EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

日本100名城紀行 大分府内城

2010年05月26日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 大分府内城
 
5月20日から24日までをかけて巡った日本100名城九州指定の城紀行最後の大分府内城に向けて出発、天候は昨日とはうって変わっていい天気である。

県道28号を約40分走行し宮崎自動車道田野ICから西都ICに向け走行、途中3回消毒液を噴霧器で散布を受けた。
西都ICから国道10号線に出て東九州自動車道佐伯ICまで長い走行であった。

約5時間かけてやっと最後の訪問である大分府内城に着いた。
府内城の100名城スタンプは、大分文化会館北側2階に置いてあり誰もいない場所で何か粗末な扱いに感じた。

府内城は、3回目で以前は日本100名城指定以前に来た為スタンプが押せてなかったので今回来たのである。

府内城(ふないじょう)は大分県大分市にあった城である。大分城(おおいたじょう)とも呼ばれる。府内藩の藩庁である。
安土桃山時代後期に福原直高が築城したが福原氏改易後、江戸時代初期に竹中重利が完成させ、4重の天守が造営された。 大分市街の中心に位置する梯郭式平城である。北東隅に本丸を配し、東丸、西丸、山里曲輪が配されている。侍町である三の丸が北西から南東に大きく広がり本丸等を囲んでいる。それぞれの曲輪は堀で仕切られ、渡櫓・廊下橋で連結されていた

府内城という名称は、大分市が中世に府内と呼ばれていたことにちなみ、府内には、古代、豊後国の国衙が置かれ、鎌倉時代から戦国時代にかけては豊後国の守護職・守護大名であった大友氏の拠点であった。

1597年(慶長2年) - 12万石を得て臼杵より転封した、豊臣秀吉家臣の福原直高は、堅固な城郭を求めて大分川河口付近に築城を開始する。この地は大友氏の時代に船の荷役を行っていた場所で「荷落」という地名であったが、縁起を担ぎ地名を「荷揚」に改め、名を荷揚城としたという。
1599年(慶長4年) 4月、荷揚城完成。5月、秀吉の死後、三成派の直高は徳川家康により6万石に減封の上、再び臼杵に転封され、直高入封前に府内代官であった早川長敏が入城する。

1601年(慶長6年) 関ヶ原の戦いで西軍に付いた長敏が改易となり、竹中重利が3万5千石で入城する。直高の時代に築城された荷揚城の大改修を開始する。
1743年(寛保3年) 大火により天守を含む大部分の建造物が焼失する。以後、天守は再建されなかった。
明治5年城内に大分県庁が置かれ、大正8年 県庁の拡張工事のため内堀の一部が埋め立てられ、昭和20年 空襲により櫓数棟が焼失する。昭和38年 大分県の史跡に指定される。昭和40年 東丸着到櫓・二重櫓、西丸二重櫓、大手門を復元。平成8年 西丸と山里曲輪を結ぶ廊下橋を復元された。

大分府内城は、日本100名城第94番目の指定で、私は59番目の紀行である。

以上で日本100名城、九州指定の城紀行は完了した。
国道197号線で佐賀関港に出てフエリーで三崎港に渡り自宅に午後9時無事現着した。
今回総走行距離は1986kmであった。


画像は、戦後復元された二重櫓でその左に珍しい廊下櫓が復元されている。
    府内城の石垣は手入れが行き届いており草が全然生えてない。
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日本100名城紀行 飫肥城

2010年05月26日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 飫肥城
 
5月24日午前7時鹿児島のホテルを出発今回最終日である。
鹿児島北ICから加治木JCT経由で東九州自動車道で末吉財部ICで降り国道10号・県道501号・503号・71号・国道222号線で飫肥城着約2時間10分の走行であった。

飫肥城(おびじょう)は、日向国南部(現在の宮崎県日南市)にある城で、江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として栄え、飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城である。
戦国初期は薩摩国の戦国大名島津氏の属城で、はじめ新納氏が治めていた。1484年に日向中北部を支配する伊東氏が飫肥に侵攻し、当時の当主である伊東祐国が戦死すると、伊東氏の本格侵攻を恐れた島津氏は、領土の割譲と戦の原因となった飫肥城主の交代(このときより飫肥城は島津豊州家の支配となる)によって急場を凌いだ。

