還熊八幡神社は、松山八社八幡第7番目の神社で、旧社格は村社である。
祭神は、品田和気命、帯中彦命、息長帯姫命、迦具都知命、である。
社伝によれば、貞観年間(859~877)越智(後の河野)氏によって、石清水八幡を勧請して創建された。
延久5年(1073)国司の源頼義により八社八幡の一つに加えられたという。八幡神は神功皇后の伝説から弓矢の神となり源氏の氏神といわれた。河野氏も源氏と深い関係をもっていたので当社への尊心は厚かった。
延元年間(1336~1339)には後醍醐天皇の皇子懐良親王が武運長久を祈願したと伝えられる。
慶長5年(1600)関ヶ原に出陣した加藤嘉明の留守をねらって河野氏の遺臣と毛利氏が来襲し、伊予松山藩家老、佃十成と戦ったとき、当神社に立て篭もった河野一族は敗北し、社殿、宝物等すべてが焼失した。
のちに、松山城に移った加藤嘉明が神社を再建し、八社八幡の一社として崇敬した。「愛媛面影」に「旅行する人此社詣(づ)れば必(ず)恙無くかへり来とて信ずる人多し。還熊と云(ふ)名によるなるべし。」とある。
この付近には多くの寺院があり、加藤嘉明が松山城築城、町割を行った時、瀬戸内海からの敵の防御策として寺を集めたといわれている。
参道鳥居横に鎮座する「還熊八幡神社」の社号碑、裏面に明治42年5月、氏子中と刻印ある。
参道中腹に鳥居がある。見た所新しいのでもしかしたら平成13年3月24日午後3時27分発生した「芸予地震」時に破損し建替えたのか??
注連石を潜り48の石段を上ると拝殿がある。
所在は、松山市山越三丁目3番2号に位置する。
神門は無く、左右の狛犬が迎えてくれる。
拝殿、奥に神殿がある。
拝殿内部で、絵馬が掲示してあり、古札も置かれていた。
拝殿には立派な社号額が掲示してある。
社号額の横に還熊八幡神社の由来の説明板が掲示してある。
拝殿奥にある神殿。
境内に大きな「戦勝記念碑」の石碑が建立してあった。裏面等々を拝察するも建立年月日が無かった。日露戦争の記念碑だろう。
参拝と境内散策も済ませて48段の石段を下り八社八幡最後の神社阿沼美神社に向かった。
祭神は、品田和気命、帯中彦命、息長帯姫命、迦具都知命、である。
社伝によれば、貞観年間(859~877)越智(後の河野)氏によって、石清水八幡を勧請して創建された。
延久5年(1073)国司の源頼義により八社八幡の一つに加えられたという。八幡神は神功皇后の伝説から弓矢の神となり源氏の氏神といわれた。河野氏も源氏と深い関係をもっていたので当社への尊心は厚かった。
延元年間(1336~1339)には後醍醐天皇の皇子懐良親王が武運長久を祈願したと伝えられる。
慶長5年(1600)関ヶ原に出陣した加藤嘉明の留守をねらって河野氏の遺臣と毛利氏が来襲し、伊予松山藩家老、佃十成と戦ったとき、当神社に立て篭もった河野一族は敗北し、社殿、宝物等すべてが焼失した。
のちに、松山城に移った加藤嘉明が神社を再建し、八社八幡の一社として崇敬した。「愛媛面影」に「旅行する人此社詣(づ)れば必(ず)恙無くかへり来とて信ずる人多し。還熊と云(ふ)名によるなるべし。」とある。
この付近には多くの寺院があり、加藤嘉明が松山城築城、町割を行った時、瀬戸内海からの敵の防御策として寺を集めたといわれている。
参道鳥居横に鎮座する「還熊八幡神社」の社号碑、裏面に明治42年5月、氏子中と刻印ある。
参道中腹に鳥居がある。見た所新しいのでもしかしたら平成13年3月24日午後3時27分発生した「芸予地震」時に破損し建替えたのか??
注連石を潜り48の石段を上ると拝殿がある。
所在は、松山市山越三丁目3番2号に位置する。
神門は無く、左右の狛犬が迎えてくれる。
拝殿、奥に神殿がある。
拝殿内部で、絵馬が掲示してあり、古札も置かれていた。
拝殿には立派な社号額が掲示してある。
社号額の横に還熊八幡神社の由来の説明板が掲示してある。
拝殿奥にある神殿。
境内に大きな「戦勝記念碑」の石碑が建立してあった。裏面等々を拝察するも建立年月日が無かった。日露戦争の記念碑だろう。
参拝と境内散策も済ませて48段の石段を下り八社八幡最後の神社阿沼美神社に向かった。