EEKの紀行 春夏秋冬

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伊予松山城 誕生411年記念日

2013年01月15日 | 伊予松山歴史散策
加藤嘉明は、慶長5年(1600)9月関ヶ原の戦いで武勲をあげ、徳川家康から伊豫ノ国20万石を拝領した。松前城が手狭となり、慶長7年(1602)1月15日、勝山に新城の築城に着手してから今年で411年を迎える。
15日本丸で伊予松山城誕生記念日祭が行われた。松山城完成には26年の長きを要したが、加藤嘉明は完成1年前に幕府の命令で会津若松に40万石で転封した。会津若松行きに付いては硬く幕府にお断りをしたが聞き入れてもらわなかった。よって完成した松山城は見る事が出来なかった。

その後、出羽国の、上ノ山城主であった、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が24万石で松山藩主となり、城が完成した。寛永11年(1634)、参勤交代の途上、京都の藩邸で急死した。享年31。死因は不明だが、兄・忠郷と同じく疱瘡が原因とも言われる。嗣子が無かったため、蒲生氏は断絶した。
寛永12年(1635)7月に伊勢ノ国、桑名城主、松平定行が15万石で松山藩主に封ぜられた。この時期に5層の天守を何故か3層の天守に改築した。以後松山藩は親藩となり維新を迎える。(松平定行は、徳川家康の異父同母弟である久松定勝の子供である。よって徳川幕府の信頼を受ける事が厚かった。)

天明4年(1784)、天守を含む本壇の主な建物が、落雷により焼失し、現在の天守は、安政元年(1854)第12代松平勝善の時に再建され、現存12天守で一番新しい天守である。
なお、松山という地名は、慶長8年(1603)10月加藤嘉明が松前城から家臣と住民ともども新城下に居を移したとき、「この地を、松山とすると公に称したのが始まりである。」


伊予松山城誕生記念日「松山城のシンボル・よしあき君」、今日は、誕生日のお祝いに来てくれてありがとう。411歳になったよ。


これは、「我輩は猫である」夏目漱石に代わって、我が輩がお祝いに来たぞな。


それでは、お祝いの餅つきをするぞな。甲冑を着た若武者が餅を搗く。
御主、なかなかやるじゃないか。


初代城主、加藤嘉明公にも搗いてもらう。


よし、各々方搗くからよく見ておれよ。


殿が搗いた振る舞い餅を頂く観光者たち。今日は松山城に来てよかった。美味しいお餅が頂けて。


地元の小学生も誕生祝に本丸まで来ました。松山城の誕生のお話を聞いて帰ろうね。


今日は、地元の報道関係者も取材に来ていた。某放送局の取材を受ける市民。


松山城天守で、安政元年に再建された現存12天守の一つ。加藤嘉明が創建した天守は5層の大きな天守だった。


伊予松山城一番の絶景の場所。今日は天候がよく、いい景観であった。


東雲口、ロープウエイ駅舎横にある「加藤嘉明の騎馬像」
コメント
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