飫肥を失った伊東祐兵が羽柴秀吉に仕え、九州征伐に参加した功により、再び飫肥の地を与えられることとなった。以後、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで伊東氏の領するところとなった。江戸期、伊東氏は豊臣系の外様大名という微妙な地位ながらも飫肥の地で家名を全うしたが、ひとえに関ヶ原の合戦で東軍側にたった数少ない九州大名だったことが物を言ったのであろう。

近年では昭和53年(1978年)に大手門が復元されたほか、本丸跡には日南市立飫肥小学校(藩校の振徳堂が前身)が建てられている。
NHK連続テレビ小説わかばのロケ地になったことでも有名で城内にその説明版があった。

飫肥城は、日本100名城第96番目の指定で、私は58番目の紀行である。
この後、福岡城に行く。

画像は、昭和53年復元された大手門で入り口には口蹄疫に対する防疫マットが敷いてあり念入りに靴の消毒をして城内に入った。
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日本100名城紀行 鹿児島城

2010年05月26日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 鹿児島城

人吉城を出発する頃は大雨も一時期少雨となり一路、鹿児島城めざし高速に乗り鹿児島北ICで降り鹿児島城本丸跡にある鹿児島県歴史資料センター黎明館の駐車場に入った。

鹿児島城は慶長6年正月、初代薩摩藩主島津家久が上山城に行かれ城とその外まわりの家臣の家などの縄張りをさせ築城を開始したといわれている。
城が完成したのは慶長年間(1596年~1615年)または、寛永年間(1624年~1644年)初期で20年の歳月を要した。

背後にある城山山頂は、文和元・正平7年(1352年)に大分地方の上山氏が築いた中世の上山城で、はじめは上山城も鹿児島城に取り込まれていたが元和元年(1615年)一国一城令で上山城は取り壊され、その後江戸時代を通して城山は立ち入り禁止となった。

本丸の範囲は、堀に囲まれた一段と高い、現在の黎明館の敷地ではなく、黎明館と県立図書館の間にも堀が巡っていて、絵図は発掘調査の結果、本丸跡は、現在の県立図書館の一部と黎明館駐車場の半分を含む範囲となる。

鹿児島城は天守のない館造りであることが特徴で他の藩と比較すると規模も小さく防御機能はそれほど重視せず、藩内各地に113の外城をおき外部からの侵入に備えていた。「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」と言われるゆえんだ。

城の規模は、本丸と二ノ丸を合わせて、約12万は平方メートルで、広いようですが、熊本城の約7分の1、福岡城の2分の1でそれほど大きな規模ではない。

鹿児島城にある珍しい石垣工法を見た。県民交流センター側にある、単に直角に積み上げているのではなく、角をとるような形の造りで、これは城の北東に位置する「鬼門」の方角だから「鬼門とは陰陽道で鬼が出入りする不吉な方角で、石垣を一部欠いて災厄を除こうとしたものだそうだ。
こんな石垣工法は初めて見た。

参考資料:鹿児島県歴史資料センター黎明館

その他の散策、西郷隆盛終焉の地、西郷隆盛の銅像を見た。西郷隆盛の銅像は想像していたよりも随分と大きかった。



鹿児島城は、日本100名城第97番目の指定で、私は57番目の紀行である。
この後、明日5月24日は、飫肥城と府内城に行った。

画像は、県民交流センター側にある、単に直角に積み上げているのではなく、角をとるような形の造りで、これは城の北東に位置する「鬼門」の方角だから「鬼門とは陰陽道で鬼が出入りする不吉な方角で、石垣を一部欠いて災厄を除こうとしたものだそうだ。

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日本100名城紀行 人吉城

2010年05月26日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 人吉城
 
5月23日(日)第27回九州マイクロウエーブ・ミィテイング大分大会会場を午前7時に出発、日本100名城紀行を再開する事にした。
別府ICに乗り由布岳PAから降雨が酷くそのうえ深い濃霧で走行50Kmで日田ICでやっと霧が晴れ100km走行しかし大雨である。

鳥栖JCTで九州自動車道の乗り一路人吉城目指して走行人吉市に入り球磨川に掛かる橋を渡る、なんと球磨川が濁流が凄い。後で分かったのだが国道が灌水し通行止め、JRも運行中止したそうだ。そのくらい大雨であった。

