補佐する重臣という立場であり、独立した大名として見られることはなかったが、慶応4年(1868年)1月、新政府の維新立藩により、犬山城の成瀬家は正式に犬山藩主となり、尾張徳川氏の尾張藩から独立した。数年前まで犬山城は成瀬家個人の所有物であったが現在は財団法人として管理している。
譜代3.5万石 独立式 3層4階地下2階望楼型 国宝1棟 
愛知県犬山市大字犬山字北古券65番地2

次は、日本100名城 第50番 国宝:彦根城天守・・平成19年5月12日に訪れた。

彦根藩35万石井伊氏の居城で、築城は1603年から20年の歳月を掛けて金亀山(こんきやま・標高50メートル)に徳川家康が公儀奉行3名と12の大名家に築城助役を命じ天下普請として竣工させ、外様をはじめ西国の諸大名を監視する事が目的として築城した。
天守は小型であるが、現存天守の中で最も多くの破風で作られ、種類も入母屋、唐、切妻破風、火灯窓を付け多様で絢爛である。
維新後廃城を免れたのは、秀麗な偉容としての天守が特に文化財的な意義を高く評価する大隈重信は、地元の熱い保存要請を受け明治天皇が北陸行幸のとき保存を直訴して残った。
昭和27年3月29日国宝に指定された。
譜代23万石 複合式 3層3階地下1階望楼型 国宝2棟 重要文化財5棟
滋賀県彦根市金亀町1番地1

次は、日本100名城 第59番 国宝&世界遺産指定:姫路城天守・・昭和40年に最初訪れ最近は、平成19年11月22日に訪れた。

姫路城天守は、標高46mの姫山にあり、天守が築かれたのは、1580年羽柴秀吉が西国攻略の根拠地として入城し、現在の大天守のある位置に三層の天守を構えたのが最初で、1601年から8年の歳月をかけて池田輝政(52万石)が天守を解体して姫山に五層六階地下一階の現存天守を築城した。
現在、大天守と三つの小天守を結ぶ渡櫓が国宝で、あとの建造物は重要文化財となっている。中濠以内は国の特別史跡に指定されている。
地階から東西の二本の心柱で建物の主軸となって支えているのは見事である。
平成5年には日本を代表する城として世界遺産に登録された。
譜代15万石 城郭の形式は、平山城で天守の形態は、連立式 5層6階地下1階望楼型の連立式である。
国宝8棟 重要文化財74棟
兵庫県姫路市本町68番地
日本三代連立式天守「姫路城・和歌山城・伊予松山城」

次に、日本100名城 第64番 重要文化財:松江城天守・・最初は平成15年9月6日に行き、最近は平成21年7月22日に訪れた。

松江藩18万6千石・松平氏の居城で天守は、標高28,4mの亀田山にあり優美な五層六階の望楼型で正面南側に付櫓が付属する複合式天守で平山城である。
元来天守は生活の居でなく厠はないが私の知る所では、松江城と姫路城にある。
松江城天守には、立派な鯱が上っている。
親藩18,6万石 複合式 5層6階望楼型 重要文化財1棟
島根県松江市殿町1番地5

次は、日本100名城 第68番 岡山県高梁市にある、重要文化財:備中松山城天守・・平成15年7月22日と平成21年9月26日に訪れた。

備中松山藩5万石、天守は標高430mの小松山山頂にあり二層二階で典型的な山城の天守で日本で一番高いとこにある。
天守1階には籠城戦を意識した長囲炉裏があります。・・天守に囲炉裏があるのはここだけではないでしょうか。
大手門から見る高石垣は凄い。
明治2年伊予松山藩との混同をさけるため高梁藩と改称された。
譜代5万石 複合式 2層2階層塔型 重要文化財3棟
岡山県高梁市内山下1番地1

