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新伊予松山紀行 松山八社八幡 3番社 日尾八幡神社

2013年01月08日 | 伊予松山歴史散策
日尾八幡神社は、松山八社八幡第3番目の神社で、旧社格は県社である。そして我が家の氏神様である。

社伝によると孝謙天皇の時、僧慈明に勅し浄土寺の鎮守として工をおこさせ、三輪田大神久米麿・高市古麿らを斎主と定め、天平神護2年(765)に竣工したという。

「旧蹟俗談」によると、本社はもと小野村湖小屋峠永尾にあったが、後に平井谷明神鼻に移り、さらに転じて延喜年間ころに現在のところに遷座したといわれている。その当時の社号は日尾明神であったと伝えられる。

天正年間に入って群雄として有名な豊後国の大友氏が伊予に来侵したとき、社殿の破壊されるのを恐れて、社号を八幡神社に改めたとされる。大友氏はキリスト教を信奉していたので、「大友興廃記」によると仏閣・僧坊・宗廟・社稷等を焼却するのを常としたから、神社においても武人の崇拝の厚い八幡社にしておくことが甚だ有利であったに相違ない。

天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐がおこなわれた後に、河野氏が安芸の竹原に移されたので、一時本社は荒廃したようである。
慶長8年(1603)に加藤嘉明が松山城を築城して正木(松前)城から移った時、松山城の固めとして城山の四方にある近郷の八幡宮のうち重要なもの八社を選んで崇敬したと言われる。

これらを松山八社八幡宮といい、本社もその一つで3番社である。
特に第3代伊豫松山藩主、松平定行(徳川家康の甥)以来歴代藩主の崇敬が深い・・棟神社社家に残る藩主の数々の祈願文等々によって伺い知ることが出来る。維新の変革を経て、明治12年(1879)8月社格県社となった。
祭神は天御中主大神、天照皇大神、月夜見大神、合祀として後藤信正翁命を。
またこの神社は、神官三輪田清敏の長男として生まれた江戸末期から明治にかけての書家三輪田米山でも有名である。

社号石 「県社日尾八幡大神」・注連石「鳥舞」「魚躍」は米山揮毫したものである。


神社の所在は、松山市南久米町、旧国道11号線沿いに位置する。
神社入口に、注連石があり左に「魚躍」右が「鳥舞」で、書道家三輪田米山の揮毫である。米山は、日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男である。
また、東京都千代田区にある私立の中高一貫校、三輪田学園中学校・高等学校は、日尾八幡神社神官三輪田清政の3男、元綱の妻、眞佐子が明治20年(1887)開校した。眞佐子は、京都中条次郎の長女。


注連石の左に「懸社日尾八幡大神」の社号碑がある。


注連石、鳥居を潜り神門左に大きな「忠魂碑」がある。
久米地区から出兵され、日清・日露・太平洋戦争で戦死された御霊をお祀りしている。揮毫者名の記載は無し。


神門を潜りお手を清め、これから本殿に向かう、石段158段を上る。


そして本殿で参拝。


正月2日の初詣、家族で参拝に来ていた。巫女さんからお守り、御札を受ける参拝者。


日尾八幡神社、拝殿と神殿。


拝殿前から158段の階段を見る、母親が幼い子の手を取り上って来る。
今年もいい年でありますように。


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