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紀行&散策を画像を交えた紹介です

新伊予松山紀行 伊豫13佛霊場めぐり 第1番 大蓮寺

2013年01月29日 | 伊予松山歴史散策
伊予13佛霊場発願寺「明星院」から第1番霊場「大蓮寺」を巡拝、この日は風が強く、自転車移動なので大変であった。30分程掛かった。
大蓮寺のご本尊は、不動明王で、松山市東方町甲902番地3にある。国指定重要文化財・渡部家住宅の前にある。

縁起は、1300年代、孝謙天皇の勅願寺として創建とある。その後寺盛は衰退したが、弘法大師空海が四国巡錫のおり、自らの強欲を恥じたこの地の富豪・衛門三郎が小村大師堂を創建、併せて大蓮寺も再興された。この際、法相宗から真言宗に改宗されたと・・資料にある。

また、信仰、文化活動、憩いの場として地域に根ざした衛門三郎縁の寺として、地域の人々から慕われている。

山門横に大きな石碑が建立してあった。
海軍中将、秋山眞之、正岡子規と友好があり、特に子規の俳句革新に参加し俳壇で活躍した後子規とは袂を分かち、新傾向俳句に転身活躍した。当時の俳諧結社「金平会」の俳夏行に参加したとの記録が有る。旅が好きで、自然に親しみ山川草木の事如くに「佛性」あるいは「佛となるべき因」を見出した碧梧桐を偲んで地元の有志が昭和53年9月に句碑を建立したとある。

註:河東碧梧桐
河東碧梧桐明治6年2月26日 -昭和12年2月1日は、日本の俳人・随筆家。本名は秉五郎(へいごろう)。
愛媛県温泉郡千船町(現・松山市千舟町)にて松山藩士で藩校・明教館の教授であった河東坤(号・静渓)の五男として生まれる。少年の頃は正岡子規の友人で後に海軍中将となる秋山眞之を「淳さん」と敬愛していた。
明治21年、伊予尋常中学。明治22年、帰郷した子規に野球を教わったことがきっかけで、同級生の高濱清(後の高浜虚子)を誘い子規より俳句を学ぶ。

明治26年、京都の第三高等学校入学。第二高等学校(現在の東北大学)に編入の後、中退。
明治35年に子規が没すると、新聞『日本』俳句欄の選者を子規より受け継ぐ。明治38年頃より従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句に走り始め、明治39年より明治44年にかけて新傾向俳句の宣伝のため二度の全国俳句行脚を行う。
昭和8年3月25日、還暦祝賀会の席上で俳壇からの引退を表明した。昭和12年1月、腸チフスを患い、更に敗血症を併発し、2月1日に65歳にて永眠。墓所は父母が眠る松山市の宝塔寺及び東京都台東区の梅林寺に分骨されている。
書体は独特の字で、記憶に残りやすい字である。


発願寺、明星院から、第1番霊場大蓮寺に移動、この日は西風が強く移動方角は南西向かい風かなりきつかった。画像の自転車で移動。


大蓮寺正面、山門右に、河東碧梧桐の大きな句碑があった。


山門左には、寺号碑が「真言宗 豊山派 大蓮寺」


大蓮寺の本堂。


本堂から見た境内。


河東碧梧桐句碑
「山川草木悉有佛性・さんせんそうもくことごとくぶっしようあり」明治43年8月当寺に滞在、俳句結社「金平会」の俳夏行に参加した時の句といわれている。


河東碧梧桐句碑の裏面。


大蓮寺北隣にある、国指定重要文化財 渡部住宅がある。


重文、渡部住宅、門から見た画像。開館は土日のみであるが、この日は特別に空いていたので一枚撮らせて頂いた。渡部住宅は、江戸末期慶応2年に上棟された庄屋の家、江戸時代は、武家住宅は、瓦屋根が葺けたが、渡部家は庄屋と言っても百姓の家、屋根は殆ど瓦葺であるが、申し訳に一部藁葺きの屋根をあげている。

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