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日本100名城紀行 人吉城

2010年05月26日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 人吉城
 
5月23日(日)第27回九州マイクロウエーブ・ミィテイング大分大会会場を午前7時に出発、日本100名城紀行を再開する事にした。
別府ICに乗り由布岳PAから降雨が酷くそのうえ深い濃霧で走行50Kmで日田ICでやっと霧が晴れ100km走行しかし大雨である。

鳥栖JCTで九州自動車道の乗り一路人吉城目指して走行人吉市に入り球磨川に掛かる橋を渡る、なんと球磨川が濁流が凄い。後で分かったのだが国道が灌水し通行止め、JRも運行中止したそうだ。そのくらい大雨であった。

さて、人吉城見学、車を市役所の駐車場に置き散策開始、日曜日だが市役所の職員、宮崎で発生した口蹄疫に対する防疫措置作業で日曜出勤していた。

人吉城(ひとよしじょう)は熊本県人吉市麓町にある平山城跡。相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり在城し、江戸時代には人吉藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。

人吉城は市内中央部を流れる球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に築かれており、球磨川と胸川を北側と西側の天然の堀とし、東側と南側は山の斜面を天然の城壁とし巧みに自然を利用している。球磨川沿いに三の丸を配し、その南に二の丸、さらに丘陵上に本丸が配されている、梯郭式の平山城である。本丸には天守は築かれず護摩堂があったといわれる。

幕末に築かれた石垣の一部には、槹出工法(はねだしこうほう)を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の石垣がある。この武者返しは城壁最上部に平らな石がやや突き出して積んであり、ねずみ返しのように城壁越えを阻止すると共に、割合簡単に落下させられるようになっており、城壁に張り付いた敵への攻撃にもなるようにしている。この城壁は日本では他には函館の五稜郭にしかない珍しいものである。

現在の城跡は「人吉城公園」として整備され櫓や塀が復元されている。また、城址の西側には人吉市役所、相良護国神社がある。
戦国時代の相良氏は南の島津氏や北原氏、北の大友氏などに絶えず脅かされよく耐えていたが天正9年(1581年)に島津氏に降伏し臣従する。その後、義陽の子・相良頼房は天正15年(1587年)羽柴秀吉の九州征伐の際に奮戦するもこれに降伏、家臣・深水長智の交渉により再び独立領主として人吉城と領地を安堵された。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初は石田三成方(西軍)に付き伏見城などを攻めるが、本戦で石田方が敗れると徳川方(東軍)に内応し戦功を挙げ、徳川家康より2万2千石の領地を安堵された。

明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となった。明治10年(1877年)に起こった西南戦争では西郷隆盛軍の拠点となり戦闘が行われ、この際に幕末に再建された建造物も全焼した。

以上は人吉城歴史館で頂いた資料より

人吉城は、日本100名城第93番目の指定で、私は56番目の紀行である。
この後、福岡城に行く。

画像は、平成19年復元された、堀合門で形式は薬医門、右の石垣は最上部に平らな石がやや突き出して積んであり、ねずみ返しのように城壁越えを阻止すると共に、割合簡単に落下させられるようになっており、城壁に張り付いた敵への攻撃にもなるようにしている。この城壁は日本では他には函館の五稜郭にしかない珍しいものである。
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