さて、人吉城見学、車を市役所の駐車場に置き散策開始、日曜日だが市役所の職員、宮崎で発生した口蹄疫に対する防疫措置作業で日曜出勤していた。

人吉城(ひとよしじょう)は熊本県人吉市麓町にある平山城跡。相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり在城し、江戸時代には人吉藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。

人吉城は市内中央部を流れる球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に築かれており、球磨川と胸川を北側と西側の天然の堀とし、東側と南側は山の斜面を天然の城壁とし巧みに自然を利用している。球磨川沿いに三の丸を配し、その南に二の丸、さらに丘陵上に本丸が配されている、梯郭式の平山城である。本丸には天守は築かれず護摩堂があったといわれる。

幕末に築かれた石垣の一部には、槹出工法(はねだしこうほう)を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の石垣がある。この武者返しは城壁最上部に平らな石がやや突き出して積んであり、ねずみ返しのように城壁越えを阻止すると共に、割合簡単に落下させられるようになっており、城壁に張り付いた敵への攻撃にもなるようにしている。この城壁は日本では他には函館の五稜郭にしかない珍しいものである。

現在の城跡は「人吉城公園」として整備され櫓や塀が復元されている。また、城址の西側には人吉市役所、相良護国神社がある。
戦国時代の相良氏は南の島津氏や北原氏、北の大友氏などに絶えず脅かされよく耐えていたが天正9年(1581年)に島津氏に降伏し臣従する。その後、義陽の子・相良頼房は天正15年(1587年)羽柴秀吉の九州征伐の際に奮戦するもこれに降伏、家臣・深水長智の交渉により再び独立領主として人吉城と領地を安堵された。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初は石田三成方(西軍)に付き伏見城などを攻めるが、本戦で石田方が敗れると徳川方(東軍)に内応し戦功を挙げ、徳川家康より2万2千石の領地を安堵された。

明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となった。明治10年(1877年)に起こった西南戦争では西郷隆盛軍の拠点となり戦闘が行われ、この際に幕末に再建された建造物も全焼した。

以上は人吉城歴史館で頂いた資料より

人吉城は、日本100名城第93番目の指定で、私は56番目の紀行である。
この後、福岡城に行く。

画像は、平成19年復元された、堀合門で形式は薬医門、右の石垣は最上部に平らな石がやや突き出して積んであり、ねずみ返しのように城壁越えを阻止すると共に、割合簡単に落下させられるようになっており、城壁に張り付いた敵への攻撃にもなるようにしている。この城壁は日本では他には函館の五稜郭にしかない珍しいものである。
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第27回 九州マイクロウエーブ・ミーテイング・イン大分大会

2010年05月26日 | 往年の名車 メグロ
第27回 九州マイクロウエーブ・ミーテイング・イン大分大会

日本100名城九州指定城紀行、島原城で一旦中断して九州マイクロウエーブ・ミーテイング・イン大分大会に参加するため島原から高速フエリーで熊本に渡り、九州自動車道・大分自動車道で別府市に向った。・・湯布院から降雨となった。

九州のアマチュア無線、「マイクロ波」バンドの普及は、標記の大会が基盤となり普及してきた。
九州のマイクロバンドの運用は殆どがATV運用で全国でも最先端の技術を持っていて最近はデジタルATVに移行、バンドは5600MHzから47GHz帯での運用である。
別府市で久しぶりにアマチュア無線「マイクロ波帯愛好局」と再会した。

来年度は、佐賀県で第28回が行われる。

私もマイクロ波バンド1200MHzから77GHzまでを運用している。
松山市でも「マイクロ波」バンドの普及に寄与しようと平成8年から毎年開催していて、今年も開催する。

松山SHF集会には、マイクロウエーブ大分から大勢の局長さんの参加を頂いています。
この御礼の意味を兼ねて大分大会私市別府市に伺った。

1、開催日時 平成22年5月22日(土)13時00分~23日(日)朝食後閉会
2、場  所  大分県別府市 花菱ホテル

画像は、第27回・九州マイクロウエーブ・ミーテイング・イン大分大会記念写真。
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