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愚陀仏庵・「松山市三庵の一つ」

2012年06月14日 | 伊予松山歴史散策
愚陀仏庵は松山市二番町三丁目7番地に現存したが昭和20年7月26日松山空襲で焼失した。昭和57年に松山市一番町三丁目にある萬翠荘の裏に復元された。
平成22年7月12日未明からの大雨で、松山城東雲口登山道斜面が土砂崩れが発生し、城山山麓に建築されていた愚陀仏庵が倒壊した。現在は倒壊した建造物は取り除かれ画像のように更地になっている。
愚陀仏庵(ぐだぶつあん、)は、夏目漱石が愛媛県松山市の松山中学に赴任していた時の下宿先で、名称は夏目漱石の俳号・「愚陀佛」に由来するものである。

正岡子規は、日露戦争時に日本新聞社の従軍記者として戦地に赴き帰りの船で喀血し帰国後療養、元気になり松山に帰った。松山には子規の家は無く、漱石の下宿先に居候となり、漱石と52日間共同生活をした。これが愚陀仏庵で二階に漱石、一階に子規が寝泊りした。子規はよく句会を開き、漱石も時々参加、短詩系文学に興味を覚え、俳句を嗜み明治30年子規の友人、柳原極堂が俳句雑誌「ホトトギス」を創刊、昭和初期までは日本で最も有力な俳句雑誌として認知されていた。この頃小説が盛んになり、高浜虚子や伊藤左千夫らが小説をホトトギスに作品を投稿していた。

明治38年1月高浜虚子の勧めで、漱石は小説を書き「ホトトギス」に載せた。その小説は、「我輩は猫である」で漱石の処女作、これが文豪夏目漱石の誕生、愚陀仏庵で子規と52日間共同生活がなかったら文豪夏目漱石の誕生はなかった。貴重な所である。
現在愚陀仏庵再建が叫ばれていて建設地をめぐって検討されている。候補地は、倒壊した跡地・道後温泉上人町(宝厳寺前)・終戦前にあった二番町の3ヶ所である。


大正11年旧伊豫松山藩、子孫久松定謨が松山別宅として建設された「萬翠荘」・・愛媛県初のフランス風建物・平成23年11月29日に本館と管理人舎の2棟が国の重要文化財に指定された


萬翠荘の裏側でこの奥に愚陀仏庵があった・・崩壊した土砂は萬翠荘の裏側手前で止まり、萬翠荘には被害はなかった


昭和57年9月復原された倒壊前の愚陀仏庵、茶会が開かれていた


倒壊前の愚陀仏庵、句会が開かれていた


平成22年7月12日の豪雨のため松山城南面中腹が土砂崩れで崩壊、愚陀仏庵が倒壊した当時の画像


土砂崩れで崩壊した愚陀仏の建物を取り除き更地に、限定工事を


松山城山東雲側登城口(ロープウエーイ山頂駅舎南側)土砂崩れで崩壊した・・現況は画像の通り整備された・・一番下の土地が愚陀仏庵跡


現在の愚陀仏庵跡


愚陀仏庵跡に置かれている遺物


戦前にあった愚陀仏庵跡で現在は駐車場・・昭和20年7月26日松山大空襲で焼かれ焼失 


愚陀仏庵跡の石碑


現在は駐車場で画像の看板が掲げてある


愚陀仏庵跡の説明板・・場所は三越松山店南側50mにある
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