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伊予松山城 連立式天守 筋鉄門内部 

2010年05月09日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山城 連立式天守 筋鉄門内部  

画像は、筋鉄門(すじがねもん)内部で本壇最後の防御の城門、破壊が難しいように鉄筋を多く使い仕上げている。
画像奥が天守1階部(安政元年再建)で、手前が筋鉄門(昭和43年復元)、昭和20年7月27日、松山空襲で焼夷弾が中庭に落ち飛び火して火が着き、住田監守長が命懸けで消し止めた。
住田監守長の消化が無かったら天守は焼失していた。

昭和21年9月9日に田中耕太郎文部大臣から長い文章の感謝状が送られている。
内容を要約すると、国宝松山城天守が昭和20年7月27日の空襲により焼失しようとしていた時、身の危険を省みず命がけの消化活動で残ったのは貴殿のお陰であります。
ここに心を籠めて御礼を申し上げます。

昭和20年9月9日
文部大臣 田中耕太郎

住田 晋 殿
です。
伊予松山城天守は、明治6年に伊佐庭如矢が、大蔵卿大隈重信に城郭を公園化する事で、庶民の観覧のためにと上申し存続が決定し、大正12年7月久松定謨は、政府から松山城の払い下げを受け、維持費の一部にと寄付金を付けて松山市に寄贈した。

昭和20年7月26日松山空襲で城山に焼夷弾が投下され事務所、太鼓櫓、乾門、天神櫓等々城郭の建造物が次々に焼失、敵機が去ったのち焼煙が薄らぎ天守が浮かび上がった時、(27日未明)天守1階の西南隅が燃えつつあったのを見た住田監守長は一人でバケツ1個だけ持って走り本壇水槽の水で消し止めた。

上記3名の苦労があり現存天守は残ったのである。
この事は地元市民もあまり知られてない。

註:現存12天守は昭和24年までは全部国宝であったが、昭和25年文化財保護法が制定され松本・犬山・彦根・姫路が国宝に指定され、弘前・丸岡・松江・備中松山・丸亀・高知・宇和島・伊予松山は重要文化財とし指定変えされた。


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