次は、日本100名城 第78番 重要文化財:丸亀城天守・・度々訪れたが、最近は平成21年9月27日に訪れた。

丸亀藩5万1千石・京極氏の居城・江戸時代に創建され現存する12城天守の一つで香川県丸亀市にある丸亀城「天守」である。この天守は日本で一番小さな天守と言われているが石垣が日本で一番と評される高石垣で有名である。それに大手一ノ門「渡り櫓門」と大手二ノ門「高麗門」それから枡形の規模は江戸城の大手門に匹敵するくらい立派な造りである。5万1千石の城郭の大手門にしては規模が大きい。弘前城・高知城と並び日本三代大手門と言われる。
城の形式は平山城で標高66mの亀山にある。
外様5,15万石 独立式 3層3階層塔型 重要文化財3棟
香川県丸亀市一番丁

次は、日本100名城 第84番 重要文化財:高知城天守・・最近は、今年平成22年10月12日に訪れた。

土佐藩24万石・山内一豊(やまうちかつとよ)「地元ではやまのうちかずとよ・とは読まない」氏の居城で関ヶ原の戦いの翌年1601年9月から築城された。
天守は、標高44,4mの大高坂山に三層六階、白亜総漆喰塗りで最上階に望楼の廻縁(めぐりえん)があり望楼式天守と呼ばれる古式型で天守の高さ18,5mである。
天守は、1727年焼失。現存天守は1747年8月当初のまま再建された。
弘前城・丸亀城と並び日本三代大手門と言われる。
城の形式は平山城である。
今年10月12日、三ノ丸の石垣が修復完了したので見学に行った。高知城の石垣は殆どが穴太積で、今回の修復工事も安土城の石垣を手がけた安太積みの技法を継承している、滋賀県大津市坂本の安太衆第14代粟田純司氏が積んだのでこれを是非見たく行ったのである。
外様24万石 独立式 4層6階望楼型 重要文化財15棟
高知県高知市丸の内一丁目2番地1

次は、日本100名城 第83番愛媛県宇和島市にある、重要文化財:宇和島城天守・・最近は、平成19年9月20日に訪れた。

宇和島藩10万石・伊達の居城で、仙台藩伊達政宗の長庶子秀宗が就封以来維新まで9代続いた城郭で市街の中央、海抜80mの城山にある。
宇和島城は、1601年藤堂高虎により築かれたが、高虎が今治に転封となってのち、奥州仙台藩主伊達政宗の長庶子秀宗が10万石を賜り1615年に入城した。
2代宗利の時に天守以下城郭の大修理を行い、1671年に完成し現天守はその時のものである。
三重三階総塗籠式の層塔型天守で、昭和35年に大修理を行っている。
なお藤堂高虎時代の天守は、天守台はなく自然の岩山の上に築かれた望楼型であったが、伊達氏二代目藩主宗利が再建した天守は、天守台が造られ新式の層塔型と大きく変わった。
城郭の形式は、平山城で天守の形態は、層塔型である。
外様10万石 独立式 3層3階層塔型 重要文化財1棟
愛媛県宇和島市丸之内

最後は、私の地元日本100名城 第81番、重要文化財:伊予松山城天守

伊予松山藩15万石・松平氏の居城で、初代藩主加藤嘉明が1602年から25年の年月を掛けて築城し完成1年前に会津若松藩に転封、二代目藩主蒲生忠知が1629年6月入城し松山城は完成した。
二代目藩主蒲生忠知は1634年参勤交代時京都で病に係り逝去嗣子がなく断絶在藩7年4ヶ月であった。
三代目藩主は、徳川家康の弟久松定勝の長男、定行が藩主となり1635年7月に入城し明治維新まで松平15代在藩した。
定行は、家康(異父兄弟)の勧めで久松から松平と姓を変えて維新前に元の久松の姓にもどす。
天守は、三代目定行の時に加藤嘉明が創建した天守(1672年)を解体し現在の形の三層の天守に造り替え、その後落雷で焼失(1784年)現天守は、1854年(安政元年)再建された現存する12天守の中で一番新しい今から157年前の天守である。
天守は、門・櫓を従えて連立式天守を形成(連立式天守三名城:姫路城・和歌山城・伊予松山城)で三層三階江戸後期層塔式天守である。
城の形式は平山城である。
現存12天守で唯一徳川家の紋所「三つ葉葵」の紋章が付いている城である。
親藩15万石 連立式 3層3階地下1階層塔型 重要文化財21棟
愛媛県松山市丸之内

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