日本100名城紀行 大分府内城
5月20日から24日までをかけて巡った日本100名城九州指定の城紀行最後の大分府内城に向けて出発、天候は昨日とはうって変わっていい天気である。
県道28号を約40分走行し宮崎自動車道田野ICから西都ICに向け走行、途中3回消毒液を噴霧器で散布を受けた。
西都ICから国道10号線に出て東九州自動車道佐伯ICまで長い走行であった。
約5時間かけてやっと最後の訪問である大分府内城に着いた。
府内城の100名城スタンプは、大分文化会館北側2階に置いてあり誰もいない場所で何か粗末な扱いに感じた。
府内城は、3回目で以前は日本100名城指定以前に来た為スタンプが押せてなかったので今回来たのである。
府内城(ふないじょう)は大分県大分市にあった城である。大分城(おおいたじょう)とも呼ばれる。府内藩の藩庁である。
安土桃山時代後期に福原直高が築城したが福原氏改易後、江戸時代初期に竹中重利が完成させ、4重の天守が造営された。 大分市街の中心に位置する梯郭式平城である。北東隅に本丸を配し、東丸、西丸、山里曲輪が配されている。侍町である三の丸が北西から南東に大きく広がり本丸等を囲んでいる。それぞれの曲輪は堀で仕切られ、渡櫓・廊下橋で連結されていた
府内城という名称は、大分市が中世に府内と呼ばれていたことにちなみ、府内には、古代、豊後国の国衙が置かれ、鎌倉時代から戦国時代にかけては豊後国の守護職・守護大名であった大友氏の拠点であった。
1597年(慶長2年) - 12万石を得て臼杵より転封した、豊臣秀吉家臣の福原直高は、堅固な城郭を求めて大分川河口付近に築城を開始する。この地は大友氏の時代に船の荷役を行っていた場所で「荷落」という地名であったが、縁起を担ぎ地名を「荷揚」に改め、名を荷揚城としたという。
1599年(慶長4年) 4月、荷揚城完成。5月、秀吉の死後、三成派の直高は徳川家康により6万石に減封の上、再び臼杵に転封され、直高入封前に府内代官であった早川長敏が入城する。
1601年(慶長6年) 関ヶ原の戦いで西軍に付いた長敏が改易となり、竹中重利が3万5千石で入城する。直高の時代に築城された荷揚城の大改修を開始する。
1743年(寛保3年) 大火により天守を含む大部分の建造物が焼失する。以後、天守は再建されなかった。
明治5年城内に大分県庁が置かれ、大正8年 県庁の拡張工事のため内堀の一部が埋め立てられ、昭和20年 空襲により櫓数棟が焼失する。昭和38年 大分県の史跡に指定される。昭和40年 東丸着到櫓・二重櫓、西丸二重櫓、大手門を復元。平成8年 西丸と山里曲輪を結ぶ廊下橋を復元された。
大分府内城は、日本100名城第94番目の指定で、私は59番目の紀行である。
以上で日本100名城、九州指定の城紀行は完了した。
国道197号線で佐賀関港に出てフエリーで三崎港に渡り自宅に午後9時無事現着した。
今回総走行距離は1986kmであった。
画像は、戦後復元された二重櫓でその左に珍しい廊下櫓が復元されている。
府内城の石垣は手入れが行き届いており草が全然生えてない。
5月20日から24日までをかけて巡った日本100名城九州指定の城紀行最後の大分府内城に向けて出発、天候は昨日とはうって変わっていい天気である。
県道28号を約40分走行し宮崎自動車道田野ICから西都ICに向け走行、途中3回消毒液を噴霧器で散布を受けた。
西都ICから国道10号線に出て東九州自動車道佐伯ICまで長い走行であった。
約5時間かけてやっと最後の訪問である大分府内城に着いた。
府内城の100名城スタンプは、大分文化会館北側2階に置いてあり誰もいない場所で何か粗末な扱いに感じた。
府内城は、3回目で以前は日本100名城指定以前に来た為スタンプが押せてなかったので今回来たのである。
府内城(ふないじょう)は大分県大分市にあった城である。大分城(おおいたじょう)とも呼ばれる。府内藩の藩庁である。
安土桃山時代後期に福原直高が築城したが福原氏改易後、江戸時代初期に竹中重利が完成させ、4重の天守が造営された。 大分市街の中心に位置する梯郭式平城である。北東隅に本丸を配し、東丸、西丸、山里曲輪が配されている。侍町である三の丸が北西から南東に大きく広がり本丸等を囲んでいる。それぞれの曲輪は堀で仕切られ、渡櫓・廊下橋で連結されていた
府内城という名称は、大分市が中世に府内と呼ばれていたことにちなみ、府内には、古代、豊後国の国衙が置かれ、鎌倉時代から戦国時代にかけては豊後国の守護職・守護大名であった大友氏の拠点であった。
1597年(慶長2年) - 12万石を得て臼杵より転封した、豊臣秀吉家臣の福原直高は、堅固な城郭を求めて大分川河口付近に築城を開始する。この地は大友氏の時代に船の荷役を行っていた場所で「荷落」という地名であったが、縁起を担ぎ地名を「荷揚」に改め、名を荷揚城としたという。
1599年(慶長4年) 4月、荷揚城完成。5月、秀吉の死後、三成派の直高は徳川家康により6万石に減封の上、再び臼杵に転封され、直高入封前に府内代官であった早川長敏が入城する。
1601年(慶長6年) 関ヶ原の戦いで西軍に付いた長敏が改易となり、竹中重利が3万5千石で入城する。直高の時代に築城された荷揚城の大改修を開始する。
1743年(寛保3年) 大火により天守を含む大部分の建造物が焼失する。以後、天守は再建されなかった。
明治5年城内に大分県庁が置かれ、大正8年 県庁の拡張工事のため内堀の一部が埋め立てられ、昭和20年 空襲により櫓数棟が焼失する。昭和38年 大分県の史跡に指定される。昭和40年 東丸着到櫓・二重櫓、西丸二重櫓、大手門を復元。平成8年 西丸と山里曲輪を結ぶ廊下橋を復元された。
大分府内城は、日本100名城第94番目の指定で、私は59番目の紀行である。
以上で日本100名城、九州指定の城紀行は完了した。
国道197号線で佐賀関港に出てフエリーで三崎港に渡り自宅に午後9時無事現着した。
今回総走行距離は1986kmであった。
画像は、戦後復元された二重櫓でその左に珍しい廊下櫓が復元されている。
府内城の石垣は手入れが行き届いており草が全然生えてない。