EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山兄弟生誕地 生家の井戸 

2010年05月13日 | 往年の名車 メグロ
秋山兄弟生誕地 生家の井戸 

兄弟生誕地の建造物は、昭和20年7月26日の松山空襲で焼失され現在残っている物は昭和12年建立の記念石碑と、天保年間に父平五郎久敬が造った井戸のみである。

画像は、江戸時代から残っている唯一の井戸である。
井戸水は現在も湧き出ており自動ポンプで汲み上げ庭木の水として利用している。
深さは約5mあり井戸側は、昔風に平成17年1月18日生誕地整備事業の一環として作り変えた。

秋山兄弟もこの井戸水を使って成長したと思えば感慨深いものがある。
兄弟の事を今も知っているのはこの井戸だけである。

注連飾りは、毎年、秋山兄弟支援者が作ってくれている。特に玄関に飾る注連飾りは手の込んだ凄い注連飾りである。
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秋山兄弟生誕地 旧生家

2010年05月13日 | 往年の名車 メグロ
秋山兄弟生誕地 旧生家  

画像は、戦前の秋山邸で、昭和20年7月26日松山空襲で焼失される以前の建物である。
秋山家第6代平五郎久敬が天保年間(1831年~1843年)に建築した家を大正13年4月に北豫中学校校長としてこの生家に単身赴任し改築、増築した。
画像上は秋山邸の正面玄関で左に蔵がある。この蔵に好古、眞之の遺品があったが殆ど愛媛県に寄贈した。その遺品は愛媛県生涯学習センタ展示館に展示されている。

画像中は、生家裏(北側)にあった庭で好古は、学校から帰ると一人露天食卓で静かに物思いに耽っていた。大好きな酒を嗜んでいたのではないか。
この時代は、ビルは無く伊予松山城天守が見えたそうである。
現在の生家は、表に好古・眞之の銅像建立の為後ろに引いて再建したので庭は狭くなっている。

画像下は、戦前の生家全容で、コンクリートの塀は以前は竹垣であったが、新田長次郎の勧めで作り変えたとある。
現在の生家と形が違っているのは、好古が増改築したためで、再建した生家は平五郎久敬が建築した当初のものとして内部復元・外観復興した。

好古は、この家から大正13年4月から昭和5年3月まで6年間、北豫中学校校長時代を単身で過ごし、この間一日も学校を休むことなく、登校時間も生徒より早く行き校門で一人一人の生徒に朝の挨拶をしていたと言う。道筋の皆さんは好古を見ると時計の針を修整するくらい決まった時間に登校していた。

昭和5年7月故郷松山を最後に上京、途中大阪の親友である新田長次郎宅を訪れ一晩を過ごし東京に旅立ち、再び長次郎と会うことなく10月15日体調が悪化し陸軍病院に入院、11月4日逝去した。これを聞いた新田長次郎は、好古さんは最後の別れに来てくれたのであったか・・もっとお話をしたかったと涙を流し悔やんだそうだ。

奇しくも私の父親が秋山好古北豫中学校校長最後の教え子である。(昭和5年3月卒)


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秋山兄弟生誕地 記念石碑

2010年05月13日 | 往年の名車 メグロ
秋山兄弟生誕地 記念石碑 

昭和12年7月に財界人有志によって秋山兄弟生誕地保存運動がすすみ、完成したのを記念して建立した。好古の友人である井上要、新田長次郎そして眞之を信奉しその死を見取った山下亀三郎などの名士の名前が刻印されている。

石碑の題額「秋山両将邸之碑」を陸軍大将、南 次郎が揮毫している。
碑文は、井上要氏が選書している。

兄弟生誕地の建造物は、昭和20年7月26日の松山空襲で焼失され現在残っている物はこの記念碑と天保年間に父平五郎久敬が造った井戸のみである。
石碑は、空襲で焼かれ破損が酷く、平成13年3月24日午後3時27分に発生した芸予地震、松山市は震度5強の揺れに耐え切れず倒壊、補強して生誕地奥の北側に移設した。

註:題額揮毫の陸軍大将、南 次郎について

 南 次郎は、(明治7年8月10日―昭和30年12月5日)軍人にして政治家である。陸軍士官学校卒業後、騎兵少尉に任官以後、騎兵の実戦部隊の一員として日露戦争に出陣、好古の部下で大尉の身をもって功四級の金鵄勲章を授与された。その南が昭和5年、陸軍大将となり、翌年、陸軍大臣になる南次郎は大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)の生まれ、家は代々日出藩木下家(二万五千石)の家臣で、家格は家老に次ぐ御用人である。
第二次世界大戦後、満州事変の責任でA級戦犯に指名され、東京裁判で終身禁固刑となるが拘置所内で体調を患い昭和29年仮釈放された。

参考事項:千葉県習志野市大久保にある東邦大学内に、南次郎揮毫の四面角の立派な石碑が建立してある。東邦大学は元騎兵第13連隊の跡地で日露戦争開戦時は、好古も南次郎もここから出陣しこの地に凱旋したのである。「好古は、騎兵第一旅団長として出陣、南次郎もこの地から身分?」


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秋山兄弟生誕地 武道場 2

2010年05月13日 | 往年の名車 メグロ
秋山兄弟生誕地 武道場 2 

画像は、毎年、秋山好古生誕祭(1月7日生まれ)に行われている柔道場で柔道部と合気道部の合同練習事始(鏡開き)である。(今年の好古生誕祭は1月11日に開催した)

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秋山兄弟生誕地 武道場 

2010年05月13日 | 往年の名車 メグロ
秋山兄弟生誕地 武道場  

秋山生誕地生家と隣接してあるお寺のような建物!これが柔道場である。
昭和20年4月、愛媛県が青少年練成道場として松山市御幸町・愛媛県護国神社の後ろに建てたものを、昭和24年に生誕地に移築されたもので当時は、児童福祉会館や県の行事に使われていた。愛媛県保育専門学校の生徒もここで勉学した。

昭和28年、(財)常盤同郷会が発足時に県から払い下げられそれ以来柔道場として使われていたが現在では、合気道も行われている。

なぜ柔道場かというと、眞之が同輩達と松山同郷会を結成し柔道を教えていた精神を受
け継いでいる為である。終戦当時柔道場もなかったので盛んに使われ、柔道大会も頻繁
に開催されていたが時代と共に中心部に子供が減り他所にも道場が出来下火になり平成7年河東杯を最後に柔道大会は開かれてない。現在は、柔道と合気道をボランティァの先生方が子に教えている。

 建物は、傷みが激しく危険な状態であったので、秋山兄弟生家復興復元建設の募金の中から一定額を限度として修復し安全性を高めるとともに柔道北側の空き地にトイレ・シャワー・ロッカールームを設置し同郷会事務所も併設した。 

柔道場は、柔道の他合気道、講演会、研修会、町内会の会合等々に利用し常盤同郷会本来の目的である「青少年育成活動」の為に友好に使用することになっている。

画像は、左の寺院様式の建物が柔道場である。観光にお越しになった方々は何故お寺があるのですかとよく質問を受けます。


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