EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

村上水軍縁の地・村上3島めぐり日帰りの旅 2能島村上水軍

2014年09月17日 | 伊予松山歴史散策
来島城跡を見学し再び高速艇に乗船、昼食のため大島下田水に移動上陸し「道の駅よしうみいきいき館」で昼食を取った。
これから行く能島は、船上見学のみで上陸出来ないのが残念だが、三島村上水軍の中では最強の水軍であったのが能島村上であった。
村上水軍の歴史は、前期村上氏は、村上義弘が活躍する応永3年(1374)以前で、義弘が逝去したその後、信濃村上氏から師清が入り、後期村上氏の祖となった。師清の子義胤には、三人の男子があり、それぞれ三つの島に分立させた。長男義顕を能島に、二男吉房を因島に、三男顕長を来島に配し、ここに 後世に知られる能島村上、因島村上、来島村上の村上水軍三家が誕生した。
村上水軍が最も活躍したのは、弘治元年(1555)の厳島の戦い、永禄4年(1561)の豊前簑島合戦、永禄10年(1567)からの毛利氏の伊予出兵、天正4年(1576)の第一次木津川口の戦いである。天正16年(1588)年に豊臣秀吉が海賊停止令を出すと、村上水軍は従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされる。因島村上氏はそのまま毛利家の家臣となり、江戸時代には長州藩の船手組となって周防国三田尻を根拠地とした。能島村上氏は毛利家から周防大島を与えられて臣従し、江戸期には因島村上氏とともに長州藩船手組となった。来島村上氏は江戸期来島の字を「久留島」に改め、久留島氏を藩主とする森藩が成立し、子孫は代々封を継いで明治に至った。


今治市宮窪町にある村上水軍博物館でこの近くに能島がある。


村上水軍博物館まえにある顕彰碑


村上水軍最強の能島水軍の本拠地「能島城」があった島で、今回の村上水軍ゆかりの地巡りで一番上陸したかった能島には上がれなかった。


能島村上水軍の本拠地「能島城跡」がある能島で潮の流れの早い瀬戸である。


秀吉は能島村上武吉が来島攻撃を憎み、天下統一したのちは武吉を目の仇にするようになった。天正13年、秀吉の四国征伐が開始されると来島通総は小早川軍の先陣となり、のちに伊予国野間・風早郡内で一万数千石の知行を与えられた。一方、武吉父子は、来島海峡からの退去を命じられた。さらに天正16年「海賊禁止令」が発せられ、武吉父子は海上特権をすべて奪われた。
その後、武吉父子が関銭を徴収したことが、禁止令に触れるということで厳罰に処されることになった。さいわい小早川隆景らのとりなしで切腹だけは逃れたが、瀬戸内海での居住を許されず、筑前や長門に移住することになった。ここに、平安時代より瀬戸内水軍として活躍してきた能島村上氏は、水軍大将としての歴史に幕を閉じることになった。その後能島は無人島となる。


能島村上と因島村上とは毛利に仕えるが、来島村上は離反し三島村上は無くなる。
来島村上は小田原攻めに、加藤嘉明軍と水軍を組海上から攻め活躍。慶長六年(1601)豊後国玖珠・日田・速見三郡の内、一万四千石を与えられ大名に復活した。そして、徳川家康の指示により、来島の字を「久留島」に改め、久留島氏を藩主とする森藩が成立、子孫は代々封を継いで明治に至った。


「能島」の南側の島に画像の様に仏像が置かれてあった。


能島を後に船折瀬戸を通り因島村上水軍城に移動、此れから見える橋は多々羅大橋で、左が愛媛県の大三島、右手が広島県の生口島。


平成11年5月、西瀬戸自動車道(国道317号バイパス・しまなみ海道)の一部として供用開始、斜張橋の「多々羅大橋」で、斜張橋としては、世界で5位、橋の長さ、1480m愛媛県と広島県を繋いでいる。自転車道・歩道併用橋。


今治市宮窪町には、NHK坂の上雲の主人公の一人、秋山好古揮毫の石碑が2基ある。
今治市宮窪町余所国、両社明神社にある好古揮毫石碑「忠魂碑」


今治市宮窪町宮窪、中村集会所・祝詞場にある好古揮毫石碑「忠魂碑」


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする