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新伊予松山紀行 松山八社八幡 4番社 雄郡神社

2013年01月09日 | 伊予松山歴史散策
雄郡幡神社は、松山八社八幡第4番目の神社で、旧社格は県社である。
祭神は、天宇受売命と八幡三神(品田和気尊、帯中日子尊、息長帯姫尊)である。
「伊豫古蹟志」に小栗の邑に国社あり、正八幡宮(雄郡神社)と曰ふ。用明天皇の元年9月5日、宇佐の神を移し祭る。社前に調馬場を置き、古き流鏑馬射祭の地なり。」とある。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いのとき、河野家遺臣と毛利勢が攻め寄せてきて、加藤嘉明の家老佃十(かず)成(なり)が迎え撃ったとき、兵火が当社にも及んで社殿社宝古文書を焼失した。昔から鎮守の森と呼び、人々は神社の樹を大切にしてきた。当社の樹林も、かってのうっそうとした樹林とは比べるべくもないが、地域の人々に守られて松山市指定の景観樹林保護地区となり、2代目の「左馬殿の松」も育っている。

社宝には「絵馬雄郡神社前景図」(万延)「左島雨乞いの図」(安政)がある。
拝殿には秋山好古揮毫「照明」の扁額が奉納(昭和3年11月)され、境内にも秋山好古揮毫「御大典記念」が建立されている。

当神社、社司に高市豫興がいる。豫興は、明治14年2月11日当神社高市源建の長男として誕生、外交官を志松山中学経て国立第一高等学校仏文科在学中父源建が他界、初心志を断念し史学に転じ明治43年3月東京帝国大学を卒業故郷に帰り父の跡目を継ぎ、請われ秋山好古が校長をしていた私立北豫中学の教鞭を執った。その後持病の肝臓の病に悩まされ学校を辞任、予後民生員として献身、昭和18年1月6日その生涯を閉じた。

神社にある秋山好古揮毫の「「照明」「御大典記念」は、豫興が北豫中学時代校長であった好古に依頼したものである。
註:高市豫興は、北豫中学で教鞭を執ったのは、明治43年(1910)9月~昭和4年(1929)7月までの20年間で、秋山好古校長が退職する10ヶ月前まで在職した。


神社の所在は、松山小栗三丁目3番19号位置する。
神社注連石右に社号碑がある。


鳥居を潜ると注連石と社号碑がある。注連石は明治13年建立とある。


注連石、鳥居を潜り神門には初能での幟が立ててある。


神門を潜るとお守り、御札受所が特設されていた。


そして拝殿で参拝。


正月2日の初詣、家族で参拝に来て初祈祷を受けて居た。


拝殿奥に秋山好古揮毫の「照明」扁額が掲示されている。


拝殿奥に神殿がある。


八社八幡の中で回廊があるのは当神社と1番社の伊佐爾波神社のみである。
回廊には奉納された沢山の絵馬が掲示されている。


境内に、秋山好古が揮毫した石碑がある。これは、昭和天皇即位の御大典記念にと昭和3年11月、地元の小栗青年団・小栗少年団が建立した。


社務所前に、第2代目「左馬殿の松」がある。
加藤左馬助嘉明の「左馬」をとって「左馬殿の松」という。
伊豫松山初代藩主、加藤嘉明のお手植え松。
初代「左馬殿の松」は昭和37年11月5日、松山市指定の天然記念物に指定された。根回り8,5m、目通り周囲4,5m、樹高50m、樹齢380年でしたが昭和58年枯れた。現在の「左馬殿の松」2代目である。


拝殿左に立派な忠霊塔がある。揮毫は、裏面に内閣総理大臣・佐藤栄作書とある。建立年月日は記載されていない。


8日に神社に行ってみたら沢山の注連飾りが境内広場に置いてあった。15日に神官が古札とともにお払いをして焼却する。
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