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東西南北から見た松山城天守 その1

2015年09月16日 | 伊予松山歴史散策
松山城は、平成26年行ってみたい日本の城で第2位にランクされ、また歌舞伎俳優の坂東三津五郎さんも大好きなお城のひとつでした。そして俳優の榎木孝明さんお勧めの松山城の風景をいろんな方角から、角度から紹介します。
松山城は、昨年111万4000人が観光に訪れその内44万5100人の方が天守に上がられました。
現在の天守は、安政元年の再建で江戸時代後期に創建され現存12天守で一番新しい天守です。
伊予松山城天守の沿革を簡単に紹介します。
加藤嘉明は、慶長5年(1600)9月15日関ヶ原の戦いで東軍として松前城から参加、徳川の覇権が確立し、武勲を挙げた嘉明は家康から伊予の国を二分し20万石を拝領した。(残り20万石を藤堂高虎が拝領)
慶長6年(1601年)に嘉明は家康に勝山に築城の事情を具申し許可を受けて慶長7年(1602年)1月15日の吉日に築城の工を起こし新たな城造りに取り掛かかり、先ず本丸・二ノ丸・三ノ丸の位置を決定し荘厳な天守の造営に着手した。(嘉明の築いた天守は5層の天守であった。)

本丸の位置が決定するに従い、まず石塁の完成に全力が集中された。(本丸の石塁は、屏風折れの石垣を築きあげた。また、二之丸防衛の為に北と南に登り石垣を構築全国最大の石垣である。)
武家屋敷の地割り、ついで商家町、寺町の形成等々城下町の概要が整い慶長8年(1603年)10月に嘉明は、家臣、住民とともに居を松前(当時は正木と言っていた)から新城下に移し、この地を松山と名称が公にされた。現在の松山市の基盤が出来た。

伊予松山城本丸は、二つの山を切り開き膨大な石塁を築き天守、櫓、城門、渡り塀の建築に26年の歳月を費やし建設費の捻出には農民から厳しい年貢の取立てでこれに当てた。この苦労の賜物が現在の城郭で観光資源として松山市を支えている。
未だ沢山記載する事項があるがまたの機会にする。

参考に松山城の年譜を紹介します。

慶長7年(1602年) 1月15日:築城開始。
慶長8年(1603年)10月:新城下に移転・・公に松山となる。
寛永4年(1627年) 2月:幕府の命を受け会津に転封。
寛永5年(1628年) 6月:出羽国上ノ山城主の蒲忠知が24万石で入封
蒲忠知が松山城を完成する。
寛永11年(1634年)8月:蒲忠知、参勤交代途中京都で病死。
寛永12年(1635年)7月:伊勢国桑名城主の松平定行が15万石で入封
                明治維新まで親藩となる、定行の父、定勝は家康の異父同母弟。
寛永16年(1639年) 7月:5層の天守を3層に改築(改築に3年を要した。)
天明 4年(1784年) 1月元旦:落雷で天守焼失。
文政 3年(1820年)  4月:天守復興に着手。
天保 6年(1835年)  6月:本丸作事場から失火工事中断。
嘉永 元年(1848年)  2月7日:本丸普請再開。
安政 元年(1854年)  2月8日:天守完成(天明4年天守焼失から71年経過していた。)これが現存する天守です。


松山城鳥瞰復元図で、伊予松山初代藩主、加藤嘉明が築城した当時のもので、天守は5層6階、26年の長きを経て完成した。嘉明は完成の前年幕府の命で会津若松藩40万石で転封、手掛けた松山城が完成しておらず、年齢も60歳を過ぎての事、幕府に松山在藩を嘆願したが聞き入れられなく会津若松藩に向かった。松平容保が戊辰戦争で会津若松城に籠城して戦った天守は、加藤嘉明が築城した。


此れは、文久4年(1864年)松山城全体に配置図でのこの時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。伊予松山藩主は、第13代松平勝成、伊予松山藩主は、初代藩主、加藤嘉明、第2代が蒲生忠知、3代目が松平定行で松平が14代続き親藩として明治を迎える。3代目松平定行は徳川家康の甥になる。元は久松氏であるが、徳川家康の指示で、松平姓を名乗り葵の紋所を使うよう指示された。伊予松山城本壇にある城郭の建造物の瓦には葵の紋が入っている。地方の城では伊予松山城のみである。
また、藩主の名前は代々「定」を使って来たが、第12代松平勝善、第13代は松平勝成を使った。それは、この時の江戸幕府の第13代征夷大将軍が徳川 家定となったので遠慮して勝善・勝成を使った。第14第になってから松平定昭と「定」を復活した。


松山市朝日ヶ丘1丁目にある松山総合公園展望台から見た松山の街並みと松山城。
松山総合公園は、市制100年を記念して造られた公園で、松山市街の眺めを楽しめる絶好のビューポイントで、標高126mの大峰ケ台全体が公園として整備されている。ヨーロッパの古城を思わせる、山頂の展望塔(標高140m)がある。平成11年に完成した。
方角は、真西方角。
参考までに:平成27年8月1日現在の松山市の人口は、515,865人です。


松山総合公園展望台(140m)から見た松山城。


松山総合公園展望台した(標高126m)から見た松山城。


松山総合公園展望台から望遠レンズで見た松山城天守方角は西方角。


松山市湊町五丁目1番地1にあるいよてつ高島屋百貨店屋上にある観覧車トップから撮った松山城。方角な真南。


高島屋百貨店屋上にある観覧車トップから望遠で撮った松山城天守。
松山城天守は、この方角から見るのが一番綺麗(真南方角)
観覧車は、地上から最高点までの高さ/85m 輪の直径/45mある。


伊予松山城三之丸(現在は城山公園)から見た松山城本丸。
方角は南方向。


伊予松山城三之丸から二之丸の石垣と多聞櫓越しに見る松山城天守。
松山城本丸は標高132mにあり、天守最上階は160mある。


伊予松山城三之丸からみたライトアップアされた二之丸の石垣と多聞櫓と天守。


伊予松山城三之丸のある方角から見ると大天守、小天守、南隅櫓、北隅櫓を眺望する事が出来る。方角は南方向。


伊予松山城二之丸史跡庭園から本丸天守を望む。


二之丸史跡庭園から見ると違った本壇天守群の建物が見える。
方角は南方向。


伊予松山城外堀、愛媛県警察本部前からの風景。本丸山麓の建物は愛媛県庁本庁舎の一部で、藩政時代は家老の屋敷があった。方角は南方向。
県庁建物の上に一部見える石垣が、日本最大の登り石垣。


同じところから撮った夜の松山城天守と、外堀の一部。
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